謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑳ 最終回 紅葉は楓ではなく萩だった。
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猿丸神社
①「もみぢ」は楓ではなく萩の黄葉だった。
長い旅を経て、私は再び猿丸神社にやってきた。
境内の入り口には鮮やかに色づいた楓の根元に石碑があり、有名な猿丸大夫の歌が刻まれている。

「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき」
たぶん、この歌にぴったりだということで、石碑の横に楓を植えたのではないかと思う。
しかし、実はこの歌は楓の紅葉を歌った歌ではないのだ。
古今和歌集は隣あった和歌は同じ語句が用いられている。
1.年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ/在原元方
2. 袖ひちて むすびし水の こぼれるを 春立つ今日の 風やとくらむ/紀貫之
3.春霞 立てるや いづこ み吉野の 吉野の山に 雪は降りつつ/よみ人知らず
4.雪の内に 春はきにけり うぐひすの こほれる涙 今やとくらむ/二条后
1番の「春は来にけり(春は立春のこと。陰暦では1月2月3月が春だった)は、2番の「春立つ(立春)」につながる。
2番の「春立つ」は3番の「春霞」の春と「立てる」につながる。
3番の「春霞」は4番の「春はきにけり」の春に、「雪はふりつつ」の雪は「雪の内に」の雪につながる。
5.梅が枝に きゐるうぐひす 春かけて 鳴けども今だ 雪は降りつつ/よみ人知らず
6.春たてば 花とや見らむ 白雪の かかれる枝に うぐひすの鳴く/素性法師
4番の「うぐひす」「雪」と同じ語句が5番の歌にもある。
5番に「梅が枝」とあるので、6番の「花」は「梅の花」を意味しています。
また5番と6番はどちらにも「枝」「うぐひす」「雪」「鳴く(鳴けども)」という同じ語句があって、繋がっています。
それでは古今和歌集にある「奥山に」の歌は前後の歌とどのようにつながっているのかをみてみましょう。
秋上
214. 山里は 秋こそことに わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/読み人知らず
216 秋はぎに うらびれをれば あしひきの 山したとよみ 鹿のなくらむ/読み人知らず
214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっている。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じだ。
しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられている。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになる。
また『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されている。
a.下もみぢ かつ散る山の 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 山下とよみ 鹿の鳴くらん
こちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようである。
(番号もつけられているのかもしれないが、わからないので、仮にabcとしておく。)
こちらでもやはりbの歌の「もみぢ」とcの歌の「秋萩」が対応しており、もみぢとは萩の黄葉ということになる。
⓶猿丸大夫と志貴皇子の死を悼んだ挽歌は対応している?
「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思える。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく)

奈良大文字送り火は高円山に点火される。
③藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首を志貴皇子作として鑑賞すると・・・
古今和歌集では「奥山に」の歌は詠み人しらずとなっているが、百人一首では猿丸太夫が詠んだことになっている。
平安中期の藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首も、猿丸太夫=志貴皇子と考えればぴったりくるように思える。
●をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも 呼子鳥かな
(遠くも近くも見当もつかない山中にたよりなく呼子鳥が鳴いているよ)
これは高円山に葬られた志貴皇子の霊が詠んだ歌のように思える。
●ひたぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬと 見しは山のかげにざりける
(ひぐらしが鳴き始めて日が暮れたと思ったのは勘違いで、本当は山の影に入っていたのだった)
こちらは志貴皇子の霊が、自らの死を読んだ歌のように思える。
※暗くなったので夜になったと思っていたが、私は高円山に葬られていたのだった?
●奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
(深い山の中で 紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと秋が悲しく思えてくる。)
※私が葬られた高円山の萩の黄葉を踏み分けて鹿が鳴いているのを聞くと、わが身があわれに思えてくることだ?

春日宮天皇(志貴皇子)陵へ向かう長い参道

春日宮天皇(志貴皇子)陵
④天智天皇が詠むのにふさわしい歌なので天智天皇御製とした
死んだ志貴皇子の霊が和歌を詠んだりできるはずがない、といわれそうなので、それについて説明しておこうと思う。
古には著作権という考え方は存在していなかった。
そこで、Aという人が詠んだとするのにふさわしいと考えられる歌の作者をAとする、というようなケースがあった。
秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)
この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。
万葉集には
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける
という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。
詳しくはこちらの記事をお読みください。近江神宮 かるた祭 かるた開きの儀 『秋の田の・・・は埋葬されないわが身を嘆く歌だった?』

猿丸神社には瘤のある木がたくさん奉納されていた。
⑤猿丸神社はなぜ瘤取りの神として信仰されているのか?
猿丸神社は瘤取りの神として信仰されており、瘤のある樹木の枝がたくさん奉納されていた。
なぜ猿丸神社は瘤取りの神として信仰されているのだろうか。
奈良豆比古神社には、春日王または志貴皇子がハンセン病にかかったという伝説があるのだった。
そしてハンセン病になると結節 と呼ばれる瘤ができることがあるということである。
また瘤は音が鼓舞に通じるが、鼓舞のもともとの意味は「鼓を打って舞を舞う」ことである。
そこから転じて「大いに励まし気持ちを奮いたたせること」を鼓舞というようになったようだ。

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟
鼓を打って舞を舞うというのは、まさしく猿楽(能)のことである。
そしてその猿楽のルーツともいうべき翁舞は、弓削浄人または志貴皇子がハンセン病治癒を願って行ったものだった。
⑥うそぶきは志貴皇子?
奈良豆比古神社には古い能面が数多く展示されており、その中に額右に瘤のあるうそぶきの面もあった。

奈良豆比古神社の伝説では、志貴皇子の子・春日王または志貴皇子がハンセン病を患ったという。
つまり奈良豆比古神社の神はハンセン病の神なのだ。
そしてハンセン病では鼓舞(結節)ができることもあるという。
奈良豆比古神社の神=ハンセン病の神=瘤(結節)の神=鼓舞の神=うそぶき
このうそぶきは志貴皇子の神の姿をあらわしたもののように思える。
⑦猿丸大夫は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?
猿丸神社には狛犬ならぬ狛猿が置かれているが、その狛猿は猿楽のルーツかもしれない翁舞の三番叟の姿をしている。
鈴の代わりに御幣を持っているが、細長い烏帽子など同じである。

この猿丸神社の狛猿は猿丸大夫そのものの姿であると私は思う。
各地の神社に猿の像があるが、それらの猿の像は翁舞の三番叟の姿をしているものが多い。

新日吉神社 御神猿
高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人のことだと伝えられている。
道鏡は称徳天皇が次期天皇にしたいと考えていた人物だったが、称徳天皇が急死したことによって失脚し、下野に流罪になった。
このとき道鏡の弟の弓削浄人は土佐に流罪となったのだ。
そして道鏡が流罪になった下野には二荒山神社があるが、かつて猿丸社とも呼ばれており、二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。
二荒山神社の隣には日光東照宮があるが、そこには有名な三猿のレリーフがある。

また猿丸大夫とは道鏡のことであるとする説もある。
私はこの三猿のレリーフをみて、これは三人翁の姿であり、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の姿でもあるのではないかと思った。
『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子である可能性が高い。
また奈良豆比古神社の伝説によれば、弓削浄人(浄人王)の父親は志貴皇子の子の春日王となっているが
志貴皇子の別名は春日宮天皇・田原天皇、春日王の別名は田原太子で同じ名前なので、志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと思う。)

猿丸神社境内には「猿丸太夫故址」としるされた石柱があった。
そしてここからそう離れていない場所に大宮神社があり、その境内に「田原天皇社舊(旧)跡」がある。

田原天皇とは志貴皇子のことだ。
宇治田原は志貴皇子と関係の深い土地であり、宇治田原に志貴皇子の陵墓があったとも伝えられている。
⑧宇治田原と春日宮天皇田原陵の近くに茶畑があるのは偶然か?

↑ 春日宮天皇田原陵近くの茶畑

↑ 宇治田原の茶畑

↑ これは猿丸神社境内だが、大きな茶壺のようなものが置いてあり、猿丸大夫と茶には何か関係がありそうに思える。
どういう意味があるのか、まだ考えはまとまっていない。
しかし猿丸大夫の正体についての輪郭はかなり浮かび上がってきたように思える。
「とうとうたらりたらりろ」
そう謡いながら猿丸大夫は黒式尉は舞いつづけている。
私にはそう思えてならない。
end.
ながながとおつきあいくださり、ありがとうございました♪
また旅の中でお会いしましょう~。
写真ぶろぐ 心の旅
考えるぶろぐ 調べてみた。考えてみた。 もよろしくおねがいします。
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