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惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』 惟喬親王の乱㉛ 惟喬神社 厳島神社 『磐座のある二つの神社』 よりつづきます~
「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。
①室生寺五重塔の宝瓶に閉じ込められた龍は井上内親王の霊?
私は室生寺は井上内親王を慰霊するための寺ではないかと考えている。その理由は・・・
770年、藤原百川・藤原永手らに推されて白壁王が即位して光仁天皇となった。
皇太子には光仁天皇と井上内親王との間に生まれた他戸親王がたてられた。
ところが772年、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとして皇后の位を剥奪される。
他戸親王も母・井上内親王に連座したとして廃太子となり、代わって山部王(のちの桓武天皇)が立太子した。
井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館、(奈良県五條市須恵あたり)に幽閉され、775年に二人は幽閉先で亡くなった。
公卿補任(くぎょうぶにん)によれば、この一連の事件は『藤原百川の策諜』とある。
藤原百川が策謀をたて、高野新笠が生んだ山部王を皇太子にする為に、井上内親王と他戸親王に無実の罪を被せた、というのだ。
また水鏡には
『(井上内親王の祟りによって)20日にわたって夜ごと瓦や石、土くれが降った。』
『777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。
12月、百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。また、
それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。』と記されている。
室生寺の栞には次のようなに記されていた。
奈良時代の末期、山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が興福寺の五人の僧によって行なわれ、これに卓効があったことから勅命によって創建された。 室生寺の栞には山部王のご病気平癒の祈願が行なわれたのはいつかについては記されていなかった。
でもそれは、777年12月と778年3月に行われたものと考えられる。
というのは『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)に次のような内容が記されているからだ。
777年12月と778年3月の2回に渡り、山部王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、興福寺の五人の僧が室生の地において延寿の法を修した。藤原百川や山部王が悪夢に悩まされたのが777年冬だったことを思い出してほしい。
山部王の病は井上内親王の怨霊の祟りであると考えられ、そのため室生寺で僧たちが延寿の法を修したのはないだろうか。
室生寺の五重塔の九輪の上には、水煙のかわりに宝瓶(ほうびょう/壷状の飾り)がつけられており、修円という僧が、この宝瓶に室生の龍神を封じ込めたと言い伝えられている。
修円が室生寺の五重塔の宝瓶に封じ込めた室生の龍神とは、井上内親王の霊ではないだろうか。
⓶龍の棲む穴と天岩戸室生寺をでて室生川を上流に向かうと室生龍穴神社がある。



拝殿には『善女龍王』と記した額があった。女神を祀る神社だと考えられる。

お参りをすませて龍穴に向かう。
途中、天の岩戸と呼ばれる岩があった。
はて。どこかで見たような形をしている?
天の岩戸からしばらく歩くと清流の傍らに龍穴があった。
清流は龍のようにくねりながら流れていた。
龍とはこの清流のことではないだろうか。
③惟喬神社の磐座は天岩戸だった?前回、雲ヶ畑の惟喬神社と厳島神社を参拝した。
惟喬親王の乱㉛ 惟喬神社 厳島神社 『磐座のある二つの神社』 惟喬神社と厳島神社、ふたつの神社に磐座があったのを思い出してほしい。
まず惟喬神社の磐座を見てみよう。
惟喬神社 磐座この磐座は、室生龍穴神社の天岩戸によく似ていると思うがどうだろうか?

室生龍穴神社 天岩戸もしかして、惟喬神社の磐座は天岩戸ではないのか?
厳島神社 磐座惟喬神社から少し山を下りたところに厳島神社があり、そこにも磐座があった。
この神社はもともとは天津石門別稚(あまついわとわけわかひめ)姫神社と呼ばれていた。
「天津石門」は「あまついわと」とよむ。これは「あまのいわと」と同じものではないか?
④志明院にとじこめた龍とは惟喬親王の霊?惟喬神社からさらに山を登っていくと志明院という寺がある。
創建は650年、829年に淳和天皇の勅命をうけて空海が創建し、皇室の勅願寺であったという。
本堂の不動明王は空海の作、奥の院の根本中堂には菅原道真作の眼力不動明王を安置する。
護摩洞窟には鳴神上人が竜神を閉じ込めたと伝わる。

ネットで志明院を調べると山門より中写真撮影禁止だったり、荷物を屋外にある受付に預けないといけないとか、etc・・・・w
どうもややこしそうだw
ややこしいのは苦手なので拝観しなかったw。石楠花の花が咲くそうなので、その季節にもしかしたら行くかもしれない。
境内のようすなどはこちらのブログが詳しかった。
https://blog.goo.ne.jp/tabi_diary/e/8ddce598f88bb095fcb3dc64075c1fffウィキペディアには次のように記されていた。
日本有数の魔所、都から追われた魑魅魍魎の最後の砦と云われている。
作家の司馬遼太郎が新聞記者だった頃、志明院に宿泊した時の奇っ怪な体験をエッセイにしている。司馬は後年アニメの宮崎駿監督との対談時にその話しをし、アニメ映画「もののけ姫」の着想になったといわれている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%98%8E%E9%99%A2 より引用
またすでに述べたように、志明院の護摩洞窟に鳴神上人が竜神を閉じ込めたと伝わる。
司馬遼太郎の体験とは、風もないのに障子がカタコト鳴る、とかそういった類のもののようだ。
私はその手のオカルトは証拠がないのに「幽霊だ」「心霊現象だ」と騒いでいるだけのように思えて興味がない。
しかし「都から追われた魑魅魍魎の最後の砦」という伝承は気になる。
オカルト的に気になるというのではなくて、「なぜそう言い伝えられているのか」その理由や背景が気になるのだ。
惟喬神社と近いところから考えて、惟喬親王と関係があるかもしれない。
この竜神もまた室生寺と同様、女神なのではないかと思える。
水の神、川の神は「女神であることが多いのだ。
弁財天は現在の日本においては「財宝を授けてくださる神」として信仰されているが
もともとはインドの川の神で「サラスヴァティー」といった。
日本では宗像三女神のイチキシマヒメと習合されている。
厳島神社はこの宗像三女神を祀る神社なので、雲ヶ畑の厳島神社は
天津石門別稚姫=宗像三女神=弁財天=川の神
としているのだろう。
また室生寺から室生川を上流に向かっていくと、龍穴神社があり、その奥宮に龍が棲むと言われる龍穴がある。
すぐそばを清流が流れているが、まがりくねった室生川はまるで龍そのものだった。
志明院の護摩洞窟に閉じ込められた竜神とは惟喬親王ことではないだろうか。
惟喬親王は男だといわれるかもしれない。
しかし、私は惟喬親王と小野小町は同一人物だと考えている。
これについては詳しく「小野小町は男だった」のシリーズで述べたが、簡単にまとめておく。
a | 古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。 |
b | 古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。 |
c | .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。 |
d | 『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。 三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。 紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。 また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。 三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。 そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。 惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。 そういうことで小町なのではないだろうか。 |
e | 花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。 ①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。 ②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。 ※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』 ※『世』・・・『世の中』と『男女関係』 ※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』 しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。 ③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。 |
そういえば、小野小町の邸宅跡と伝わる髄心院でも石楠花が咲く。
小野小町の邸宅跡と伝わる髄心院 石楠花
⑤石楠花は磐座に咲く花という意味?
石楠花は「石南花」の呉音読み「しゃくなんげ」が転じた名前とされる。
「石南」と書くのは、石の間に生えて、南向きの土地を好むためだという。
但し、中国の「石南」は日本の石楠花とは異なる品種である。
どうも誤って名づけられたらしい。
葉の裏側を中にした筒状にして越冬する白山石楠花という種類もあるそうである。
惟喬親王を祀る神社のひとつに多賀大社近くの白山神社があり、白山石楠花という名前は気になる。
もしかしたら石楠花には磐座に咲く花、山に咲く花というイメージがあり、それで石神である惟喬親王(=小野小町)ゆかりの寺に植えられているのかもしれない。
室生寺に祀られていると考えられる井上内親王も石の神として信仰されていたのかもしれない。
⑥志明院付近と室生寺付近の共通点気になる記事があった。
本堂の奥では谷が二つに別れていて、左方には歌舞伎の舞台となった護摩洞窟がある。奈良・室生寺奥の龍穴とよく似ており、渓流に面した崖にぽっかりと口を開けている。http://agua.jpn.org/tour/t21a.html より引用
④ですでにいくつか述べたが、志明院付近と室生寺付近には共通点がある。
| 志明院付近 | 室生寺付近 |
| 清流が流れている。 | 清流が流れている。 |
| 川のほとりに洞窟がある。(護摩洞窟) | 川のほとりに洞窟がある。(龍穴) |
| 石楠花が咲く。(志明院) | 石楠花が咲く。(室生寺) |
| 天岩戸に似た磐座がある。(惟喬神社・厳島神社) | 天岩戸がある。 |
| 龍をとじこめたという伝説がある。(志明院) | 龍をとじこめたという伝説がある。(室生寺) |
| 懸造の建物がある。(志明院) | 懸造の建物がある。(室生寺 金堂 奥の院) |
⑦惟喬親王を女神に転じる呪術こんな記事もあった。
祭神は、女神の天津石門別雅姫(あまついわとわけわかひめ)、山の神を祀るともいう。都の水源地を守る社として崇敬を集めた。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
年代不詳、当初は、岩屋山中に祀られていた。
平安時代中期、927年の『延喜式』の名神大社に列した、「天津石門別雅姫(あまついわとわけわかひめ)神社」ともいう。
その後、志明院(北区)の創建に伴い、現在地に遷されたという。
https://kyotofukoh.jp/report263.htmlより引用
天津石門別雅姫神社は、もともとは岩屋山中にあり、志明院の創建の際に現在地へ遷宮したのだという。
天津石門別雅姫神社はもともと志明院の境内にあったということかもしれない。
https://blog.goo.ne.jp/tabi_diary/e/8ddce598f88bb095fcb3dc64075c1fff↑ こちらの記事をよむと境内図に薬師如来、鳴神岩屋という二つの磐座が並んで描かれている。
この二つの石が天岩戸であったのかもしれないが、ぐぐっても写真がでてこないので何ともいえない。
現在の厳島神社(天津石門別雅姫神社)が志明院にあったほうが形としては整っているように見える。
というのは、厳島神社(天津石門別雅姫神社)は女神を祀る神社、惟喬神社は男神を祀る神社だからである。
女神は山の神、男神は田の神なので、女神の方が高い場所に祀られるべきだと思うのだ。
交野ケ原の織女石は妙見山の頂上ちかくにあり、牽牛が耕す田の神を祀る天田神社は妙見山をおり、天の川を超えたところにあった。
惟喬親王の乱㉗ 星田妙見宮と天田神社『天田神社の住吉明神は惟喬親王のイメージ?』
天津石門別雅姫神社が岩屋山中から、惟喬神社よりも低い位置に移転したのは、
そこに志明院が創建されることになって場所をあけわたしたというよりも、呪術的な理由があったのかもしれない。
惟喬神社に「雌宮」の額がかけられていたのを思い出してほしい。
惟喬神社の御祭神・惟喬親王は男なのに、なぜ雌宮なのか。
神は現れ方で御霊・和魂・荒魂にわけられるとされ、和魂は女神、荒魂は男神だとする説がある。
御霊・・・・神の本質
和魂・・・・神の和やかな側面・・・・女神(天津石門別雅姫)・・・・高所
荒魂・・・・神の荒々しい側面・・・・男神(惟喬親王)・・・・…・・低所
荒魂である惟喬親王を和魂である女神に転じるためにはどうすればいいか。
惟喬神社より低い場所に天津石門別雅姫を祀れば、天津石門別雅姫は男神に転じ、惟喬親王は女神に転じる。
御霊・・・・神の本質
和魂・・・・神の和やかな側面・・・・女神(惟喬親王)・・・・・・・・高所
荒魂・・・・神の荒々しい側面・・・・男神(天津石門別雅姫)・・・・・低所
そんな呪術がかけられているのではないか、とふと思った。
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