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惟喬親王の乱㊹ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』


トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱㊸ 『業平はなぜ高子と駆け落ちをしたのか』 よりつづきます~


「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。


龍田川

龍田川

①現代語訳が難しい業平の龍田川の歌


ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

この歌は現代語訳が難しい。
もちろん、千早という花魁が龍田川という相撲取りを振った、という意味ではないw
(参照/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%97%A9%E6%8C%AF%E3%82%8B

「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞。
「神代も聞かず」は「神代にも聞いたことがない」
「竜田川」は奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりを流れる川である。
「からくれなゐ」の「から」は「韓の国」や「唐土(もろこし)」という意味。
当時、韓や唐土の物産は大変高価で価値があるものだったとされる。
今でいうシャネルとかエルメスみたいなブランド品だったということだ。
「くれなゐ」は「紅色」。
なので「からくれなゐ」は「韓や唐土から日本に持ち込まれたブランド品の衣の紅色」みたいな意味になると思う。

ここまではそんなに難しいところはない。

龍田川 紅葉2

⓶「水くくる」に二つの解釈


問題は「水くくる」である。
もちろん、千早という花魁が入水したという意味ではないw。

この「水くくる」には2つの解釈がある。

a.水を「括り染め」にした。
「括り染め」とは布にところどころ糸を巻き付けて括ったのち、染色することや、こうして出来上がった生地のことをいう。
糸でくくった部分は染まらないので、それで模様をつくる。

b.水を潜った。川を埋め尽くすように散った紅葉の下を水が流れる。

現代語訳は
aの場合、「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓や唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。」
b
の場合は「神代にも聞いたことがない。韓や唐土の衣の鮮やかな紅に染まった紅葉の下を竜田川の水が流れていくとは。」
となる。

藤原高子が春宮の御息所と呼ばれていたときに詠んだ歌

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

古今和歌集はこの歌に次のような詞書をつけている。
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる


「この詞書は大変重要なことを書いてある」と私は思う。
まるで業平の歌は謎々で、この詞書はその謎々をとくヒントのようだ。

一語づつみていこう。

「二条の后」とは清和天皇に入内した藤原高子のことである。
「春宮」は「とうぐう」と読み、皇太子を意味する。
「みやす所」はもともとは「天皇の休憩所」という意味で、ここから天皇に侍る官女や、皇子・皇女を産んだ女御・更衣を指す言葉となった。

藤原高子は清和天皇に入内して女御の位となり、清和天皇にとの間に貞明親王(のちの陽成天皇)をもうけている。
この貞明親王が春宮(皇太子)となったので、高子は「春宮のみやす所」と呼ばれたので華以下と思う。

その藤原高子が在原業平を召したとき、業平は竜田川に紅葉が流れる屏風絵を見てこの歌を詠んだのである。

龍田川 紅葉

④在原業平と藤原高子の駆け落ち

「伊勢物語 芥川」に、高子が清和天皇に入内する以前、業平と高子は駆け落ちをしたと記されている。
(現代語訳はこちら→http://www.raku-kobun.com/ise6.html

駆け落ちの途中、雷が鳴りだしたので業平は高子を蔵の中にいれた。
ところが蔵には鬼がいて高子は鬼にくわれてしまったとある。

本当に高子が鬼にくわれてしまったのではなく、高子は兄・藤原基経に連れ戻されたのである。
こうして二人の駆け落ちは失敗に終わった。

このかつて駆け落ちをした二人が並んで屏風絵を見ているのである。なにか意味深な感じがする。

⑤業平がその気もないのに高子のもとへ通っていた理由

どうも業平は高子を本気で愛していたので駆け落ちしたというわけではないようである。
というのは、古今和歌集詞書に次のような記述があるのだ。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味になる。

業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのだろうか?

百人一首かるた


⑥陽成天皇の父親は在原業平だった?

業平と高子は駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は業平の子ではないかとする説がある。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともある。

業平がその気もないのに高子のもとへ通っていたのは、清和天皇に入内する予定の高子を妊娠させるのが目的だったのではないだろうか?
高子が産んだ子は清和天皇の皇子とされるはずだ。
そしてその皇子は将来皇太子となり、天皇となる可能性がきわめて高い。

⑦在原業平の祖父は平城上皇だった。

在原業平の祖父は平城上皇、父親は阿保親王だった。
ところが平城上皇は嵯峨天皇と対立して挙兵し、敗れた。(薬子の変)

⑧阿保親王、子供(行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許される。

このため、平城上皇は出家し、阿保親王は連座したとして大宰府に流罪となる。
10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻った。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されている。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないだろうか。

⑧平城上皇の竜田川の歌

龍田川の紅葉について、業平の祖父・平城上皇も歌に詠んでいる。

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)
(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)

祖父(平城上皇)と孫(在原業平)がどちらも龍田川の歌を詠んでいるのは、「偶然ではない」と私は思う。
業平は平城上皇の龍田川の歌を受けて、自分も龍田川の歌を詠んだのではないだろうか。

平城上皇は龍田川を皇位継承の血筋に喩えているのではないだろうか。
そして自分が薬子の変をおこしたため、私の子孫は皇位につくことができないということを「錦 なかや絶えなむ」と呼んだのだと思う。

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

業平のこの歌は平城上皇の歌を受けて詠まれたものだと私は考える。

「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」と業平は詠んだのだと思います。

⑨陽成天皇の父親が在原業平であることがばれた?


皇太子となった貞明親王は9歳で即位して陽成天皇となる。
そして高子の兄の藤原基経が摂政になった。

ところがどうも陽成天皇の父親が業平であることが基経にばれたようである。
私がこう思うのは、陽成天皇が源益を殴殺したといて退位させられているからである。

基経は陽成天皇の叔父である。
仮に陽成天皇が源益を殺したというのが本当でも、甥が天皇であるということは基経にとってメリットが大きいはずなので
普通なら事件をもみ消すのではないかと思う。
さらに基経と高子は実の兄妹でありながら大変仲が悪かったとされる。

これらは陽成天皇の父親が業平であることが、高子の兄・藤原基経にばれたのだと考えると辻褄があうように思える。

そしてその後、陽成天皇の子孫が皇位につくことはなかった。
業平の計画は失敗に終わったのだ。
 
八坂神社 かるた始め 

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