拾遺都名所図会に描かれた蜘蛛塚の話に戻ろう。
この蜘蛛塚平安時代に源頼光が退治した土蜘蛛が住んでいた場所だとされる。
蜘蛛塚と呼ばれる巨岩(岩ではないかもしれないw)が、桃畑の中にあったというのがなかなか興味深い。
桃は邪気を祓う、などといわれていて節分には桃の弓で葦の矢を射て清めの儀式を行ったりする。
つまり、蜘蛛塚は桃畑の中に置かれることで、そこから外に土蜘蛛が彷徨い出ないような呪術的仕掛けがなされているのではないだろうか。
蜘蛛塚は平安時代に源頼光が退治した土蜘蛛が住んでいた場所だとされている。
源頼光の生没年は948-1021年である。
時代から考えて、源頼光が退治した土蜘蛛とは940年に討ち死にした平将門のことだと思われる。
土蜘蛛とは斬首されて頭部のない人間のことではないかと私は考えているが、平将門の首は斬首されて京に持ち帰られ、晒されたのだ。
④惟喬親王にろくろ首のイメージ?さきほども述べたように、清和院はもともとは京都御所の東にあったのだが、1661年に火災にあい、この場所に移転している。
これを信じるならば、蜘蛛塚は清和院が移転してくる前からここにあったということになる。
しかし、本当に平安時代から蜘蛛塚がここにあったかどうかはわからない。
また言い伝えとおり平安時代から蜘蛛塚があって、清和院があとからここに移転してきたのだとしても、
清和院は蜘蛛塚となんらかの関係があったために、ここに移転してきたという可能性がありそうに思える。
惟喬親王は法華経の巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を発明したという伝説がある。
かつて木を削るために用いられていた轆轤は巻物のように細長い形で、そこに何重にも綱を巻きつけ、1人がその紐を引っ張ることで軸を回転させる仕組みになっていた。
で、その軸の先端に木材をとりつけ、もうひとりが回転する木材に刃物をあてて削っていた。
木地師資料館に展示されていた掛け軸轆轤の形は妖怪・ろくろ首を思わせる形をしている。
轆轤の先端にセットされたお椀が頭で、轆轤の軸が首のイメージである。
蘇我入鹿やゲンボウ、平将門の髑髏が飛んだという伝説があるが、ろくろ首とは飛行する髑髏の変形バージョンなのではないだろうか。
まさか本当に親王とも有ろうお方が轆轤を発明したとも思えないが、なぜ惟喬親王が轆轤を発明したなどと言われているのだろうか。
惟喬親王にはろくろ首のイメージがある。
ろくろ首は飛行する首の別バージョンだと考えられる。
ということは、惟喬親王もまた平将門と同様、土蜘蛛(首のない人間)ではないのか。
それで清和院が移転する場所として、蜘蛛塚のある場所が選ばれたのかもしれない。
境内には首のない地蔵菩薩が祀られていた。
この石仏の由緒が知りたいと思ったが説明書はなかった。
清和院 首無地蔵首がない石仏は珍しいものではなく、あちこちで見かけた記憶がある。
しかし気になる。
惟喬親王の乱⑨ 十輪寺 『惟喬親王と六歌仙』 に続きます~
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