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惟喬親王の乱⑥ 染殿院 『腹帯地蔵は惟喬親王のイメージ?』


トップページはこちらです→惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』  
惟喬親王の乱⑤雲ヶ畑 松上げ 『惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩?』  よりつづきます~

「小野小町は男だった」もよかったらよんでみてね。

染殿院 

①染殿地蔵

四条通寺町東入ル御旅宮本町に甘栗和菓子老舗・林万昌堂四条本店がある。
その店の奥にあるガラス戸を開けて一歩踏みこめば染殿院の境内である。
小さなお堂の傍らには「安産御腹帯 授與」と記されている。

染殿院のご本尊は2m余りの木彫裸形地蔵菩薩で、55代文徳天皇の皇后・藤原明子(染殿皇后)がこの地蔵菩尊に祈願して惟仁親王(のちの清和天皇)を授かったという伝説があり、「染殿地蔵尊」と呼ばれている。

本堂の向かって右手はビルとビルに挟まれた参道となっており、新京極通商店街につながっている。
新京極商店街にでて、ふりかえってみると、ビルに挟まれた狭い空間に染殿院の出入り口が設けられており、「時宗開祖 一遍上人 念仏賦算遺跡」と記された石碑が立てられている。

染殿院


②染殿院 歴史

ここで染殿院の歴史について、詳しく記されたサイトがあったので引用する。

◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 平安時代、808年、空海(774-835)の開基ともいう。空海は、入唐(804-806)の後、当院に留まり、主著『十住心論』(『秘密曼陀羅十住心論』(830頃)を清書調巻したことから、以後、「十住心院」と呼ばれたともいう。
 また、かつては釈迦如来を安置し、「釈迦院」、「敬禮寺(きょうらいじ)」、「清和院釈迦堂」、「釈迦堂」とも呼ばれていたという。
 第55代・文徳天皇皇后・藤原明子(829-900)は、染殿后(そめどの の きさい)と呼ばれ、この地蔵尊に祈願し、皇子(後の第56代・清和天皇)を産んだ。地蔵尊に帰依した。(『京羽二重』『山城名跡巡行誌』)。以来、「染殿地蔵尊」と呼ばれたという。
 また、第62代・村上天皇第4皇子・為平親王(952-1010)の殿舎は、四条中川付近にあり、染殿地蔵尊も邸内に祀られ御願寺になっていた。皇子は染殿親王(染殿式部卿)と呼ばれていたともいう。
 987年、東大寺・沙門奝然(ちょうねん、938-1016)は、宋から帰国し、赤栴檀の釈迦像を持ち帰った。後に、仏像は嵯峨野・清凉寺に安置したという。また、自ら三尺余り(0.9m)の釈迦像を造立し、当院に奉納したという。以後、「四条京極の釈迦堂」と呼ばれたという。
 鎌倉時代、1284年、時宗の開祖・一遍(1239-1289)は、かつて大津にあった大寺の関寺より入洛した。釈迦堂(染殿院)に7日間滞在し、念仏腑算(南無阿弥陀仏の名号を書いた札を配る)、念仏踊りをしたという。一遍のもとに、貴賤上下皆群れをなして集ったという。(『一遍上人絵』『遊行上人縁起絵』)
 1311年、真観(しんかん)は、第93代・後伏見天皇の女御・広義門院藤原寧子の安産に寄与し、「祇陀林寺(ぎだりんじ)」と呼ばれていたこの地を贈られる。「金蓮寺(こんれんじ、四条道場)」と改め、染殿院もその一院になる。
 南北朝時代、1354年、足利尊氏は十住心院に、紀伊国野上別井村地頭職を寄進する。
 1356年、武将・佐々木高(道誉、1296-1373)は、染殿地蔵院を含む四条京極一帯の土地を、当院北にあった金蓮寺(中京区中之町)に寄進した。足利基氏は十住心院を祈願寺にする。
 1384年、足利義満は十住心院に天下安全の祈祷を命じたともいう。
 1388年/1387年、室町幕府第3代将軍・足利義満(1358-1408)は、その寄進地を安堵(承認)し、外護した。以後、当院は、時宗四条派大本山金蓮寺塔頭(現在は北区に移転)になった。
 室町時代、1422年、足利義持は十住心院を祈願寺にした。
 1438年、足利義政は十住心院を祈願寺にする。
 江戸時代、寛文年間(1661-1673)、染殿地蔵は第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ、洛陽四十八願所の霊場の一つになる。
 1788年、大火により焼失した。
 1864年、御所以南の大火時に仮堂(現在の建物)が建てられたという。
 近代、1928年/1926年、金蓮寺が北区鷹峯に移転し、当院だけは旧地に残される。

少しややこしいので年表にまとめてみた。

808空海(774-835)が創建?
空海は、入唐(804-806)の後、当院で『十住心論』を清書調巻したことから、「十住心院」と呼ばれた。
第55代文徳天皇皇后・藤原明子(829-900/染殿后)が当院の地蔵尊に祈願し、清和天皇を産んだため、「染殿地蔵尊」と呼ばれた。
第62代村上天皇第4皇子・為平親王(952-1010)の殿舎は、四条中川付近にあり、染殿地蔵尊も邸内に祀られ御願寺とした。
987東大寺・沙門奝然(ちょうねん、938-1016)、宋より釈迦像を持ち帰り嵯峨野・清凉寺に安置する。
自ら三尺余り(0.9m)の釈迦像を造立し、当院に奉納した。以後、「四条京極の釈迦堂」と呼ばれた。
1284時宗の開祖・一遍(1239-1289)、釈迦堂に7日間滞在し、
念仏腑算(南無阿弥陀仏の名号を書いた札を配る)、念仏踊りを行う。
1311真観(しんかん)は、第93代・後伏見天皇の女御・広義門院藤原寧子の安産祈願をおこなって、この付近にあった「祇陀林寺(ぎだりんじ)」を贈られる。「金蓮寺(こんれんじ、四条道場)」と改め、染殿院も一院となった。
1354足利尊氏、「十住心院」に、紀伊国野上別井村地頭職を寄進。
1356武将・佐々木高(道誉、1296-1373)は、染殿地蔵院を含む四条京極一帯の土地を、当院北にあった金蓮寺(中京区中之町)に寄進。
足利基氏は十住心院を祈願寺にする。
1384足利義満は十住心院に天下安全の祈祷を命じる。
1388/1387室町幕府第3代将軍・足利義満(1358-1408)は、その寄進地を安堵(承認)し、外護した。
当院は、時宗四条派大本山金蓮寺塔頭(現在は北区に移転)になった。
1422足利義持は十住心院を祈願寺とする。
1438足利義政は十住心院を祈願寺とする。
1661/1673寛文年間、染殿地蔵は第112代・霊元天皇の命により、洛陽四十八願所の霊場の一つになる。
1788大火により焼失
1864染殿地蔵の仮堂(現在の建物)が建てられる。
1928/1926金蓮寺が北区鷹峯に移転し、当院だけは旧地に残される

この寺史の説明はよくわからない点がある。

空海が創建した「十住心院」と、染殿地蔵を祀る「染殿院」は別の寺院なのか、関係のある寺院なのか。

また987年に奝然(ちょうねん)が釈迦像を奉納した際に釈迦堂が作られてこの釈迦堂が「四条京極の釈迦堂」と呼ばれたのだろうが
釈迦像が奉納されたのは「十住心院」なのか、「染殿院(染殿地蔵を祀る寺)」なのか。
それとも「十住心院」と「染殿院」は同じ寺院だったのか。

1311年、真観(しんかん)はこの付近にあった「祇陀林寺(ぎだりんじ)」を贈られ、「金蓮寺(こんれんじ、四条道場)」と改め、染殿院も金蓮寺の一院となったとある。
ここで初めて祇陀林寺という寺名が出てくるが、
その後、1356年、足利尊氏は金蓮寺の一院・十住心院を祈願寺にしたとある。

1356年の時点で、十住心院は金蓮寺の一院となっているが、十住心院と祇陀林寺は全く無関係の寺だったのか、関係があったのか?

1788年、大火により焼失した、とあるが、焼失したのは染殿院だけなのか、金蓮寺も焼失したのか?

File:Ippen Biography 3.jpg

一遍聖絵 四条釈迦堂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Ippen_Biography_3.jpg よりお借りしました。
作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


また一遍聖絵を見ると四条釈迦堂は鴨川のほとりに建てられている。
現在の四条釈迦堂跡、染殿院は鴨川から少し離れたところにあるが、川の流れが変わったのだという。

File:Ippen Biography 4.jpg

一遍聖絵 四条釈迦堂
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Ippen_Biography_4.jpg よりお借りしました。
作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由


染殿地蔵に惟喬親王のイメージ

それはともかく、私はこの染殿地蔵には惟喬親王のイメージが重ねられているように思える。


藤原明子が文徳天皇の皇子・惟仁親王を生み、紀静子が生んだ惟喬親王と世継争いになった話は次の記事ですでにお話しした。
惟喬親王の乱③世継争いに敗れた皇子 
惟喬親王の乱④胴体がなく首の長い神 
惟喬親王の乱⑤惟喬親王の本地仏は地蔵菩薩? 

文徳天皇は惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談したが、源信は藤原明子の父・藤原良房に憚って文徳天皇を諌めたという。
立太子争いに敗れた惟喬親王は御霊として惟喬神社や玄武神社・大皇器地祖神社などに祀られている。

御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいう。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていた。
惟喬親王が御霊として祀られていることは、惟喬親王が怨霊として恐れられていたとことを示していると思う。

「末代までも祟ってやる」などと言うが、怨霊は自らを陥れた人物だけでなく、その子孫にも祟ると考えられた。
藤原良房や藤原明子の子孫は惟喬親王の怨霊の祟りを怖れたことだろう。

陰陽道では怨霊は祀り上げることで人々にご利益を与えて下さる守護神に転じると考えた。
藤原良房や藤原明子の子孫は地蔵菩薩に惟喬親王のイメージを重ね、自分たちの守護神に転じさせようと考えたのではないかと思う。
染殿院の地蔵菩薩には、惟喬親王のイメージが重ねられているのではないだろうか。

私は 惟喬親王の乱① 東向観音寺 『本地垂迹説』   で、菅原道真は現在は神として信仰されているが、もともとは怨霊であったこと、また本地垂迹説で、道真は十一面観音の化身とされていることについて記した。

また 惟喬親王の乱⓶法隆寺の救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像?  で、梅原猛氏が「聖徳太子は怨霊であり、法隆寺の救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像である」と説いておられるとのべた。

菅原道真や聖徳太子と同じく、惟喬親王も怨霊=神であり、染殿院の地蔵菩薩は惟喬親王の怨霊封じ込めの像ではないかと思うのだ。

「地蔵菩薩が清和天皇を授けて下さった」というのは正しくは「地蔵菩薩=惟喬親王が身を引いてくださったおかげで惟仁親王が即位して清和天皇となった」という意味ではないかと思ったりする。

思い出してほしい。
雲ヶ畑の松上げは、惟喬親王を偲んで今も行われている行事なのだが、その行事が行われるのは地蔵盆の8月24日なのだ。
このことからも、惟喬親王と地蔵菩薩のイメージが重ねられているように思える。


惟喬親王の乱⑦一言主神社 『土蜘蛛とは首のない人間のことだった?』 に続きます~

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[ 2020/08/29 ] 惟喬親王の乱 | TB(0) | CM(0)

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