謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑰猿丸神社のある宇治田原は志貴皇子ゆかりの地だった。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑯猿丸大夫は弓削浄人?よりつづきます~
トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫
①志貴皇子=春日王、浄人王=弓削浄人(道鏡の弟)、道鏡=志貴皇子、猿丸大夫=志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?
私は宇治田原に向かって車を走らせていた。
宇治田原には猿丸神社がある。
猿丸神社の御祭神は猿丸大夫だ。
私は以前にも何度か猿丸神社を参拝しているのだが、再び参拝したいという気持ちが大きくなってじっとしておられず
こうして車を運転しているのだった。
そして、運転しながら、こんなことを考えていた。
A.奈良豆比古神社の伝説について。
㈠志貴皇子の子の春日王がハンセン病になり、春日王の子の浄人王と安貴王が看病していた。
㈡浄人王が春日王のハンセン病治癒のため舞を舞ったところ春日王の病は快癒した。
㈢桓武天皇が浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えた。
㈠について。
志貴皇子の別名は春日宮天皇、田原天皇。春日王の別名は田原太子。
親子は同じ名前であったことになる。こういう例はないと思う。志貴皇子と春日王は同一人物ではないか。
㈡について。
奈良豆比古神社に伝えられる翁舞のルーツは、春日王(志貴皇子と同一人物か?)のハンセン病治癒祈願の舞ということだろう。
奈良豆比古神社 翁舞
㈢について。
浄人王は臣籍降下させられて弓削姓を賜った、つまり、浄人王は弓削浄人という名前になったということではないか。
弓削浄人は道鏡の弟の名前である。
また『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。
とすれば、道鏡の弟の弓削浄人も志貴皇子の子だということになる。
B.猿丸大夫とは道鏡の弟の弓削浄人であるという言い伝えが土佐にはある。
奈良豆比古神社の翁舞は猿楽(能)の演目「翁」のルーツであるとも考えられるが、翁の中で演じられる三番叟の姿をした猿の像が各地にある。
猿丸大夫とは土佐の伝説とおり、弓削浄人ではないか。
奈良豆比古神社 翁舞 三番叟
新日吉神社 御神猿
Ⅽ.『日光山縁起』によれば、小野猿丸が猿丸大夫であるとし、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったと伝える。日光の二荒山神社はかつて猿丸社とも呼ばれていた。
道鏡は下野国に流罪となっており、出生地は河内国若江郡(現在の八尾市の一部)である。
小野猿丸とは道鏡のことであり、下野国河内郡という地名は、弓削氏にちなむものではないか。
二荒山神社
二荒山神社に隣接する日光東照宮には三猿のレリーフがあるが、これは三人翁を意味しているのかもしれない。
Ⅾ.猿楽・翁に登場する翁は一人である。
ところが奈良豆比古神社の翁舞は三人翁だ。
猿丸大夫とは志貴皇子・道鏡・弓削浄人三人の総称ではないか。
奈良豆比古神社 翁舞 三人翁
②宇治田原は施基皇子ゆかりの地だった。
田原川の川岸に植えられた桜が満開となっており、花見をする人々が堤防をそぞろ歩いている。
余りに桜が美しいので私も写真を撮りたくなった。
どこかに駐車場はないかな?
そう思ってゆっくりと車を走らせていると鳥居が見えてきた。
大宮神社と書いてある。
どんな神社なのか気になったので、花見はあとにしてまずは神社を参拝することにした。
鳥居から続く参道は階段になっていて車ではすすめないが、ぐるっと回ってみると車が侵入できる道が神社へと続いていた。
田原川の堤防には大勢の人が花見をしていたが、大宮神社境内には誰もいない。
しかし本殿のわきには美しいしだれ桜があった。
もう数日すれば満開となって、さらに美しいことだろう。
本殿前には宝篋印塔が立てられており、説明板に次のように記されていた。
施基皇子の菩提を弔うために建立されたものといわれ、高さは179cmで、塔身四面に梵字を刻んでいる。鎌倉時代後期の作と推定される。 平成10年5月6日 宇治田原町教育委員会 |
なんだって?施基皇子?
志貴皇子は施基皇子とも書く。
なぜここに施基皇子の菩提を弔うための宝篋印塔があるんだろうか?
本殿の向かって左手には文殊まんだらの石碑があった。
ハンセン病患者は文殊菩薩の生まれ変わりと考えられていたという。
そして奈良豆比古神社には、志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったという伝説がある。
こういったところにも、志貴皇子のおもかげが見えるような気がする。
私は車で坂を上ってくるとき、道端に小さな石碑があったのを思い出し、徒歩で坂を下ってみることにした。
「田原天皇社舊(旧)跡」と書いてある。
田原天皇とは志貴皇子のことだ。
やはりここは志貴皇子と関係のある場所だったのだ!
ここから少し行ったところに猿丸神社があるのは、偶然とは思われない。
傍らには田原天皇社由来と記された説明板が立てられていたが、ネットで検索してみると私が見た説明版よりも古い説明板の写真が見つかった。
文字が薄くなっていたり、苔が生えたりして残念ながら一部読み取ることができなかったが、現在の説明板より詳しい内容が記されていた。
田原天皇社由来 天智天皇第七王子(皇子の間違いと思われる) 光仁天皇の父 桓武天皇の祖父で 施基親王が当郷荒木に隠棲されたが薨去の地 この田原と奈良春日との 二説がある。 現在は春日山が一応定説にはなっているが実際はどちらともわからない。 この時、施基親王の霊を弔ったと言う其の綾親王の第六皇子白壁王が光仁天皇として即位されるとすぐに父親王に田原天皇の諡を奉り 霊亀三年(717年)九月五日勅使を前右大臣正二位吉備真備を参向させて正一位田原天皇を奉って田原天皇社を造らせて以降元就に崇め祀ることを命じて封戸百二十戸〇田中に町を賜った。 〇〇勲二等を授与され毎年十一月八日に奉幣使いを立てられていたがいつのまにかそのことも廃れてしまったという。 明治四十年四月十六日大宮神社に合祀された。 弘文天皇 天智天皇 -[ 施基皇子―光仁天皇ー桓武天皇 諸戸神社 施基王(田原天皇)と橡姫には白壁王 後の光仁天皇が生まれている。 この橡姫の父親が紀諸戸で光仁天皇の父親に当たる田原天皇・・・・・・(あとは読めず) ※諸戸と書いてあるように思えるが、苔が生えていて読みづらく、まちがいであるかもしれない。 境内の社殿前には諸仁神社と書いてある。 |
そのほか、田原天皇社旧跡について調べてみると、次の様な内容が出てくる。
田原天皇(施基皇子)」は天智天皇の皇子で万葉歌人。伝承では宇治田原の高尾と荒木に館を構え、そこで亡くなったために陵墓が作られたという。天皇谷の入口、現在の大宮神社裏参道横に田原天皇社が祀られたが、明治になって大宮神社に合祀された。跡地には三宅安兵衛建立の石碑が建つ。
https://ochanokyoto.jp/spot/detail.php?sid=132 より引用
天智天皇の第七王子光仁天皇の父桓武天皇の祖父で施基親王が当郷荒木に穏栖されたが薨去の地この田原と奈良春日との二説がある。現在は春日山が一應定説にはなっているが実際はどちらともわからない。この時施基親王の霊を弔ったと言う其の後親王の第六子白壁王が光仁天皇として即位されるとすぐに父親王に田原天皇の謚を奉り宝亀三年九月五日勅使を前右大臣正二位吉備真備を参向させて正一位田原天皇を奉って田原天皇社を造営させて以後厳重に崇め祀ることを命じて封戸百二十戸佐田十二町を賜った。
なお、勲一等を授与され毎年十一月八日に奉幣使を立てられていたがいつのまにかそのことも廃れてしまったという。明治四十年四月十六日大宮神社に合祀された。
出典:宇治田原町ホームページ
https://www.cyber.kbu.ac.jp/edu/amagase-club/map/map_ujitawara/tawara_55tawaratennou.html より引用
③大宮神社は紀氏が祭祀する神社?
境内に諸仁神社があり、諸仁親王と記されていたが、これは橡姫の父・紀諸戸のことだろう。
諸仁親王となっているが、ウィキペディアで調べてみると諸仁ではなく紀諸人となっており、白壁王の祖父ではあるが、皇族ではなく、親王であったとは記されていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%AB%B8%E4%BA%BA
どうやらこの大宮神社は紀氏が祭祀する神社であり、宇治田原は紀氏の土地であったのではないかと思える。
紀諸人の娘・橡姫が志貴皇子の妻であり、二人の間に白壁王が生まれ、この白壁王が即位して光仁天皇となったところから、紀氏が志貴皇子を祀る田原天皇社を建立して祀っていたのではないかと思える。
わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人のいふなり
この歌を詠んだのは喜撰法師だが、喜撰とは紀仙であり、紀名虎または紀有常ではないかともいわれている。
宇治には紀氏のおもかげが濃い。
貴人の墓が複数あることは珍しくないが、志貴皇子の墓は春日山で、宇治田原にあったというのは紀氏があとづけで作った伝説なのではないかと思った。
だろうか。
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