社の向かって右にある石碑には「惟喬親王勧請 鎮守神 御池大龍権現 天狗堂大僧頭権現」と記されていました。
「惟喬親王が勧請した御池大龍権現と天狗堂大僧頭権現をお祀りしています」というような意味でしょうか。
↓ 金龍寺の隣には
惟喬親王の墓がありました。
惟喬親王は平安時代の人物で父親は文徳天皇、母親は紀静子でした。
文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)という皇子もありました。
文徳天皇は長子で聡明な惟喬親王を皇太子にしたいと思っていましたが、当時は藤原氏が強い権力を持っていたため、惟仁親王が皇太子となりました。
皇太子争いに敗れた惟喬親王は小野の里に隠棲したとされます。
小野の里とは京都の大原あたりとされ、大原には惟喬親王の墓もあります。
しかし君ヶ畑ではこれとは別の伝説を伝えています。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は君ヶ畑に隠棲し、法華経の軸が転がるのを見て轆轤を発明。
そしてこれをこの土地の住民に伝え木地師が生まれたというのです。
金龍寺はこの地で惟喬親王が住んだ高松御所跡とされます。
↓ 金龍寺から歩いて数分のところに大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)にがありました。
大皇器地祖神社の御祭神は惟喬親王です。
かつて政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者は死後怨霊となり、疫病や天災をもたらすと考えられていました。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王も死後怨霊になったと考えられた結果、神として祀られたのでしょう。
前回ご紹介した玄武神社の御祭神も惟喬親王でした。
筒井神社(東近江市蛭谷町176)の奥には木地師資料館があり、轆轤を用いて器を作る人と、轆轤を発明した惟喬親王を描いた掛け軸が展示されていました。
木地師資料館に展示されていた掛け軸入口近くに置かれていた惟喬親王像は大きな茶碗を持っています。
⓶惟喬親王と髑髏木地師が轆轤を使ってつくるものの代表的なものは茶碗ですね。
それで茶碗を持つ惟喬親王像が作られているのでしょう。
茶碗といえば黒田官兵衛の兜が茶碗をひっくり返したような形をしていたのを思い出します。
http://matome.naver.jp/odai/2139711378115060501黒田官兵衛が茶碗をひっくり返したような形の兜をかぶっていたのは、茶碗が髑髏をイメージさせるものであったからではないかと私は考えています。
織田信長が浅井長政らの髑髏に漆を塗って杯にしたとか、江戸時代の漢詩人・高野 蘭亭、徳川光圀らが髑髏杯を持っていたなどといわれています。
髑髏杯とは人間の髑髏で作った杯のことです