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蜘蛛の巣に住む観音 (東大寺 三月堂)

東大寺 三月堂 百日紅
三月堂と百日紅

●不空羂索観音と土蜘蛛

728年、聖武天皇と光明皇后が幼生した基皇子の菩提を弔うために若草山麓に山房を設けて9人の僧を住まわせた。
この寺が金鍾寺である。
8世紀半ば、金鐘寺には羂索堂や千手堂が存在していた。
この羂索堂が現在の東大寺三月堂だと考えられている。
その後、741年に聖武天皇は国分寺建立の詔を発し、742年に金鐘寺は大和国の国分寺となり金光明寺と改められた。

東大寺 三月堂 鹿
三月堂と鹿

三月堂はもとは寄棟造正堂と礼堂の二つの建物からなっていた。
鎌倉時代に礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだため、不思議な形をしている。
正堂は天平初期、礼堂は鎌倉時代の建築となる。
三月堂は現存する東大寺最古の建物である。

堂内には美しい天平仏たちが安置されている。
中央に安置されているのが三月堂御本尊の不空羂索観音である。
像高3.6メートルもある巨大な像で、宝冠には約2万粒の宝石がつけられている。 
三月堂・不空羂索観音 画像

不空羂索観音の四本ある左手のうち、下から二番目の手に羂索を持っておられる。

羂索とは狩猟の道具で、5色の糸をより合わせた縄の片端に環、もう一方の端に独鈷杵の半形をつけたものである。
不空羂索観音はその羂索であらゆる衆生をもれなく救済する観音であるといわれる。
同じく不空羂索観音をご本尊としている不空院(奈良市高畑町1365)を参拝したとき、「羂索とは網である」と説明を受けた。
私は不空羂索観音が羂索を投げる姿を想像してみた。
羂索の網はぱあっと広がって、まるで狂言や六斎念仏で演じられる土蜘蛛のようではないか。
清水寺 中堂寺六斎 土蜘蛛
そう思って改めて見てみると、不空羂索観音の光背は蜘蛛の巣に似ている。
不空羂索観音の腕は8本だが、蜘蛛の脚も8本である。
不空羂索観音とは土蜘蛛をあらわしたもので、その光背は蜘蛛の巣をイメージしたものなのではないだろうか。

土蜘蛛とは奈良時代の記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことである。
まつろわぬ民とは、謀反人のことであるといってもいいだろう。

不空羂索観音の肩にかけてあるケープのようなものは鹿の皮であるが、鹿もまた土蜘蛛同様、謀反人を比喩したものだとする説がある。

●志貴皇子暗殺説

以前、図書館で志貴皇子暗殺説について記された本を読んだのだが、本のタイトルや著者の名前を忘れてしまった。(申し訳ありません!)

その本には次のような内容が記されていた。

①日本書紀の仁徳天皇紀に『トガノの鹿』という物語が記されている。
雄鹿が雌鹿に全身に霜が降る夢を見た、と言った。
雌鹿は夢占いをして、
『それはあなたが殺されることを意味しています。霜が降っていると思ったのは、あなたが殺されて塩が降られているのです。』
と答えた。
翌朝、雄鹿は雌鹿の占どおり、猟師に殺された。

かつて謀反の罪で殺された人は塩を振ることがあった。
トガノの鹿に登場する雄鹿は謀反人の比喩ではないか。

②萩は別名を『鹿鳴草』という。萩もまた謀反人を比喩したものではないか。

③笠金村が志貴皇子の挽歌を詠んでいる。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

志貴皇子の邸宅跡と伝わる百毫寺(奈良市白毫寺町392)に萩が植えられているのは、この挽歌にちなむものではないか。

百毫寺 萩
百毫寺 萩
④笠金村は志貴皇子の挽歌を二首詠んでいる。
a.高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
b.御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

aの歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせ、bの歌は志貴皇子の死が実は最近のことではなく、ずいぶん以前のことであったかのようである。
万葉集詞書によれば志貴皇子の薨去年は715年としている。しかし正史では716年となっていて1年ずれがある。
志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年ほど伏せられていたのではないか。

⑤のちに志貴皇子の子である光仁天皇が即位している。志貴皇子には皇位継承権があったのではないか。

これらの説を読んで、私はなるほど、そのとおりだろう、と思った。

①のトガノの鹿の物語は、鹿の夏毛には白い斑点があるのを、塩に見立てたものだと思う。
また白い萩も塩を振ったように見える。
萩には紫色の花もあるが、こちらは雌鹿をイメージしたものだと思う。
というのは次のような歌があって、恋する女性は紫色に喩えられていたように思われるからである。
紫は 仄(灰)さすものぞ つば市の 八十のちまたに 逢へる児や誰 /詠み人知らず
紫色に布を染めるには灰を媒染として用いていた。
灰をいれると布が紫色に染まるように、男にあったとたん、女がぽっと赤くなった、というような意味だろうか。
紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも/大海人皇子
という歌もある。

⑤のちに志貴皇子の子である光仁天皇が即位していることから、志貴皇子には皇位継承権があったのではないか。
とあるが、これを裏付ける伝説が奈良豆比古神社にある。

『平城津彦神社由来』にはこのようにある。

大友皇子側についていた志貴皇子は壬申の乱の後は政治的に不遇で、その亡骸は奈良山の春日離宮に葬られた。 
志貴皇子の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していた。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は春日王をよく看病していた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)に長けており、ある日春日大社で神楽を舞い、父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊された。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれたが、これは奈良坂に住んだ春日王のことと関わりがあるかもしれない。 


しかし『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんは次のような語りを伝承しているという。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。


ここに「志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった」とある。

●志貴皇子を暗殺したのは誰?

志貴皇子暗殺説の本には、志貴皇子を暗殺したのは誰か、については記されていなかったと記憶しているが、私は元正天皇が怪しいと思う。

というのは、万葉集詞書によれば志貴皇子は715年に薨去したとされているが、この年、元正天皇が即位しているからである。
志貴皇子には正当な皇位継承権があり、元正天皇自分が皇位につくために志貴皇子暗殺を企てたのではないだろうか。

元正上皇と舎人親王が贈答しあった歌が、万葉集にある。

あしひきの 山行きしかば 山人の 我に得しめし 山つとぞこれ/元正上皇
(山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。)

あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰/舎人親王
(陛下は山へ行かれて山人に土産をもらったとおっしゃるのですか。「山人」とは誰のことなのでしょうか。山人とは陛下のことではありませんか。)


山人とは『山に住む人』『仙人』という意味だが、『いきぼとけ』とよんで『心や容姿の美しい女性』のことをさす言葉でもあった。

私はこの歌は志貴皇子の次の歌に対応しているのではないかと思う。

むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟師(さつを)に 逢ひにけるかも/志貴皇子
(むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。)


大伴坂上郎女という人が次のような歌を詠んでいる。

大夫(ますらを)の 高円山に 迫めたれば 里に下り来る 鼯鼠(むささび)ぞこれ/大伴坂上郎女
(勇士たちが高円山で狩りをして、里に下りてきたむささびがこれです。)


大伴坂上郎の歌の中に『 高円山』とでてくるが、高円山には志貴皇子の墓がある。
つまり高円山に住むむささびとは志貴皇子のことである。
志貴皇子は自分自身をむささびに喩えて歌を詠んだのだろう。

元正上皇がいう『山人』とは志貴皇子、『山人がくれたみやげ』とは『志貴皇子の死』を意味しているのではないだろうか。

元正天皇が女の身でありながら皇位についたのは、弟の首皇子へ皇位をつなぐためであった。
首皇子を即位させることは、元正天皇の祖母・元明天皇の悲願だった。

707年、文武天皇が崩御すると、文武天皇の母親の安陪皇女は、文武天皇の子である首皇子へ皇位をつなぐために中継ぎの天皇として即位し元明天皇となった。
715年、首皇子はこのときまだ14歳と若く病弱であったこと、また藤原氏との対立などもあって、首皇子の同母姉の氷高皇女がやはり中次の天皇として即位して元正天皇となった。
724年、元正天皇の譲位を受けて首皇子が即位し聖武天皇となった。
727年、聖武天皇と藤原光明子の間に基王が生まれたが、基王は728年に夭逝してしまった。

聖武天皇や藤原光明子は基王が夭逝したのは志貴皇子の怨霊のせいだと考えたのではないだろうか。

想いだしてほしい。
三月堂は728年に聖武天皇と光明皇后が夭逝した基皇子の菩提を弔うために創建された金鐘寺の 羂索堂だったことを。
そして三月堂のご本尊・不空羂索観音の光背が蜘蛛の巣のように見え、手に持った羂索を投げる姿を想像すると、狂言や六斎念仏の土蜘蛛にそっくりであること。
不空羂索観音の肩には鹿革のケープがかけられており、鹿=謀反人をイメージさせることを。
三月堂の不空羂索観音は志貴皇子の怨霊封じ込めの像ではないだろうか。

●タケミカヅチの本地仏

鹿は春日大社の神使とされており、不空羂索観音は鹿皮のケープを身に着けている。
このようなところから、三月堂の不空羂索観音は春日大社の御祭神であるタケミカヅチの本地仏とされている。

春日大社は藤原氏の氏寺で、三月堂から歩いてすぐの場所にある。

本地仏とは本地垂迹説からくる言葉である。
日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮に姿をあらわしたものであるとする考え方のことを本地垂迹説といい、日本の神仏習合のもととなった。
そして日本古来の神々のことを垂迹(権現ともいう)、日本古来の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏といった。

平たく言うと、春日大社の御祭神のタケミカヅチは不空羂索観音の生まれ変わりであると考えられていたということである。

それにしても不思議なのは、三月堂は東大寺のお堂で、東大寺は天皇家の寺であるのに、なぜ藤原氏の氏神である春日大社のタケミカヅチと習合されているのかということである。

三月堂の隣には東大寺の鎮守・手向山八幡宮があって、応神天皇・姫大神・仲哀天皇・神宮皇后・仁徳天皇を御祭神としている。
習合するのであれば、春日大社の神よりも、手向山八幡の神のほうがふさわしいように思えるのだが。

春日大社の御祭神は藤原氏の守護神であるタケミカヅチとフツヌシ、祖神であるアメノコヤネノミコトとヒメ神である。

アメノコヤネノミコトは天児屋根命と書くが、私は天児屋根命とは天智天皇のことではないかと考えている。
天児屋根命の『児』とは小さいという意味で、『小さな屋根の下にいる神』という意味になる。
そして天智天皇は
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の仮庵の屋根があらくて雨漏りがするので、私の衣の袖は露に濡れどおしだよ。)

と歌を詠んでいる。
仮庵の雨漏りのする屋根はそれは小さいことだろう。

天児屋根命は藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫ということになるが、『興福寺縁起』によれば藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけており、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であるとしている。

とすれば、天智天皇が藤原氏の祖神というのは辻褄があう。

春日若宮様は1003年旧暦3月3日、第四殿(比売神)に神秘な御姿で御出現になったとされる。
当初は母神の御殿内に、その後は暫らく第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神として信仰されていた。

私は春日若宮様とは春日宮天皇とも呼ばれた志貴皇子のことだと思う。
天皇の皇子であるし、春日という名前も一致している。

つまり、東大寺の三月堂と春日若宮は同じ神、志貴皇子を祀っているのである。
春日神社の神は他にタケミカヅチ・比売神がいるが、春日明神とひとくくりにされることが多い。
それで、三月堂の不空羂索観音は春日大社のタケミカヅチの本地仏であるなどと言われているのではないだろうか。

東大寺・・・奈良市雑司町

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[ 2014/08/19 ] 奈良 | TB(-) | CM(-)