惟喬親王の乱㊺ (最終回) 『日よ沈むな、月よ沈むな』
惟喬親王の乱㊹ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 よりつづきます~
「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

日置天神社の秋祭のはじまり、はじまり~♪
①交野ケ原に残る惟喬親王の伝説
天田神社の由緒書に次のように書いてある。
「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。
その頃、住吉信仰が流行し一方、磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)から、海神であり和歌の神である住吉神に替わって、今日に至っている。」
「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、」とあるが、その宮廷貴族の中に紀有常、在原業平らがいる。
彼らは惟喬(これたか)親王の寵臣だった。
伊勢物語には、彼らが惟喬親王のお供で狩にやってきて、歌会を開いたという話が記されている。
大阪府交野市・枚方市あたりはかつては交野ケ原と呼ばれていた。
そして枚方市には惟喬親王の伝説がいくつか残されている。

渚の院
枚方市の渚の院跡(保育園の隣にあって鐘楼が残っているだけ)で、惟喬親王・紀有常・在原業平らは歌会を開いた。

本尊掛松跡(枚方市茄子作南町)
1321年、融通念仏宗中興の法明上人が男山八幡(石清水八幡宮)の神よりお告げを受けて、深江の庵室(現大阪市東成区南深江 法明寺)より男山へ向かっていたところ、
ここで、同じ夢告げを受けた八幡宮の使者に出会い、十一尊天得如来画像を授けられたと伝えられる。
茄子作という地名の由来は、ここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれる。
そしてここ、日置天神には次のような伝説が伝えられている。
惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願した。

日置天神社には8台ものだんぢりが残されていて、秋祭に公開されている。
そのうち1台は氏子さんたちによって町を引き回される。
氏子さんにだんじりの彫刻の内容について聞いてみたが、「わからない」ということだった。
引き回されるだんじりの側面に、鷹の彫刻があったが
これは茄子作の地名由来伝説に登場する惟喬親王の愛鷹にちなむものなのかもしれない。

だんぢりの正面には菊の彫刻があり、やはり惟喬親王を連想させた。
大皇器地祖神社は木地師の祖として惟喬親王を祀っているが、神紋が十六菊である。
この彫刻の花びら数えてみたら20弁で、数がちがってはいるが。

↑ これはひきまわさない別のだんじりだが、巻物を持っているのが、惟喬親王を思わせる。
というのは、惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があるのだ。
巻物持っているのは女性だが、私は小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えている。
詳しくは次のシリーズをお読みください。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html
全部読む時間がない方はこちらを読んでいただけると嬉しいです♬
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』

さあ、だんじりが出発しますよ~。
ながらくだんじりの引き回しは行われていなかったとのことですが、数年前から復活したそうです。嬉しいね。
②「日よ、沈むな」と「月よ、沈むな」

さて、日置天神社の伝説についてもう一度見てみよう。
惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願した。
この伝説は、伊勢物語・渚の院にある話を思い出させる。
昔、惟喬親王という親王がおられた。
山崎の向こうの水無瀬といふ所に宮があった。
毎年、桜の花盛りには、その宮へいらっしゃった。
その時、右馬頭と言う人を常に連れてこられた。
随分昔のことなので、右馬頭の名前は忘れてしまった。
狩りは熱心にはやらず、酒を飲んでは和歌を詠んでいた。
今狩りする交野の渚の家、その院(御所)の桜が特にすばらしかった。
その木のもとに馬から下りて座り、枝を折って髪にさし、上、中、下の者身分を問わず、みな歌詠んだ。
馬頭が詠んだ。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)
また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。)
このように歌を詠んで、その木のもとを立って帰る途中日暮れになった。
お供の人が酒を従者にもたせて野より出てきた。
この酒を飲んでみようと、飲むのにふさわしい場所を探していくと天の河というところにやってきた。
親王に馬頭が大御酒をさしあげた。
親王は言った。
「交野を狩りをして天の河のほとりにたどりついた、を題に歌を詠んで杯をつげ。」
馬頭は歌を詠んだ。
狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
(一日中狩りをして日が暮れてしまったので、織姫に宿を借りよう。天の河原に私はやってきたのだから。)
親王は何度も歌を繰り返され、返歌することができない。
紀有常も御供されており、紀有常が返した。
織姫は一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人はないだろう。
帰って宮に入った。
夜が更けるまで酒を呑み、語り、主人の親王は床に入ろうとなさった。
十一日の月が山に隠れようとしているのであの馬頭が詠んだ。
飽かなくに まだきも月の 隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ
(ずっと眺めていても 飽きないのに 早くも月は隠れてしまうのか。山の端が逃げて月を入れないでおいてほしい。)
親王にかわり申し上げて紀有常
おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを
(すべての峰が平らになってほしい。山の端がなくなれば月は入らないだろう。)
日置天神社の伝説から思い出されるのは、上の渚の院の話の中の次の部分である。
飽かなくに まだきも月の 隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ (ずっと眺めていても 飽きないのに 早くも月は隠れてしまうのか。山の端が逃げて月を入れないでおいてほしい。) 親王にかわり申し上げて紀有常 |
日置天神の伝説・・・・・
惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願した。
渚の院の記述・・・・・
すべての峰が平らになってほしい。山の端がなくなれば月は入らないだろう。)
日置天神の伝説では惟喬親王は「日よ、沈むな」と詠い、
渚の院では惟喬親王の代理の紀有常が「月よ、沈むな」と詠っている。
これはなにか関係がありそうだ。とあり
「十一日の月が山に隠れようとしているので」
とあり、月齢が11日であることがわかる。
季節は桜の咲くころなので、旧暦3月11日(新暦4月11日ごろ)だろうか。
月齢、月の形については下記イラストを参照してください。
https://www.nomu.com/ouchi/special/201309/03.html
大阪府の4月の月の出、月の入時刻は下記。
日 | 出 | 方位[°] | 南中 | 高度[°] | 入り | 方位[°] | 月齢[日] |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 22:30 | 115.3 | 2:43 | 37.8 | 8:02 | 247.9 | 18.7 |
2 | 23:41 | 119.5 | 3:41 | 33.3 | 8:46 | 242.7 | 19.7 |
3 | --:-- | ---- | 4:40 | 30.4 | 9:36 | 239.4 | 20.7 |
4 | 0:47 | 121.6 | 5:40 | 29.1 | 10:33 | 238.2 | 21.7 |
5 | 1:46 | 121.4 | 6:39 | 29.6 | 11:34 | 239.3 | 22.7 |
6 | 2:36 | 119.2 | 7:35 | 31.6 | 12:38 | 242.2 | 23.7 |
7 | 3:18 | 115.4 | 8:27 | 34.9 | 13:41 | 246.6 | 24.7 |
8 | 3:54 | 110.4 | 9:15 | 39.2 | 14:43 | 252.1 | 25.7 |
9 | 4:25 | 104.6 | 10:01 | 44.1 | 15:43 | 258.3 | 26.7 |
10 | 4:54 | 98.3 | 10:43 | 49.3 | 16:40 | 264.8 | 27.7 |
11 | 5:20 | 91.9 | 11:25 | 54.7 | 17:37 | 271.3 | 28.7 |
12 | 5:46 | 85.5 | 12:06 | 60.1 | 18:33 | 277.8 | 0.0 |
13 | 6:12 | 79.3 | 12:47 | 65.2 | 19:29 | 283.9 | 1.0 |
14 | 6:40 | 73.5 | 13:29 | 69.9 | 20:26 | 289.5 | 2.0 |
15 | 7:11 | 68.3 | 14:13 | 74.0 | 21:23 | 294.3 | 3.0 |
16 | 7:45 | 64.0 | 14:59 | 77.3 | 22:20 | 298.0 | 4.0 |
17 | 8:24 | 60.8 | 15:48 | 79.5 | 23:16 | 300.5 | 5.0 |
18 | 9:09 | 59.0 | 16:39 | 80.6 | --:-- | ---- | 6.0 |
19 | 10:00 | 58.8 | 17:31 | 80.4 | 0:10 | 301.3 | 7.0 |
20 | 10:56 | 60.3 | 18:23 | 78.8 | 0:59 | 300.5 | 8.0 |
21 | 11:58 | 63.5 | 19:15 | 75.9 | 1:45 | 298.0 | 9.0 |
22 | 13:02 | 68.3 | 20:06 | 71.6 | 2:25 | 293.9 | 10.0 |
23 | 14:09 | 74.5 | 20:57 | 66.3 | 3:02 | 288.4 | 11.0 |
24 | 15:17 | 81.8 | 21:48 | 60.2 | 3:36 | 281.7 | 12.0 |
25 | 16:26 | 89.7 | 22:39 | 53.6 | 4:09 | 274.2 | 13.0 |
26 | 17:38 | 97.9 | 23:31 | 46.8 | 4:41 | 266.3 | 14.0 |
27 | 18:52 | 105.8 | --:-- | ---- | 5:15 | 258.4 | 15.0 |
28 | 20:07 | 112.8 | 0:26 | 40.5 | 5:53 | 251.0 | 16.0 |
29 | 21:22 | 118.1 | 1:25 | 35.2 | 6:36 | 244.8 | 17.0 |
30 | 22:34 | 121.2 | 2:26 | 31.3 | 7:25 | 240.4 | 18.0 |
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/dni/2021/m2804.html より引用
月齢11日は2021年4月では23日で、月の出は午後2時9分、月の入は翌日の午前3時2分となっている。
彼らは随分遅くまで酒をのんでは歌を詠んでいたということがわかる。
しかし、わかるのはここまでである。
なぜ日置天神では「日よ沈むな」と詠い、渚の院では「月よ沈むな」と詠ったのか?
長い文章を45話も書き、その間中考えていたが、結局わからなかった。
しかし、これから旅を続けるなかで、もしかしたらその答えを導くヒントにであえるかもしれない。
長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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