謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑰猿丸神社のある宇治田原は志貴皇子ゆかりの地だった。 よりつづきます~
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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫
大宮神社①仮想の旅で田原祭へ
大宮神社の本殿前に田原祭のポスターが貼られてあった。
「神幸祭が10月10日で、一ノ宮(御栗栖)、大宮、三ノ宮神社から三機の神輿が郷之口の御旅所まで渡御する」と書いてある。
また「還幸祭は10月13日で、お旅所で神事、芸能(舞)、掛け馬などが行われる」そうである。
見に行ってみたいと思いながらなかなか行けずにいたところ、今年(2020年)コロナウィルスが流行して軒並み祭は中止となってしまった。
祇園祭の山鉾巡行も禁止になった。
祇園祭は疫神スサノオを慰霊するのが目的の祭なのに、コロナの前には疫神スサノオも手も足もでない、といったところか。ふ
きっと田原祭も中止だろう。残念。
しかしインターネットで仮想の旅に出かけることはできる。
大宮神社
②俵藤太はもともとは田原藤太だった?田原祭は平安時代、藤原藤太秀郷が平将門を滅ぼした恩賞として田原郷の領主となって以後、村の平和を祈願して神輿を担ぎ出したのが起源だと伝えられているそうである。
おー、藤原藤太秀郷!
藤原秀郷のことだ。藤原秀郷は俵藤太と呼ばれている。
また藤原秀郷は平貞盛とともに平将門討伐を行っているので、間違いない。
彼は田原郷の領主だったのだ。
以前の記事、
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑮道鏡と猿丸太夫 で、「俵藤太の百足退治伝説」について書いた。
藤原秀郷が琵琶湖の瀬田の唐橋を渡ろうとすると、橋の上に大蛇がいた。
秀郷は気にとめもせず、蛇を踏んで橋をわたった。
蛇は老人に姿を変えた。
そして、藤原秀郷を勇気のある人物とみこんで、三上山の百足を退治してくださいと頼んだ。
秀郷は三上山の百足を弓で射て退治した。
老人の正体は龍神で、ムカデ退治のお礼にと秀郷に米のつきない俵、つきない巻絹を与えた。
それで藤原秀郷は俵藤太と呼ばれるようになった。
また竜神は秀郷を竜宮にまねき、赤銅の釣鐘も与えた。
赤銅の釣鐘は三井寺に奉納された。
瀬田の唐橋の説明板より
藤原秀郷はムカデ退治のお礼にと龍神から米のつきない俵をもらったので、俵藤太と呼ばれるようになったという。
しかし、もともとは俵藤太ではなく、田原郷の藤太という意味で、田原藤太と呼ばれていたのではないか。
先ほども述べたように藤原秀郷は平貞盛とともに平将門を討伐している。
三上山の大百足とは平将門の比喩だろう。
そして貞盛は将門討伐の恩賞として田原郷を与えられた。
そのため、藤原秀郷は田原藤太と呼ばれるようになり、同音であることから田原から俵に転じたのではないかと思う。
藤原秀郷の百足退治と同様の話は下野国にもある。
男体山と赤城山は領地争いをしていたが、男体山の神は弓の名手・猿丸太夫に援助を頼んだ。
猿丸太夫は赤城山の大ムカデの目を射抜いた。それで男体山の神が勝った。
大谷川より男体山・女峰山を望む
藤原秀郷の本拠地は下野だった。
もともと下野国に大ムカデ退治の話があり、俵藤太の本拠地だということで、俵藤太と結びついて瀬田の唐橋の伝説がつくられたのではないかと思う。
それではなぜ宇治田原ではなく、滋賀に下野と同様の伝説があるのか。
瀬田の唐橋の東詰に雲住寺という寺がある。

雲住寺 百足供養堂
雲住寺は1408年に城主・蒲生高秀が創建した寺だが、蒲生高秀は藤原秀郷の14代目の子孫である。
その蒲生氏が、御先祖の俵藤太の伝説を近江の地にあてはめて創作したのだと思う。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑲田原祭は春日若宮おん祭に似ていた。へ続きます~
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