トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』
惟喬親王の乱㊲ 粟辻神社『惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖だった』 よりつづきます~
「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。
①大原野神社大原野神社の御祭神は武御賀豆智命(武甕槌命)・伊波比主命(経津主命)・天之子八根命(天児屋根命)・比咩大神(比売神)の四神である。
この四神を総称して春日明神とよぶ。
武御賀豆智命 (武甕槌命) | 雷神。剣の神。相撲の元祖。要石に住む地震を引き起こす大鯰をおさえこむ神。 |
伊波比主命 (経津主命) | ・イザナギが火の神カグツチを斬ったとき、十握剣の刃から滴る血が固まって天の安河のほとりにある 岩群・五百箇磐石(イオツイワムラ)となり、これが経津主神の祖。 軻遇突智の血が五百箇磐石を染めて磐裂神・根裂神が生まれ、 その御子の磐筒男神・磐筒女神が経津主神を生んだ。(第七の一書) |
天之子八根命 (天児屋根命) | 中臣連の祖(藤原氏の祖・中臣鎌足は天智天皇より藤原姓を賜っている。) |
比咩大神 (比売神) | 天児屋根命の妻の天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと) |
⓶大原野神社は文徳天皇、清和天皇ゆかりの地
鯉沢池。文徳天皇が作ったという。
瀬和井(せがい) 清和天皇が産湯を使ったという。清和天皇は文徳天皇の第四皇子である。
文徳天皇には紀静子との間に第一皇子の惟喬親王が、藤原明子との間に第四皇子の惟仁親王(後の清和天皇)があった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談したが、源信は藤原良房(藤原明子の父)を憚って天皇を諫め、惟仁親王が皇太子になった。
この話は以前にも何回も繰り返したとおりである。
③大原野神社の鹿の巻物とどんぐり帽子
拝殿前には雌雄の鹿の像。雄鹿は巻物を、雌鹿はどんぐりの帽子のようなものを頭にのせていた。

えーーっ、もしかして、大原野神社に祀られているのは文徳天皇の第一皇子の惟喬親王?(清和天皇との皇位争いに敗れた)
えーーっ、もしかして、大原野神社に祀られているのは文徳天皇の第一皇子の惟喬親王?(清和天皇との皇位争いに敗れた)
驚きの発見に心臓バクバク状態になったw
上の動画で、こんなことを言っている。
1:10あたり 惟喬親王はあるものを見てお椀の形を思いついた。そのあるものとは・・・・どんぐりの帽子。
3:55あたり 手挽きろくろも惟喬親王があるものを見て考案した。そのあるものとは・・・・巻物。
その巻物とどんぐり帽子が、なぜ大原野神社の鹿の像につけられているのか。
しかも、大原野神社には惟喬親王の父親である文徳天皇が作った池、
惟喬親王の異母弟でライバルの惟仁親王が産湯に使った瀬和井(せがい)があるのだ。
これは偶然とは思えない。
もしかして、藤原氏は大原野神社の御祭神四柱のうちの一柱を惟喬親王のイメージと重ね、神として祀っていたのではないか?
大原野神社は藤原氏の女性が、皇后・中宮になれますようにと祈願する神社で、祈願がかなえられると行列を作ってお礼まいりをする習慣があったという。
そして陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に慰霊すればご利益を与えてくださる和魂に転じると考えられていたという。
惟喬親王は御霊として、玄武神社・惟喬神社などたくさんの神社の御祭神として祀られている。
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことで、つまり惟喬親王は怨霊なのだ。
その怨霊である惟喬親王を大原野神社の四柱の神いずれかと同一視して祀り、
藤原氏の女性たちは惟喬親王に対して「皇后になれますように」と祈ったと、そういうことだと思われる。
これはありそうなことである。
皇位につけなかった神である惟喬親王は、皇位継承に祟りそうである。
藤原氏の戦略は娘を天皇に入内させて親王を産ませ、その親王を天皇とし、自らは外祖父として権力を握るというやり方である。
つまり、皇位継承とは藤原氏の女性が皇后・中宮になれるかどうかにかかっているのだ。
そのため、皇位継承に祟る惟喬親王の霊を鎮める必要があり、神として慰霊しているのではないだろうか?
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惟喬親王の乱㊴『大原野神社の神相撲は世継争いに負けたことを知らしめるための行事?』 につづきます~
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