小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』

髄心院 はねず踊
小野小町は男だった⑨ 関寺小町『小野小町は織姫と習合されている?』 より続く
①百夜通い
3月の終わりごろ,随心院では遅咲きの梅・はねずの梅が満開となり、梅園のかたわらでは童女たちによって『はねず踊り』が奉納される。
随心院は小野小町の邸宅があった場所だと伝わり、小町を慕う深草少将が百夜通いしたという伝説が残る。
『はねず踊り』はこれを題材としたものである。
深草少将の百夜通い伝説は随心院だけでなく、各地にある。
その一般的なあらすじは次のようなものだ。
小町を慕う深草少将に小町は「百日間私のもとに通いとおしたならば、あなたのものになりましょう」と約束をする。
深草少将は毎夜小町のもとに通い続けるが、今日で100日目という雪の夜に凍えて死んでしまう。
随心院に伝わる百夜通い伝説はこれとは少し異なっている。
99日目に小町は「1日足りないがまあお入り」と扉を開ける。
するとそこに立っていたのは深草少将ではなく別人だった。
深草少将は毎日熱心に小町のもとへ通っていたのだが、その日に限って代理人をたてていたのだった。

髄心院 梅園
②お百度参り
小町伝説の『百夜通い』という発想はどこからくるのだろうか。
友人に質問してみたところ「お百度参りと関係があるのではないか。」とアドバイスしてくれた。
お百度参りは現在では1日に百度参るというスタイルをとるのが一般的だが、もともとは100日間毎日参拝するというのが正式な作法だった。
『吾妻鏡』には『1189年奥州追討を祈願して御台所御所中の女房数名に鶴ヶ岡八幡宮にお百度参りをさせた』という記述があり、1189年にはお百度参りをする習慣があったことがわかる。
小野小町が活躍したのはこれよりももう少し早い平安時代前期だが、すでにお百度参りの習慣があった可能性はないとはいえない。
またお百度参りの習慣が生じたのちの時代に『百夜通い伝説』が、創作された可能性もある。
ところが深草少将は99日目で死んでしまったり、代理人をたてたりしたため、お百度参りは達成できなかったということだろうか?

髄心院 桜
③重陽
このように深草少将は99に縁の深い人である。
そして小野小町は100と縁が深く、たとえば関寺小町では百歳の老婆として登場している。
しかし小町は100だけではなく99とも関係がある。
というのは、伊勢物語に「九十九髪」の段があり、次のような物語が記されているのだ。
昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。
三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。
在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。
ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)
その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。
さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)
在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。 (伊勢物語)
※伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。
「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのか、はっきりしない)
九十九は「つくも」と読むが、「つくも」とは「つぎもも(次百)」という意味である。
100ひく1は99となるが、百ひく一は白となるので九十九髪とは白髪のことであるという。
なかなか洒落た表現である。
さらに十(じゅう)の音は重(じゅう)に通じるので、九十九は九重九という意味なのではないだろうか。
九重九とは九に九を重ねるということで、重陽を意味しているのではないか。
重用とは9月9日のことで、9がふたつ重なるので重陽の節句と言われている。

菊の被綿(法輪寺)
重陽の節句の前夜、菊の花に綿をかぶせ、翌朝、綿についた雫で体を撫でると長寿になると言われている。
陰陽道では奇数は陽、偶数は陰の数字とされていた。
そして月と日が同じ一桁の陽の数字の日は陽+陽=陰になると考えられて避邪の行事が行われていた。
月と日が同じ一桁の陽の数字の日とは、1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日だが、1月1日は元旦で特別な日だとされたためか、この日は外され1月7日とされた。
すなわち1月7日(七草の節句)・3月3日(桃の節句)・5月5日(菖蒲の節句)・7月7日(笹の節句)・9月9日(菊の節句)が五節句とされた。
五節句は、しだいに避邪の行事という意味合いが薄れ、おめでたい日として祝われるようになっていった。
特に9月9日は一桁の奇数としては最も大きい数字であるので重陽の節句ともいわれ、大変おめでたい日とされた。

菊滋童の像(法輪寺)
重用の節句は菊の節句とも呼ばれるが、これは旧暦の9月9日ごろは菊が見ごろを迎える時期であるというだけの意味ではないだろう。
日本神話に菊理媛神という女神が登場するが、菊理媛神はククリヒメノミコトと読む。
つまり、菊とはククで、ククは九九で重陽につながるのである。
また妙性寺縁起(小野小町の謎⑦ 妙性寺縁起)では、小町は次のような歌を詠んだことになっている。
九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)
ここに九重とでてくる。
九重とはいくえにも重なっている様子を意味する言葉で、また宮中を意味する言葉でもあった。
さらに九重とは九が重なるということで、重陽を意味しているのではないだろうか。

木地師資料館の惟喬親王像
●惟喬親王と菊
小野小町の謎② 六歌仙は怨霊だった。において、私は次のようなことを書いた。
「惟喬親王は文徳天皇の長子で母親は紀静子だった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考え、これを源信に相談したが、源信は当時の権力者・藤原良房に憚ってこれをいさめた。
結局、惟喬親王を皇太子にしたいという文徳天皇の希望はかなえられず、藤原良房の娘・明子との間に生まれた惟仁親王が立太子し、8歳で即位した。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王はたびたび歌会を催した。
その歌会のメンバーの中に、在原業平・僧正遍照・、紀有恒(紀名虎の息子。喜撰法師は紀名虎または有常のことではないかといわれている。)らの名前がある。
彼らは惟喬親王をまつりあげ、歌会と称してクーデターを企てていたのではないかとする説もある。」
と。

ろくろ 木地師の里(滋賀県東近江市蛭谷)
惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師の用いる轆轤を発明したという。
滋賀県東近江市の大皇器地祖神社(おおきみちそじんじゃ)ではこの惟喬親王を木地師の祖として祀っている。
そしてこの大皇器地祖神社のある小椋の里の木地師は十六弁の菊の紋章の使用を許されている。
なぜ彼らは十六弁の菊の紋章の使用を許されたのだろうか。
それは彼らが木地師の祖として祀る惟喬親王が菊に縁の深い人物であるからではないだろうか。

大皇器地祖神社
惟喬親王は京都の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があるのだが、この法輪寺では9月9日に重陽神事を行っている。
法輪寺の重陽神事ではたくさんの菊が飾られ、菊のしずくを飲んで800年の長寿を得たという菊滋童の舞が行われた。
京都市中京区河原町通二乗上ル清水町に法雲寺という寺がある。
高層ビルの谷間にあってお世辞にも風情があるとはいえないこの寺の境内に菊野大明神が祀られている。

ご神体は深草少将が腰掛けたという石だと聞いたのだが、柵で囲まれているので御神体の石がどこにあるのかわからなかった。
深草少将は99日目の夜に死んでしまい、深草少将腰掛石にはその恨み籠もっているので男女の仲を裂くといわれている。
京都では婚礼の時には決して菊野大明神の傍を通らないという。
また縁切りのご利益があるということで、離婚や禁煙を祈願する人も数多く参拝する。
惟喬親王を祀る大皇器地祖神社の氏子である小椋の里の木地師は十六弁の菊の紋章の使用を許されていた。
また惟喬親王の伝説が残る京都法輪寺では重陽神事が行われ、菊滋童の舞が奉納されている。
このように惟喬親王は菊と関係が深いように思われる。
深草少将腰掛石がある神社を菊野大明神というのは、深草少将のモデルが惟喬親王であるからではないのだろうか。
惟喬親王は小野宮と呼ばれており、また小野の里に隠棲するなど、小野小町とは関係が深いように思われる。
井沢元彦氏は小野小町は惟喬親王の乳母ではないかとしておられるが、そうではなく惟喬親王は深草少将のモデルで、小野小町とは惟喬親王が恋い慕った女性のことなのではないだろうか?
次回、これについてもう少し詳しく考えてみたい。

菊滋童の舞 (法輪寺 重陽神事)
小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった? へつづく~
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