惟喬親王の乱⑮ 根来寺 『根来塗と小野小町伝説は惟喬親王と関係あり?』
惟喬親王の乱⑭ 法輪寺 重陽神事 『惟喬親王、菊のしずくを飲んで不老長寿を得る?』 よりつづきます~
「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。
①紀州漆器の担い手たちは滋賀県木地師の里からやってきた?
室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろ、近江の木地師集団が紀州に移住してきたという。
彼らが紀州檜を用いて椀などを製造したのが紀州漆器の始まりとされる。
おお~、近江の木地師!
近江は現在の滋賀県だが、滋賀県東近江市君ヶ畑あたりは「木地師の里」と呼ばれている。
惟喬親王の乱③木地師の里 『世継争いに敗れた皇子』
また、滋賀県蒲生郡日野では日野漆器が作られていた。
惟喬親王の乱⑫ 正明寺『惟喬親王を厚く信仰した日野の木地師・塗師たち』
日野は1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展したとされる。
近江の木地師集団が紀州に移住してきたのは室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろということなので、日野からやってきたということはないか。
紀州漆器の担い手たちは滋賀県東近江市君ヶ畑あたりの「木地師の里」からやってきたのかもしれない。

大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)
君が畑には大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)があり、木地師の祖神として惟喬親王を祭っている。
大皇器地祖神社の近くには惟喬親王の墓もある。(京都三千院近く、滋賀県筒井峠付近にも惟喬親王の墓がある。)

大皇器地祖神社近くにある惟喬親王の墓
惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があり
(奈良時代にろくろで作られた百万塔が現存しているので、この伝説は事実ではないが)
そのため、木地師の祖とされている。

木地師資料館に展示されていた掛け軸
使い方は上の絵のとおり。
ひとりがロープの両端を持って棒を回転させる。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削る。
木地師の祖ということで日野漆器の産地だった滋賀県日野でも惟喬親王は厚く信仰されていた。
日野祭の双六町曳山の見送幕は惟喬親王が描かれている。
http://www.diana.dti.ne.jp/~tsuku/yama/sugo.html
近江からやってきて紀州に定住した木地師集団も惟喬親王を信仰していたことだろう。
また惟喬親王の母親は紀静子といい、紀氏の女性だった。
そして紀州は紀氏の本拠地なので、木地師たちは紀州で漆器をつくるということに意義を見出していたかもしれない。

②根来塗
近江の木地師集団が定住して漆器をつくったのが紀州漆器とする説のほか、秀吉の根来寺焼き討ちからのがれてきた職人が黒江湊に移住して紀州漆器がつくられはじめたとする説もある。
根来寺に関係する漆器に根来塗があり、寺の僧侶たちが用いていたとされる。
黒漆で下塗りをしたのち、朱漆塗りを重ねてつくるそうである。
たぶん朱塗りは漆に天然の辰砂をまぜるのではないかと思う。(もしちがっていたら教えてね~)
https://www.negoronuri.com/
③なぜ根来に小野小町伝説があるのか

根来寺
根来寺の裏あたりにある山を根来山というようである。(写真に写っている山が根来山かどうかはわからない。すいません。)
で、この根来山付近にこんな話が伝えられている。
康和(1099~1104年)のころ、根来山の麓の西坂本に室家右兵衛尉忠家(むろやうひょうえのじょうただいえ)が住んでいた。
忠家は金持ちだったが、子供がなかった。
あるとき、忠家の妻は、小野小町の墓に参拝すると子供を授かるという話を聞き、二十一日絶食して小野小町の墓にお参りをした。
やがて妻は身籠り女児を出産した。
女児は桂姫と名付けられ、小野小町そっくりな美女に成長した。
桂姫の髪は住持池(じゅうじがいけ)の水をつけないと梳くことができず、住持池の水を汲んできては梳いていた。
桂姫は和泉国尾崎の大原源蔵高広(おおはらげんぞうたかひろ)という北面(ほくめん)の武士に嫁ぐことになった。
嫁入り行列が住持池を通り過ぎようとしたとき、空がかき曇り池に大波がたり、大蛇があらわれて娘をさらって水の中に消えた。
母親は悲しみもう一度娘に会いたいと願っていましたが、あるとき住持池を泳ぐ二匹の蛇の姿を見た。
桂姫をさらった大蛇は小町に思いをよせていた深草小将の生まれ変わりだといわれている。
なぜ、この地に小野小町の伝説があるのだろうか。
実は私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えている。
詳しくは別ブログの次のシリーズ
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html
特に、下記記事を詳しく書いているが
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』
ざっとまとめておくと次のような理由があげられる。
a | 古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。 |
b | 古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。 |
c | .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。 |
d | 『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。 三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。 紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。 また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。 三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。 そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。 惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。 そういうことで小町なのではないだろうか。 |
e | 花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。 ①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。 ②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。 ※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』 ※『世』・・・『世の中』と『男女関係』 ※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』 しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。 ③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。 |
①で述べたように惟喬親王は木地師の祖として信仰されている。
また惟喬親王が法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があり、惟喬親王は塗師からも崇拝されていた。
そして根来塗をつくるためには木地師と塗師の存在が必要である。
根来寺付近に住んでいた木地師や塗師は惟喬親王を厚く信仰しており、惟喬親王=小野小町なので、小野小町に関係する伝説が生じたのではないだろうか。
ところで、この話にでてくる小野小町の墓ってどこにあるのだろうか。
和歌山市湯屋谷に小野小町の墓があるそうだが、ここのことだろうか?

惟喬親王の乱⑯ 法輪寺 針供養 『法輪寺で針供養が行われているのは何故?』 に続きます~
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