小野小町歌碑 隨心院 (京都府京都市山科区小野御霊町35)
●小野小町はなぜ後ろを向いているのか 京都山科にある隨心院は小野小町の邸宅があった場所と伝わり、卒塔婆小町像や小町が化粧に使ったという井戸などが残されている。
また境内には小野小町が詠んだ歌を刻んだ歌碑がたてられている。
花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに(小野小町) 百人一首にも採られている有名な歌だ。
歌碑には十二単を纏った小町の姿も描かれているが、その姿は後ろ向きである。
小野小町は古くから後ろ向きで描かれることが多かった。
1919年に切り売りされたことで有名な佐竹本三十六歌仙絵巻の小野小町像も後ろ向きで描かれている。
小野小町はなぜ後ろ向きで描かれたのか。
それは作者が小野小町のあまりの美しさを憚ったためであるとも言われている。
小野小町がどのような女性であったのかは、史料にはほとんど記述がないため、よくわかっていない。
『古今和歌集目録』には「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右(古)姫云々」とあり、『尊卑分脈』には小野篁の孫で、出羽郡司良真の女子とある。
しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載がないため、実在が疑問視されている。
小町の存在が知られているのは、『古今和歌集』『後撰和歌集』『小野小町集』などに歌が残されているためである。
しかし、『小野小町集』は後世の他撰であり、他の歌人の歌が混入しているため、すべてが小町自作の歌とは断じがたい。
後ろ向きの小野小町像が象徴するように、彼女の実体は謎に包まれているのである。

雨の髄心院 桜
●小野小町=更衣説(山村美佐氏) 山村美佐氏は小野小町について、次のような説をとなえておられる。
「古今和歌集」に登場する女性歌人のうち、三条町は文徳天皇の更衣・三国町は仁明天皇の更衣である。
町は更衣をさしているのではないか。
昔は姉妹で天皇に入内するということもあった。
小町は姉とともに入内したため小町と呼ばれているのではないか。
「続日本書紀」842年に小野吉子が正六位上に任じられている。
正六位上は更衣の位である。
小野小町とはこの小野吉子のことではないかと。
●小野小町=惟喬親王の乳母説(井沢元彦氏) 小説家の井沢元彦氏は、小野小町は惟喬親王の乳母ではないかとしておられる。
小野小町は生涯独身で子供はなかったという伝説がある。
しかし後撰集の歌人の中に「小町が孫」なる人物が登場するところから、小町が独身で子供がないという伝説は事実ではない、と井沢氏は指摘する。
そして小野小町が惟喬親王の乳母であったと考えると、惟喬親王が出家後小野に隠棲していること、『小野宮』と呼ばれる広大な邸に住んでいたことなどが説明できるのではないか、というのである。
山村氏と井沢氏のどちらの説も筋が通っていて「なるほど」と思わされるが、はたしてどうだなのだろうか。
雨の髄心院 桜●数多く残る小町伝説 小野小町は史料には全く登場しないが、彼女にまつわる伝説は山のようにある。
伝説は伝説であってもちろん史実ではないが、なぜこのような伝説ができたのかと考えてみることは有意義なことだと思う。
今回、私は伝説を紐解くことで小野小町の実体に迫りたいと考えている。
後ろ向きの小野小町がふりむくと、はたして小町はどのような顔をしているのだろうか。

髄心院 八重桜
【小町伝説について】
① 小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。
歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。
蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん
(種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。)
当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。
小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町之歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。
ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。
黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。
策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(草紙洗い)
② 京都のとある温泉町(今の福知山市)に疱瘡を患った小町がやってきた。
小町は薬師如来に祈って温泉につかった。
すると小町の疱瘡はたちまち治った。
③小野小町は絶世の美女だった。そのためプライドが高く、一生独身だった。
④晩年、小町は天橋立へ行く途中、三重の里・五十日(いかが・大宮町五十河)に住む上田甚兵衛宅に滞在し、「五十日」「日」の字を「火」に通じることから「河」と改めさせた。
すると、村に火事が亡くなり、女性は安産になった。
再び天橋立に向かおうとした小町は、長尾坂で腹痛を起こし、上田甚兵衛に背負われて村まで帰るが、辞世の歌を残して亡くなった。
九重の 花の都に住まわせで はかなや我は 三重にかくるる
(九重の宮中にある花の都にかつて住んだ私であるが、はかなくも三重の里で死ぬのですね。)
後に深草の少将が小町を慕ってやってきたが、やはり、この地で亡くなった。(妙性寺縁起)
⑤ 京の都の神泉苑で小野小町が和歌を詠んで雨乞いをし、雨を降らせた。
ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとては 又天が下とは
(道理であるなあ、この国を日本と呼ぶならば、日が照りもするだろう、しかしそうは言っても、又、天(雨)の下とも言うではないか。だから、雨を降らせてください。)
また
千早振る 神も見まさば 立ちさわぎ 雨のと川の 樋口あけたべ
(神様、この日照りを御覧になったなら、大急ぎで天の川の水門の口を開けて下さい。)
という歌を詠んだとも伝わる。(雨乞小町)
⑥七夕の夕暮れ、星を祭る関寺の境内で小野小町は自分の若き日の思い出を歌いながら舞った。
小町は百歳を越えた老女で、人々は絶世の美女の変わり果てた姿を憐れに思う。(関寺小町)
⑦小町を慕う深草少将に小町は「百日間私のもとに通いとおしたならば、あなたのものになりましょう」と約束をする。
深草少将は毎夜小町のもとに通い続けるが、今日で100日目という雪の夜に凍えて死んでしまう。(百夜通い)
⑧ススキ野原の中で「あなめあなめ」(ああ、目が痛い)と声がするので僧が立ち寄ってみると、どくろがあって、その目からススキが生えていた。
抜き取ってやるとそれは小町のどくろだった。(あなめ小町)
⑨京都八瀬の里で修行する僧に薪や木の実を届ける女がいた。
女は「小野とは言はじ、薄生いたる、市原野辺に住む」と言って消える。
僧が市原野へ出かけて小町を弔っていると、四位少将の霊が現れ、小町の成仏を妨げる。
少将は百夜通いの後、成仏出来無いで苦しんでいた。
僧が、「懺悔に罪を滅ぼし給え」と勧めると、小町と共に成仏する。(通小町)
⑩百歳の老女となった小野小町が近江の国関寺のあたりをさすらっているという話を聞いた陽成院が、小町に次のような歌を贈った。
雲の上は ありし昔に 変はらねど 見し玉簾の うちやゆかしき
(宮中は、かつての昔と変わっていないがあなたは、昔見慣れた玉簾(内裏)がなつかしくありませんか。) 小町は鸚鵡返しといって、院に歌を返した。
雲の上は ありし昔に 変はらねど 見し玉簾の うちぞゆかしき
(私は、昔見慣れた玉簾(内裏)がなつかしいです。)
相手の歌の「や」を「ぞ」に替えるだけで返歌した、鸚鵡返しの歌として知られる。(鸚鵡小町)
⑪絶世の美女であったにもかかわらず、男を寄せ付けなかった小町は実は男を受け入れられない体であった。
穴のない「まち針」は「小町針」がなまったものである。(小町針)
⑫昔、色気づいた女が三人の子に「思いやりのある男にお会いしたい」と話した。
三男は「よい男が現れるでしょう」と夢判断をし、在五中将(在原業平)に頼み込んだ。
在五中将は女をかわいそうに思ってやってきて寝た。
しかしその後、在五中将は女のもとへやってこなくなり、女は男の家に行って中を伺った。
男は女をちらっとみて歌を詠んだ。
ももとせに ひととせ足らぬ つくも髪 我を恋ふらし おもかげに見ゆ
(百年に1年たりない九十九歳の白髪の女が、私を恋い慕っているのが 面影に見える。)
その後、男がでかけようとしたので、女は家に戻って横になった。
在五中将が女の家の前で中を伺うと、女は次のように歌を詠んだ。
さむしろに 衣かたしき こよひもや こひしき人に あはでのみねむ
(狭いむしろに衣を一枚だけ敷き、今宵も恋しい人に会えずに寝るのだろうか。)
在五中将は女がかわいそうになり、その夜は女と寝た。
※伊勢物語には単に「色気づいた女」とあるが、伊勢物語の注釈書・『知顕集)』には次のように記されている。
「このをんなは、をののこまちなり。小野小町とふ、こまちには子ありともきかぬに、三人ありといへり。いかなる人の子をうみけるぞや、おぼつかなし。」
(この女は小野小町である。小野小町に子供があったとは聞いたことがないが、三人の子がいるとしている。どんな人の子を産んだのか、はっきりしない)(伊勢物語)
ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作したタペストリー(髄心院)小野小町の謎② 六歌仙は怨霊だった。 へつづく~
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