惟喬親王の乱㊵ 千手寺 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』
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惟喬親王の乱㊴『大原野神社の神相撲は世継争いに負けたことを知らしめるための行事?』 よりつづきます~
「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。
大阪府東大阪市 千手寺

石切劔箭神社
①千手寺
新石切駅から石切劔箭神社へ。
石切劔箭神社から石切参道商店街の緩やかな坂をのぼると
石切大仏がある。

石切大仏
石切は精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の創業地で、
そのサカンポーの4代目・阪本昌胤さんが石切大仏を建立したそうである。
そういえば石切商店街にこんな ↓ 看板があった。店自体はなかったが、看板のみ残してあるのだろう。

石切大仏からさらに登っていくと千手寺がある。

千手寺
②維喬親王=惟喬親王、維仁親王=惟仁親王
千手寺について、次のように記されているサイトがあった。
当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、この地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊とした。
その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登場するこの寺の寺伝は一大叙事詩でもある。
[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-2/newpage175.htmより引用
ここに維喬親王(これたかしんのう:844~897)とでてくるが、これは惟喬親王のまちがいだろうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
上記ウィキペディアに惟喬親王について記されているが、生没年も同じだし、文徳天皇の第1皇子というのも同じである。
また第4皇子を維仁親王(後の清和天皇)としてるが、こちらも惟仁親王のまちがいではないかと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
あるいは維喬親王・維仁親王のように記すこともあったのかもしれないが、ネット上でそういった表記は他に見たことがない。
もしかしたら千手寺では惟喬親王・惟仁親王ではなく維喬親王・維仁親王と伝えているのかもしれない。
維喬親王は惟喬親王、維仁親王は惟仁親王と考えて間違いはないだろう。
ややこしくなるので、以下、維喬親王・維仁親王ではなく惟喬親王、惟仁親王と記すこととする。

惟喬親王像 (木地師の里)
③惟喬親王の乱
②でご紹介した記事に「惟喬親王の乱で、堂宇は灰燼に帰した。」とある。
私は惟喬親王については大変興味があり、いろいろ調べて記事をたくさん書いている。
しかし「惟喬親王の乱」というのはウィキペディアにも記述がないし、他のサイトでも読んだことがない。
上の記事でも次のように記している。
「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。」
しかし、私は「惟喬親王の乱」がなかったとはいいきれないと思う。

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社
④藤原氏vs紀氏のバトル!
「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の惟仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかった」について、このシリーズで何度も書いたが、復習の意味で繰り返しておく。
文徳天皇は紀静子(紀名虎の娘)との間に第一皇子の惟喬親王、藤原明子(藤原良房の娘)との間に第四皇子の惟仁親王をもうけていた。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談しましたが、源信は時の権力者・藤原良房を憚って天皇をいさめた。
こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となった。
平家物語などに次のように記されている。
藤原良房と紀名虎はいずれの孫(惟仁親王vs惟喬親王)を立太子させるかでもめ、高僧による祈祷合戦、相撲などによるバトルを繰り返した末、藤原良房が勝利し、惟仁親王が立太子した。
この話は史実ではない。
というのは惟仁親王が生まれたとき、紀名虎はすでに亡くなっていたからだ。
しかし藤原氏と紀氏に確執があったことは確かだろう。
ちなみに愛宕山にはこれに関係する次のような伝説が伝えられている。
空海の高弟であった知恵優れた僧が、惟喬親王と惟仁親王(後の清和天皇)の皇位争いの際に惟喬親王について、
惟仁親王についた天台僧と壮絶な呪詛合戦を繰り広げた末に敗北し、この恨みをはらすために天狗(怨霊)となって天皇家を脅かし続けた。
この天狗が、生前に修行を積んだ愛宕山に住み着いて太郎坊天狗となった。
惟喬親王の乱㉟ 愛宕神社 『惟喬親王側について呪詛合戦をした太郎坊天狗』

⑤惟喬親王の歌会はのろいの会だった?
紀名虎の子で紀静子の兄(つまり惟喬親王の叔父)・紀有常、在原業平は惟喬親王の寵臣だった。
世継争いに敗れた惟喬親王は紀有常や在原業平をお供として交野ケ原(現在の交野市・枚方市付近)に狩をしにやってきて、渚の院(枚方市)で桜をめでつつ歌会を催すなどしている。
これについて、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は文学の世界に情熱を傾けたのだろう、と一般にはいわれている。
しかし、そうではなく、彼らは歌会と称して藤原氏をのろっていたのではないかというような意味のことを高田祟史さんがおっしゃっていた。
私は彼の説を支持する。
たとえば伊勢物語「渚の院」の段ににこんな歌が掲載されている。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき ※この歌を詠んだのは右馬頭ではない別の人だと記されているだけで、名前は記されていません。
(散るからこそ、桜はすばらしいのです。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)
⑥馬頭は在原業平
ここに登場する右馬頭とは在原業平のことである。
というのは伊勢物語に記された右馬頭の歌は古今和歌集では在原業平作となっているからである。
「右馬頭の名前は忘れた」と伊勢物語の作者は言っているが、これは嘘なのである。
伊勢物語の作者は紀貫之ではないかといわれているが、紀貫之は古今和歌集を編纂した人物であって、知らないはずがないのだ。
彼は土佐日記では自らを女と偽って日記を書いているし、
古今和歌集仮名序でも喜撰法師のことを「よく知らない」と書いているが、おそらく喜撰法師とは紀仙法師で紀名虎(紀有常の父)または紀有常、または惟喬親王のことだと思われ、親族である彼らのことを貫之が知らないはずがない。
紀貫之と言う人は一筋縄ではいかない人だという印象を私は持っている。
⑦惟喬親王と惟仁親王の世継争い。
文徳天皇には紀静子(紀名虎の娘、紀有常の妹)との間に長子の惟喬親王、藤原良房の娘・藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)があった。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと源信に相談している。
文徳天皇が世継ぎにしたいと考えていたのは藤原明子所生の惟仁親王ではなく、紀静子所生の惟喬親王だったのだ。
源信は当時の権力者・藤原良房を憚って文徳天皇を諌め、惟仁親王が皇太子になったのだが。
⑧在原業平と紀氏、藤原氏の関係
業平は惟喬親王の寵臣で、また紀静子の兄・紀有常の娘を妻としていて完全に紀氏側の人間だった。
また世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、歌会と称してクーデターを計画していたのではないかとも言われている。
伊勢物語・渚の院は、惟喬親王の歌会のようすを描いたものである。
在原業平は惟喬親王の歌会のメンバーであり、クーデターの首謀者だったのではないかとする説もある。
在原業平はなぜか「色好み」ばかりがクローズアップされているが、政治的に不遇で、反骨精神にあふれた人物であったと考えられる。
⑨桜散り老い来る道
言霊という言葉がある。
口に出した言葉は実現する力を持つという信仰のことである。
言霊はプラス思考のことだととらえられがちだ。
例えば、「私はできる」と考えると本当にできるようになると言われる。
これはある程度正しい。
しかし、古の日本人はこのようなプラス思考のほかに、呪術的な目的をもって言霊を信仰していたように思われる。
呪術は他人に気がつかれないようにかけなければいけない。
古には国家や貴人を呪うことは重罪とされていたからだ。
和歌の掛詞・縁語・もののななどのテクニックはこのようなことを背景にできたのではないかと思う。
高田祟史さんは和歌は呪術ではないかとし、在原業平が藤原基経(藤原良房の養子)に送った次のような歌の例をあげておられる。
桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
(桜花よ、散り乱れて空を曇らせておくれ。老いというものがやってくるという道が花びらでまぎれて見分けられなくなるように。)
業平は五七五七七の初句に「かきつばた」を読み込んだ歌を詠んでいる。
唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
(何度もきて身になじんだ唐衣のように、慣れ親しんだ妻を都に置いてきたので はるばる遠いところまで やってきた旅を しみじみと思う)
からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ
上の歌の五七五七七の初句をつなげると「かきつはた」となる。
桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
上の歌も、「かきつばた」の手法が用いられていると高田祟史氏は主張する。
五七五七七の初句をつなげると「桜散老来道」となる。
「桜散老来道」は漢語であり、読み下すと「桜散り老い来る道」となり、業平が藤原基経を呪った歌だというのだ。
⑩桜は藤原氏または藤原氏の栄華の象徴?
惟喬親王の渚の院での歌会は、呪術会だったのではないか?
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
(世の中に 桜というものがなかったならば、春の心は もっとのんびりしていただろうに)
また他の人の歌、
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になに か久しかるべき
(散るからこそ桜はすばらしいのだ。悩み多き世の中に、変わらないものなどあるだろうか。)
この二首は藤原良房が詠んだ次の歌を受けたものだと思う。
染殿の后のおまへに
年ふれば
(年を経たので、齢は老いた。そうではあるが、美しい桜の花をみれば物思いにふけることもない)
染殿の后とは藤原良房の娘、明子のことである。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし/在原業平
この歌に詠まれた、桜とは藤原氏の栄華のことで
「世の中に藤原氏の栄華がなければ、春の心がこんなにイライラすることはなかっただろうに。」という意味ではないだろうか。
また
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
は藤原氏の栄華は散るからめでたいのだ。思い悩むことの多い世の中だが、藤原氏の繁栄がいつまでも続いたりはしないだろうという意味だと思う。
古の日本では言霊信仰といって、口に出した言葉には実現させる力があると信じられていた。
これは、つまり歌は文学などではなく呪術であったということである。
惟喬親王は歌会と称して藤原氏を呪っていたのではないだろうか。
渚の院 淡墨桜
⑪なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのか?
枚方市には茄子作という地名がありここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれている。
惟喬親王は鉄鋼鋳造と関係が深そうに思える。
本尊掛松(枚方市茄子作)
大阪府三島郡島本町広瀬には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っている。
なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのだろうか。
惟喬親王は木地師の祖とされているが、木地師が用いるカンナはかつては木地師自身で作っていたという。
つまり、木地師は鍛冶屋でもあったのだ。
そのため惟喬親王は鍛冶屋の祖とされているのかもしれない。
また、かつて鍛冶屋は刀や弓矢などの武器をつくっていた。
惟喬親王と在原業平は挙兵をけいかくしており、武器を製造していたため、鍛冶屋の祖神として祀られているのかもしれない。
粟辻神社
⑫腰掛石は怨霊の執念がしみついた石?
千手寺 在原業平腰掛石
千手寺境内には在原業平腰掛石があった。
腰掛石と呼ばれるものはほかの寺にもある。
宇多天皇が創建した京都の仁和寺には菅公腰掛石があり、次のような伝説がある。
道真は藤原時平の讒言により流罪となった。
道真は大宰府に向かう途中、仁和寺に立ち寄り、冤罪であることを宇多上皇に訴えようとした。
しかし宇多上皇は留守だった。
仕方なく道真は石に座って帰りを待っていたが、会うことができないまま大宰府へ流されていった。
仁和寺 菅公腰掛石
また奈良の手向山八幡宮にも菅公腰掛石がある。
道真は宇多天皇の行幸に付き従って手向山八幡宮へやってきてこんな歌を詠んだとされる。
このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに/菅家(菅原道真)
(今回の旅は急な旅で幣も用意することができませんでした。かわりに紅葉の錦を捧げます。どうぞ神の御心のままお受け取りください。)
手向山八幡宮
『このたびは』の『たび』は『度』と『旅』に掛かる。
幣とは神への捧げ物のことで、絹や紙を細かく切ったものを道祖神の前で撒き散らす習慣があった。
今でも、神事のときに神主さんが細かく切った紙をまき散らしているのを見かけるが、これが幣だと思う。
幣(一言主神社にて)
道真が手向山八幡へやってきたとき、風がふいて紅葉がはらはらと散っていたのだろう。
それで、道真は紅葉を幣のかわりにしたということだろう。
菅原道真は宇多天皇にひきたてられて昇進した人物だった。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した。
このとき宇多天皇は『ひきつづき藤原時平と菅原道真を重用するように』と醍醐天皇に申し入れた。
醍醐天皇の御代、菅原道真は右大臣、藤原時平は左大臣になった。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっており、道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進だった。
道真の能力を恐れた藤原時平は醍醐天皇に次のように讒言した。
『道真は斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀っている』と。
斉世親王は宇多天皇の第3皇子で、醍醐天皇の異母弟である。
そして斉世親王は道真の娘を妻としていた。
醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、901年、道真を大宰府に流罪とした。
そして903年、道真は失意のうちに大宰府で死亡した。
大阪天満宮に展示されている雷神となって祟る菅原道真の怨霊の人形
その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次ぎ、これらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられた。
⑬菊野大明神
京都市中京区に法雲寺という寺があり、境内に菊野大明神が祀られている。
菊野大明神
ご神体は深草少将が腰掛けたという石だというが、柵で囲まれているので御神体の石がどこにあるのかわからなかった~。
髄心院に伝わる伝説によれば、深草少将は小野小町に「百夜通したならば100日目に会ってあげる。」と言われて実行したのだが、99日目の夜に死んでしまったとされる。
深草少将腰掛石にはその恨みが籠もっているので男女の仲を裂くといわれている。
このように見てみると、官公腰掛石は官公の、菊野大明神の深草少将腰掛石は深草少将の恨みが籠った石ではないかと思える。
すると在原業平腰掛石もまた、業平の恨みが籠った石なのではないだろうか?
千手寺 在原業平腰掛石
千手寺-石切観音 水子地蔵
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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惟喬親王の乱㊶『身投げした姥の正体とは?』 につづきます~
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