惟喬親王の乱④胴体がなく首の長い神 よりつづきます~
「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。
①雲ヶ畑の松上げ地蔵盆の8月24日、友人とふたり京都市北区雲ヶ畑へ車で出かけた。
バスは1日2便のみ。秘境のムードが漂っている。
この日、雲ヶ畑では松上げの行事が行われた。
雲ヶ畑の松上げは、五山送り火のように山の斜面に文字型に組んだ松明を点灯するというもので、出谷町と中畑町の2か所でほぼ同時刻に行われる。
せっかくふたりいるので、友人は出谷町、私は中畑町の松上げを見物することにした。
(出谷町の写真は友人が撮影したものを借りました。ありがとうございます。)
⓶中畑町友人と別れ、中畑町の高雲寺に行くと、境内の片隅に石碑が建てられていた。
石碑には「親王へ 火の文字 今も 里の盆/香澄」と俳句が刻まれていた。
平安時代、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王がこの地に隠棲したと伝わっている。
惟喬親王の乱③世継争いに敗れた皇子 ↑ こちらの記事では惟喬親王は滋賀県の君ヶ畑に陰性したという伝説があると書いた。
一般には惟喬親王が隠棲したのは山城国愛宕郷小野であり、小野の里は大原のあたりとされる。
大原には惟喬親王の墓もある。
惟喬親王の隠棲地や墓は各地にあって、定まらないのだ。
それはともかく、雲ヶ畑の松上げはその惟喬親王を偲んで行われるようになったという。
惟喬親王が53歳で亡くなられたのは897年のことである。
1100年以上たった今でも里の人は惟喬親王のことを忘れず、火の文字をあげて惟喬親王を偲んでいるのだ。
中畑町の松上げが始まった。
高雲寺境内から向かいの山に向かって松明を振り「おーい」と叫ぶと、向かいの山から「おーい」と返事が返ってきて文字が点火された。
文字は毎年変わり、点火されるまで今年の文字が何なのかは点火してみないとわからない。
今年の文字は「千」だった。
文字が点火されると松明を持った人が山から降りて高雲寺の階段を駆け上ってきた。
③出谷町
出谷町の文字は「土」だった。
福蔵院境内では焚火でするめを焼いたそうで、友人が私のぶんのするめももらってきてくれた。
なぜするめを焼くのだろうか?
④雲ヶ畑は紀氏の土地だった?雲ヶ畑に厳島神社があり、その説明板に「このあたりは平安時代以前よりの集落で平安京造営の際、用材を切り出した地域である。」と記されていた。
紀氏は豊富な森林資源をいかした造船技術に長けていたというが、豊富な森林資源があったということは、用材を切り出したり、用材を運搬する技術にも長けていたことだろう。
このあたりもまた紀氏または紀氏と関係の深い人々が住んでいた地域だったのかもしれない。
そしてそういったところから、紀氏の血をひく惟喬親王に対する信仰が厚かったのかもしれない。
さきほども書いたように、惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で母親は紀静子だった。
惟喬親王が6歳のとき、文徳天皇と藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)が生まれた。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考え源信に相談したが、源信は藤原家を憚って文徳天皇をいさめた。
こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となり、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は御霊としてあちこちに祀られている。
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊したもののことである。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、天災や疫病の流行は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。つまり、惟喬親王は怨霊として畏れられていたということである。
惟喬親王を祀る神社として、
滋賀県の大皇器地祖神社、筒井神社
惟喬親王の乱③世継争いに敗れた皇子 京都府の玄武神社
惟喬親王の乱④胴体がなく首の長い神 についてはすでにご紹介した。
⑤惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩?日本の宗教といえば本地垂迹説に基づく神仏習合だった。
惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』 で説明したように、本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方のことである。
そして日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿をあらわした存在である日本の神々のことを権現、化身などといった。
例えば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、市杵島姫は弁才天の権現、菅原道真の本地仏は十一面観音であるなどとして同一視された。
惟喬親王の本地仏は何だろうか。
惟喬親王を偲ぶ雲ヶ畑の松上げは地蔵盆の8月24日に行われる。惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩なのではないか?
惟喬親王の乱⑥ 染殿院 『腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ?』 に続きます~
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