
白峯神宮 小町踊小野小町は男だった⑧ 雨乞い小町 『小野小町は弁財天・イチキシマヒメ・善女竜王と習合されている。』 よりつづく
●七夕と小町踊り七夕の夕暮れ、星を祭る関寺の境内で小野小町は自分の若き日の思い出を歌いながら舞った。
小町は百歳を越えた老女となっており、人々は絶世の美女の変わり果てた姿を憐れに思う。
(謡曲『関寺小町』)関寺小町では七夕の日に小町が舞を舞うという話になっているが、七夕と小町は関係が深い。
前回の記事 においても小町が
千早振る 神も見まさば 立ちさわぎ 天のと川の 樋口あけたべと歌を詠んでいることを紹介した。
天のと川とは「天の川」のことであり、七夕には牽牛と織姫が1年に1度の逢瀬を楽しむとされている。
かつて七夕の日には童女たちが歌を歌いながら路地で小町踊を踊る習慣が各地にあった。
現在では路地で小町踊を踊る風景は見られなくなったが、京都の白峯神宮では七夕の日に小町踊の奉納がある。
童女たちは頭には紫色のターバンを巻き、着物の片袖を脱いで、太鼓や鉦をたたきつつ輪になって踊る。
化粧をほどこした童女たちの表情はときどき大人っぽく見え、妙に色っぽかったのを思い出す。

白峯神宮 小町踊
太鼓や鉦をたたきつつ輪になって踊るというのは念仏踊りである。
小町踊は念仏踊の一種なのである。
念仏踊とは南無阿弥陀仏と唱えつつ太鼓や鉦をたたいて踊るというもので、平安時代の僧・空也が始めたとされる。
空也は南無阿弥陀仏と唱えさえすれば誰でも極楽浄土へ行けると説いた。
つまり念仏踊とは死者を極楽浄土へ送り届けるための踊りであり、念仏踊の一種と思われる小町踊もまた死者を極楽浄土へ送る踊りだといえるだろう。
空也堂 空也踊躍念仏●七夕は荒霊と和霊を和合させる神事である。七夕伝説は中国から伝わったものである。
天の川の西は天人の世界であり、天帝には働き者の娘・織姫がいた。
織姫は化粧もせずに機織ばかりしているので、天帝は嫁に行けないのではないかと心配になった。
そこで、天の川の対岸(東)で牛の世話をしていた働き者の牽牛と結婚させた。
ところが織姫と牽牛は新婚生活が楽しくて仕事をしなくなってしまった。
見かねた天帝はふたりを天の川の西と東に引き離した。
しかし、年に一度、7月7日だけは、かささぎの群れが天の川に橋をかけてくれて、ふたりは逢瀬を楽しむ。織姫星とは「こと座」の一等星・ベガ、牽牛星は天の川を挟んでベガの対岸にある「わし座」の一等星・アルタイルのことである。
旧暦ではお盆は7月15日を中心とした行事であり、7月7日はお盆の入りの行事であった。
お盆にはは地獄の釜の蓋が開き、お精霊さん(先祖の霊)があの世からこの世へ戻ってくると考えられた。
そんなお盆の入りの行事がなぜ七夕なのだろうか。
七夕は織女と牽牛が1年に1度逢瀬を楽しむというが、ふつうに考えると、何も先祖の霊が戻ってくるお盆の時期に逢引しなくてもよさそうなものだ。
神はその現れ方によって御霊(神の本質)、荒霊(神の荒々しい側面)、和霊(神の和やかな側面)に分けられるという。
そして荒霊は男神、和霊は女神とする説がある。
とすれば、御霊とは男女双体である。
御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神日本では古くから神仏は習合して信仰されていたが、仏教の神(みほとけ)・大聖歓喜天の説話はこの概念を表したものだと思う。
鬼王ビナヤキャの祟りで国中に不幸な出来事がおこった。
そこで十一面観音はビナヤキャの女神に姿を変え、ビナヤキャの前に現われた。
ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、『自分のものになれ』と命令した。
女神は『仏法を守護することを誓うならおまえのものになろう』と言い、ビナヤキャは仏法守護を誓った。 双身歓喜天像の相手の足を踏みつけているほうが、十一面観音菩薩の化身ビナヤキャ女紳とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%93%E5%96%9C%E5%A4%A9#mediaviewer/File:Icon_of_Shoten.jpg動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。(詳しくはこちらをお読みください。→
小野小町は男だった⑥ 小野小町は衣通姫の流なり 『小野小町は和魂だった?』※書き直しました。 )
男神は荒霊、女神は和霊であり、男女和合は荒霊を御霊に転じさせる呪術であったと私は思う。
お盆には死んだ人の霊が戻ってくると考えられたが、その中には恨みを抱いて死んでいった人の霊もある。
恨みを抱いて死んだ人の霊は、死後、怨霊となって祟ると考えられていた。
怨霊は荒霊と言ってもいいだろう。
そこでそのような荒霊がこの世に戻ってきて、祟らないように、女神と和合させる必要があると考えられたのではないだろうか。
お盆にこの世に戻ってくる荒霊の代表が牽牛、荒霊と和合する和霊が織姫というわけである。
河治温泉 道祖神 (道祖神は歓喜天と習合されているのではないだろうか。)●牽牛とは艮(丑寅)=鬼である。牽牛という名前は大変興味深い。
牽牛とは「牛を牽く人」という意味だが、牽牛はまだ年の若い青年のようなので童子と言ってもいいかもしれない。
すると牽牛は「牛を牽く童子」という意味になるが、「牛を牽く童子」とは干支の艮(丑寅)を表すものである。
牛は丑、童子は八卦では艮(丑寅)をあらわしている。
葵祭 牛を牽く童子かつて宮中では大寒の日に牛を牽く童子の像を諸門に置き、節分の日に撤去するということが行われていた。
牛は干支の丑で12か月では12月を表す。
童子は干支の艮(丑寅)で丑は12月、寅は1月なので1年の変わり目を表す。
そしてかつては旧暦と二十四節気という二つの暦を併用していたのだが、節分とは二十四節気の立春の前日のことであった。
二十四節気では立春が正月となり、また旧暦の正月ともだいたい同時期であった。
大寒の日に牛を牽く童子の像を諸門に置き、節分の日に撤去するというのは、目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものであったのである。

飛鳥坐神社 おんだ祭
丑を牽いて田を耕す天狗は牽牛でもあると思う。
そのあとおかめが登場して夫婦和合のしぐさが演じられる。おかめは織姫だろう。

そして丑寅は方角では東北で東北は鬼の出入りする方角、鬼門として忌まれた。
また吉備津彦が退治した温羅という鬼は「丑寅御前」とも呼ばれており、丑寅は鬼そのものを表す言葉でもあった。
石清水八幡宮 鬼やらい神事
鬼の角は牛(丑)を、パンツは虎(寅)をあらわすといわれる。ということは、牽牛=牛(丑)をひく童子(丑寅)=鬼となる。
牽牛とは鬼であったのだ。
鬼とは荒霊であるといってもいいだろう。
白峯神宮にて織姫は織物を得意としているが、織物とは経糸と横糸を絡み合わせることによってつくられる。
「ダビンチ・コード」には、男は記号Λ、女は記号∨であらわされると記されてあったが、これと同様に経糸は男、横糸は女性で織物とは男女和合を表すのではないだろうか。
そして織姫とは荒霊である男神と和合することで荒霊を御霊に転じさせる女神という意味ではないかと私は考えている。
●小野小町の男性遍歴小野小町の謎⑥ 小野小町は衣通姫の流なり において私は猿田彦と天鈿女は大聖歓喜天と習合されており、天鈿女は性の女神であると言った。
天鈿女は猿田彦神に会ったときには、胸を開き、腰紐をずらしている。
天鈿女はビナヤキャ女神のように性的に猿田彦神を誘惑しようとしたのだ。
また天照大神が天岩戸に籠ったときにはストリップダンスをして神々を笑わせている。
小野小町は天鈿女同様、性の女神である。
小野小町は性的に不能であったという伝説もあるので、矛盾するが、なぜ伝説に矛盾が生じているのかについての考察はあとですることにして、今回は小町が性の女神であるということの証拠をあげておきたい。
六歌仙の一に僧正遍照があるが、小野小町は遍照と次のように歌のやりとりをしている。
岩のうへに 旅寝をすれば いとさむし 苔の衣を 我にかさなむ/小野小町
(石上神社の岩の上で旅寝をするととても寒いのです。あなたの苔の衣を貸していただけませんか。)
世をそむく 苔の衣はただ一重 かさねばうとし いざふたり寝む/遍照
(世の中と縁を切るための法衣はたった一重です。しかし貸さないというのも気がひけます。さあ、二人で寝ましょう。)小町はもうひとりの六歌仙の一、文屋康秀も誘惑している。
文屋康秀が三河国に左遷となったとき、小町に「一緒に田舎見物に行きませんか。」と誘ったとき、小町は次のような歌を詠んでいるのだ。
わびぬれば 身をうき草の 根をたえて さそふ水あらば いなむとぞ思ふ
(侘び暮らしをしていたので、我が身を憂しと思っていました。浮草の根が切れて水に流れ去るように、私も誘ってくれる人があるなら、一緒に参ります。)誘ったのは文屋康秀であるが、小町は「一緒に行く」と答えている。
女にこんな返事をされたならば、大抵の男は「女は自分に気がある」と考えて嬉しくなってしまうのではないだろうか。
小野小町が誘惑した男性には小野貞樹もいる。
今はとて わが身時雨に ふりぬれば 言の葉さへに うつろひにけり/小野小町
(今はもう、時雨が降って色が褪せた樹々のように、我が身も涙に濡れて色褪せてしまいました。あなたが昔約束して下さった言の葉さえも変わってしまいました。)
人を思ふ こころ木の葉に あらばこそ 風のまにまに 散りもみだれめ/小野貞樹
(人を思う心が木の葉のように変わってしまうのなら、風が吹くままに散り乱れるでしょう。
しかし私があなたを思う気持ちは散り乱れたりはしません。)また伊勢物語に次のような話がある。
昔、色気づいた女が、思いやりのある男に逢うことができたらなあと思い、三人の子に話をした。
二人の子はまともに取り合わなかったが、三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をした。
さらに三男は在五中将(在原業平)に頼み込んだので、在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなったので、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)そして男はでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将は女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。
このをんなは、をののこまちなり。
小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。
いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。
どんな人の子を産んだのか、はっきりしない)九十九髪というのは謎々である。
九十九は「つくも」と読むが、「つくも」とは「つぎもも(次百)」の意味である。
そして百から一を引くと白になるので、九十九髪とは白髪という意味である。
在原業平にセックスを迫ったとき、小町は高齢であったが、業平は小町を同情して関係をもったというのである。
髄心院に展示されていた小野小町像●小野小町は荒霊(男神)と和合することで御霊に転じさせる女神僧正遍照・文屋康秀・在原業平は六歌仙のメンバーであり、六歌仙は怨霊だと考えられる。
小野貞樹は石見王の子であると言われている。
石見王とは、長屋王の孫・磯部王と淳仁天皇の娘・安倍内親王の間に生まれた皇族である。
長屋王は長屋王の変で自殺した人物、淳仁天皇は藤原仲麻呂の乱に関与したとして称徳天皇に退位させられ淡路に流罪となった人物である。
経歴だけを聞いても、大変政治的に不幸な人物で、死後怨霊になるにふさわしい人物だといえるだろう。
そして小野小町は彼らと和合することで荒霊(男神)を御霊に転じさせる役割を担った和霊(女神)なのである。
つまり、実際に関係をもったというよりは、男たちが死後に怨霊となったと考えられたため、後世の人が小町という女神と和合させようとして物語を創作し、また怨霊となった男たちの身になって和歌を詠んだのではないかと私は思う。
ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作した小野小町のタペストリー(髄心院)小野小町は男だった⑩ 百夜通い 『深草少将・小野小町・惟喬親王に共通する九十九のイメージ』 へつづく~
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小野小町は男だった① 小野小町はなぜ後ろを向いているのか ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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