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日本のホルス(隼)神

祇園祭 綾傘鉾

●祇園祭と壬生

都大路を祇園祭の山鉾が巡幸していく。
長刀鉾、月鉾などの巨大な山鉾に混じり、美しい2基の傘鉾の姿が見える。
綾傘鉾である。

傘鉾の前にはかわいらしい御稚児さんたちのほか、面をつけて太鼓をたたく人が二人、バトントワラーのように棒を振る人が一人いる。
棒を振るのは道を清めるためとされる。

祇園祭 面を被る人 

祇園祭 棒振り

壬生寺で行われている中堂寺六斎念仏の『祇園囃子』の演目において、この棒振りと同じパフォーマンスを見たことがある。

壬生寺 中堂寺六斎 
着物の柄や色は違うがデザインはほぼ同じである。
また白いマスクに赤熊のヘアースタイルは全く同じである。

壬生寺では壬生六斎念仏も行われているが、壬生六斎においても『祇園囃子』の中で同様の棒振りが行われている。
(詳しくはこちら → 

実は祇園祭の綾傘鉾棒振り囃子は壬生六斎念仏保存会の人たちによって演じられているのだ。
壬生六斎念仏会の人々が綾傘の棒振り囃子を演じるようになったのは18世紀中頃以降だと言われているが、17世紀に描かれた「洛中洛外図屏風」の中に綾傘鉾と棒振りをする人、面を被って太鼓をたたく人の絵が記されている。

祇園祭は八坂神社の祭礼だが、壬生寺近くにある「元祗園梛神社」の社伝には次のようにある。

「869年、京で疫病が流行したとき、牛頭天王(素戔嗚尊)の神霊を播磨国広峰(現在の兵庫県姫路市)から椥神社勧請して鎮疫祭を行った。
この時、その神輿を梛の林中に置いて祀ったことが、椥神社の始まりである。
この地から八坂に遷祀したとき、この地の住人が風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送ったのが祇園祭の起源である。 」

梛神社


八坂神社は牛頭天皇の総本社を称しているが、本当の総本社は兵庫県姫路市にある広峰神社だという説がある。
梛神社の社伝にもあるように、869年、京で疫病が流行したとき、藤原基経が広峰神社の牛頭天皇を勧請したという記録があるのだ。
また、遷宮する途中で、神戸の祇園神社・大阪の難波八坂神社、京都の岡崎神社などで休憩したと伝えられている。
梛神社もまた、祇園神社・難波八坂神社などのように休憩した場所であったのかもしれない。
八坂神社と壬生の梛神社は関係が深い。
八坂神社の祭礼である祇園祭に壬生六斎保存会の人々が参加しているのは、壬生の地がもともと祇園社のあった場所だったためではないだろうか。

●隼神社と隼人

梛神社の境内には隼神社がある。

隼神社


もともとは蛸薬師坊城にあったのだが、1918年に現在地に移ったのだという。
蛸薬師坊城は現在の中京区壬生御所ノ内町のことで、現在の隼神社からほんのわずかばかり北である。
隼神社はずっと壬生の地にあったといっていいだろう。

隼神社は奈良にもあって、角振明神・角振隼明神・椿本神社とも呼ばれている。
平安京遷都のときに隼神社が平安京に分祀されたという記録があり、これが蛸薬師坊城都の隼神社のことだと考えられている。

京都の隼神社の御祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)だが、奈良の隼神社の御祭神は火酢芹命(隼神)と、角振神(火酢芹命の御子)となっている。
京都の隼神社は奈良の隼神社より分祀されたものなので、神の名前は違っても同じ神を祀る神社だと考えられる。

隼神=火酢芹命はニニギとコノハナノサクヤヒメの次男である。
長男が火照命(海幸彦)で三男が彦火火出見命(山幸彦)である。
古事記では隼人の先祖は火照命(海幸彦)だとされているが、日本書紀本文では火酢芹命は隼人の祖となっている。

『奈良市史社寺編』にも次のように記されている。
『隼神とは、火酢芹命(ほすせりのみこと)のことである。
これは隼人族の祖であり、海幸彦とも呼ばれ、神武天皇の祖父で山幸彦とも言われている、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の兄にあたる。
兄・海幸彦は、弟・山幸彦との戦いに敗れて、代々、宮城の警固に任じられた。
勝利した山幸彦は、天皇家の元を築いたと記紀で伝えられている。』

隼神は隼人の祖だったのである。

隼人とは古代薩摩や大隅(現在の鹿児島県)に住んでいたまつろわぬ民のことである。
隼人は度々反乱をおこしたため、朝廷は隼人たちを畿内に移住させる政策をとった。
畿内に移住させられた隼人たちは、ヤマト王権の支配をうけ、隼人司に属した。
そして朝廷の警護・祭祀・相撲・竹細工の製作などを行っていた。

隼人司に属していた隼人たちは、奈良の隼神社の近くに住んで隼神社の祭祀を行っていたのではないかと思う。
というのは、隼神は隼人の祖神だが、先祖の霊は子孫が祭祀すべきとされていたためである。

ということは、平安京に隼神社が分祀された際、何人かの隼人たちが神についていったのではないだろうか。
それはもちろん隼神を祭祀するためである。
隼神を祭祀するのは隼神の子孫である隼人に限られるのだから。

●角振明神と牛頭天皇

私は奈良の隼神社が角振明神、角振隼明神と呼ばれていることが気になる。
隼には角はないが、牛には角がある。
角振明神とは牛の神、牛頭天皇と同一神、もしくは習合されたのではないだろうか。
そして広峯神社より勧請されて壬生へやってきた牛頭天皇は、隼人によって祀られたのではないかと私は思う。
さらに牛頭天皇が壬生から八坂に遷るとき、やはり隼人が八坂に移住して祀ったのではないだろうか。

八坂神社の近所の清水坂付近には犬神人と呼ばれる人々が住んでいた。
犬神人とは八坂神社に隷属し、神事・死体の処理・清掃・警護などに携わっていた人々のことである。
犬神人は『弦召せ』といって弓の弦を売り歩いていたところから『つるめそ』とも呼ばれていた。
「犬神人(つるめそ)の 緋縅着たる 暑さかな 」
この川柳は、祇園祭で緋色の着物を着た犬神人たちが警護のために町をうろついている様を詠んだものである。
一遍聖絵に犬神人の絵が描かれているが、結髪せず、口には白いマスクをつけている。
(こちらのサイトにも犬神人の絵が記されています。→ 「犬神、戌神、犬神人
それは壬生六斎の棒振りをする人のいでたちとよく似ている。

●犬神人と隼人

犬神人というネーミングの「犬」とはどこからくるのだろうか。
犬神、戌神、犬神人
上のサイトによれば「生きた犬を土の中に埋めて呪いを修したもの」が犬神であると説明がある。
また、「商売などの権利を得る代わりに神社の仕事を手伝っていた下級神職の人々を一般に神人と言い、そこに犬という接頭辞をつけたもの。」
「似て非なるものを犬といふ。これ本邦の故実與。水蓼(いぬたで)、竜葵(みずほうずき)、狗脊(いぬわらび)、・・・/燕石雑志 巻之一(十)物の名『日本随筆大成第二期19』(吉川弘文館1975) 」
「俗ニ陰事ヲ探ルモノヲ犬ニナルト云フ。(P.261)」
とも説明されている。

私は犬神人の『犬』は隼人からくるのではないかと考えている。
九州から大和に連れてこられた隼人たちは、犬の鳴き声を真似して宮中の警護にあたっていた。
その隼人が隼神社の遷宮に伴って壬生に移り住み、さらに壬生から八坂に遷宮した際、八坂の近所の清水坂に移り住んだのが犬神人なのではないだろうか。
八坂神社・・・京都市東山区祇園町北側625
梛神社・・・京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2
壬生寺・・・京都市中京区坊城通仏光寺上ル壬生梛ノ宮町31
祇園祭山鉾巡行・・・7月17日

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07-29(Tue)20:00|京都の祭 |コメント(-) |トラックバック(-)

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