惟喬親王の乱㉗ 星田妙見宮と天田神社『天田神社の住吉明神は惟喬親王のイメージ?』
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惟喬親王の乱㉖ 中山観音寺跡と機物神社 『惟喬親王=小野小町=織姫?』 よりつづきます~
「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。
①牽牛星・織女星に喩えられた寺社は2ペアあった。
前回の記事、惟喬親王の乱㉖ 中山観音寺跡と機物神社 『惟喬親王=小野小町=織姫?』 で
中山観音寺跡と機物神社は天の川を挟んで対面しており、牽牛星(アルタイル)と織女星(ベガ)に喩えられているという話をした。

機物神社

中山観音寺跡
しかし、天の川流域にはもう一ペア、牽牛星と織女星に喩えられた寺社がある。
天田神社と織女神社だ。
こちらのペアは中山観音寺跡&機物神社ペアよりも、天の川の上流にあって、やはり天の川を挟んで対面している。

天田神社

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)
次のように伝えられています。
「このあたりの土地が肥えて作物が豊かにとれるところから甘野、天の川は甘野川、甘野にある田は天田と呼ばれていた。
そして甘田に他の神を祀って甘田宮とした。
七夕信仰から、甘野川は天の川、となり、天田は牽牛が耕す田と考えられた」
牽牛は牛飼いとされるが、昔は田おこしの際には牛を牽いて田を耕していたので、牽牛は田の神と考えられたのだろう。

②石清水八幡宮所領
調べてみたところ、天田神社ちかく(森地区)は石清水八幡宮の所領であったことがわかった。
平安時代の三宅山荘園の遺構も発掘されている。
森地区の氏子さん方は石清水八幡宮の勅祭石清水祭に御先払神人として奉仕もされているそうである。

石清水八幡宮
③石清水八幡宮の御祭神・応神天皇は惟喬親王とイメージが重ねられている?
おお!石清水八幡宮!
惟喬親王の乱⑰ 石清水八幡宮 『石清水八幡宮の神主が紀氏の世襲なのはなぜ?』
上野記事に私は次のようなことを書いた。
a.清和天皇は文徳天皇の第二皇子として850年に生まれ、生まれたばかりで皇太子となった。
そして858年、わずか8歳で即位した。実際の政治は清和天皇の外祖父の藤原良房がとっていた。
石清水八幡宮の創建は860年、清和天皇の勅命によってとされるが藤原良房の意思によるものだと考えるのが妥当。
b.文徳天皇には清和天皇のほかに紀静子所生の第一皇子の惟喬(これたか)親王があり、文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考え源信に相談している。ていた。をいさめたという。
しかし源信は藤原良房を憚って天皇を諫め、藤原明子所生の清和天皇が即位した。
c.世継争いに敗れた惟喬親王は御霊(怨霊が祟らないように慰霊されたもの)として大皇器地祖神社 (おおきみきじそじんじゃ)、筒井神社、玄武神社、惟喬神社などに祀られている。
d.石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲していた。
e.石清水八幡宮の創祀は藤原良房の意思によるものと思われるが、良房ははなぜ石清水八幡宮の神主を紀氏としたのか。
日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていた。
石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないか。
④天田神社付近、肩野物部氏の所領から石清水八幡宮の所領になる?
そして牽牛星に喩えられる天田神社があるあたりは石清水八幡宮の所領であったという。
しかし、この付近は古には肩野物部氏の本拠地だった。
この近くには磐船神社もあるが(惟喬親王の乱㉒ 磐船神社『ニギハヤヒと神武の争い』 )
磐船神社の御祭神・ニギハヤヒは物部氏の祖神だ。

磐船神社 ご神体 天の磐船
私は星田妙見宮はもともと物部氏が祭祀する神社だったのではないかと思う。
天田神社の創建年代は不明のようだが、星田妙見宮の創建から遅れて、紀氏または藤原氏によって創建されたのではないかと思う。
⑤ふたつの織女石は北極星をあらわしている?

上は星田妙見宮の境内図だが、①織女石(たなばたいし)のイラストの注目してほしい。
石はふたつあるように見える。
星田妙見宮のhpには『享和元年刊『河内名所図絵』にみる「星田妙見宮」』の図が掲載されていた。
https://www.hoshida-myoken.com/%E3%81%94%E7%94%B1%E7%B7%92/
この絵を見ると、やはり二つ石があるように見える。
織女石の背後は茂みになっているが、その茂みに隠れてもうひとつ石があるのではないだろうか。
そして妙見宮とは北辰信仰(天の北極、北極星、北斗七星に対する信仰)の宮のことである。
星田妙見宮の境内図を見ると、頂上近くに織女石があり、頂上へいたる参道に北斗七星の神々(文・禄・巨・貧・廉・武・破)が祀られている。(下図をみると、北斗七星ではなくこぐま座の神々なのかもしれない、と私は考えている。)
この位地関係から見て、織女石は北極星または北辰のように見える。

下手クソな図ですいません~。
つまり、アルタイルとベガが和合して北極星になった、ということで、この二つの石を北極星として信仰していたのではないかと思ったりするのだがどうだろう?
また織女石と書くが、読み方は「たなばたいし」である。
本来「七夕石」と書いていたのを、のちに石清水八幡宮が天田神社を創建し、天田神社を牽牛星に喩えるようになったので、「織女石」という字をあてて「たなばたいし」とよませるようになった、なんてことはないだろうか?
⑥天田神社の住吉明神と惟喬親王のイメージが重ねられた?
③で書いたように、石清水八幡宮の御祭神の応神天皇は、惟喬親王のイメージと重ねられていると思う。
そして、伊勢物語 渚の院の段につぎのようにあるのだった。
親王は言った。 「交野を狩りをして天の河のほとりにたどりついた、を題に歌を詠んで杯をつげ。」 馬頭(在原業平の事だと考えられている。)は歌を詠んだ。 狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり (一日中狩りをして日が暮れてしまったので、織姫に宿を借りよう。天の河原に私はやってきたのだから。) 親王は何度も歌を繰り返され、返歌することができない。 紀有常も御供されており、紀有常が返した。 ひととせに ひとたび来ます 君待てば 宿かす人も あらじとぞ思ふ 織姫は一年に一度いらっしゃる君(=彦星)を待っているのだから、宿を貸す人はないだろう。 |
「和歌は呪術である」と高田祟史さんは言っておられるが、もしそうであるとすれば、この二首はどんな意味になるだろうか。
それはわからないが、天田神社の御祭神が惟喬親王とイメージが重ねられているとはいえそうに思える。
天田神社の御祭神はもともとはニギハヤヒであったというが、のちに住吉四神に変わっている。
つまり、惟喬親王はニギハヤヒともイメージが重ねられたのではないか、ということである。
上の2首の意味はわからないが、天田神社の住吉明神と惟喬親王のイメージが重ねられたことを暗示しているようにも思われる。

天田神社
惟喬親王の乱㉘ 多賀大社 『お多賀杓子はミシャクジ様?』 につづきます~
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