謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑮道鏡と猿丸太夫 よりつづきます~
トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫
①志貴皇子=春日若宮=猿丸太夫?

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁
①猿丸太夫は弓削浄人という伝説
深い深い闇が広がっていた。
その闇の中にオレンジ色の小さな光が見える。
近づいてみるとそれは篝火だった。
篝火はパチパチという音をたてながら、ぼんやりと三人の人らしき姿を照らし出している。
いや、人ではなく神だろうか?
目をこらしてみると、三人は白い翁面をつけていた。
静けさを破るように小鼓の音が響き渡った。
小鼓の音と「いーやー、あいやー、おんはー」という掛け声が耳鳴りのように響く。
私は三人の翁たちに向かって言った。
「あなたがたはどなたですか?
奈良豆比古神社にはこんな伝説があると聞きました。
志貴皇子がハンセン病になり、面をつけて神に祈りの舞をしたところ、病が面に移ってハンセン病が治ったと。
あなたがたは志貴皇子ですか?
なぜ、志貴皇子が三人もおられるのですか?」
翁たちはそれには答えずに「とうとうたらりたらりろ」と謡いながら舞った。
「『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』は春日若宮おん祭で12月16日に若宮神社の前で奏される新楽乱声(しんがくらんじょう)の唱歌(しょうが/邦楽における楽譜のようなもの)ですよね。
もしかして『とうとうたらりたらりろ』は、『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』で、
あなたがたは若宮様のテーマソングを口ずさんでおられるのですか?
なぜ、あなたがたは若宮様のテーマソングを口ずさんでおられるのですか?
もしかして、春日若宮様とは志貴皇子なのですか?」
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑭ とうとうたらりたらりろ は志貴皇子のテーマソングだった?
舞殿をみると、三人の翁の姿はなく、黒い翁の面をかぶった人が鈴を鳴らして舞っていた。

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟
いつの間に入れ替わったのだろうか、と不思議に思っていると、三番叟は猿に変わった。
猿は「奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき」と詠った。
私は猿に言った。
「それは猿丸太夫の歌ですね。あなたはなぜ猿丸太夫の歌を詠っているのですか?
あなたは猿の姿をされていますが、本当は志貴皇子であり、春日若宮様なんじゃありませんか?
あなたの名前を教えてください!」
そう叫んだところで目が覚め、三番叟の姿をした狛猿と目があった。

猿丸神社 狛猿
よくみると、それは猿丸神社で私が撮影した狛猿の写真だった。
魔除けになるかと思い、A4サイズにプリントして壁に飾っておいたのだった。
しかし魔除けになるどころか、私は猿丸太夫に取りつかれてしまい、ことあるごとに猿丸太夫のことを考えてしまっているw。
②猿丸太夫は弓削浄人
眠い目をこすりながら、私はパソコンの電源をいれ、「猿丸太夫 弓削浄人」とキーワードをいれて検索ボタンを押した。
なぜ弓削浄人というキーワードを入れたのか。
私は夢の中で「志貴皇子がハンセン病になり、面をつけて神に祈りの舞をしたところ、病が面に移ってハンセン病が治ったという伝説がある」と3人の翁たちに語り掛けた。
しかし、奈良豆比古神社の伝説はふたつあって、こんな話も伝わっているのだ。
志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王には浄人王と安貴王という二人の子供があり、彼らは熱心に春日王の看病をした。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意で、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。
私は浄人王という名前と、弓削首夙人という名と位が気になっていた。
弓削首夙人という名と位というのは、たぶん弓削が名(姓)で首夙人が位だと思う。
つまり、浄人王は皇族であったが臣籍降下させられ、弓削姓を賜ったということではないかと思う。
浄人王は、弓削浄人という名前になったということか?
私はこの名前には聞き覚えがあった。道鏡の弟の名前が弓削浄人というのだ。
さて、パソコン画面を覗き込むと、なんとリストの中に、「猿丸太夫伝説の墓 - 伝説では弓削道鏡の弟・弓削浄人とされる 」
という記事があったので、私はいっぺんに目が覚めてしまった。
なんだって?高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓がある?
そして、説明板に次のように記されている?
佐川町指定文化財 猿丸太夫伝説の墓 元従二位大納言弓削浄人(猿丸太夫)は、位人臣を極めた兄弓削道鏡の失脚により、土佐の地に流され、ここ猿丸山に居住したといわれている。 佐川における猿丸太夫(弓削浄人)の墓の伝説は、彼の流罪の年、宝亀元年(770)から数えて千二百年余りを経ていて奈良朝時代から夢の跡が長く伝わっているのは他にない。 平成四年三月一日建立 高知県文化財保存事業 佐川町教育委員会
猿丸太夫伝説の墓 - 伝説では弓削道鏡の弟・弓削浄人とされる より引用 |
私は旅を続ける中で、猿丸太夫と猿楽、三番叟、田原天皇(志貴皇子)、浄人王、安貴王には何か関係がありそうだと感じていた。
そしてこの土佐国・佐川町に伝わる伝説で、これらのキーワードが繋がって形をなしていくように感じた。
錯覚かもしれないがw。
③猿丸大夫は弓削浄人?

猿丸神社
猿丸大夫をまつる猿丸神社の狛猿は三番叟の姿をしていた。
三番叟とは能・翁で演じられる黒式尉の舞のことである。
また能は江戸時代までは猿楽と呼ばれており、猿丸大夫は猿楽と関係が深そうだと思った。
その猿楽のルーツとも思える翁舞という伝統芸能が奈良豆比古神社には伝えられている。
そしてその翁舞に関する伝説に、志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったとあるが、志貴皇子は田原天皇、春日宮天皇とも呼ばれていた。
一方、春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり親子は春日、田原と同じ名前なのだ。こういうケースが皇族にあったとは聞かない。
ここから、私は志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと考えた。
また春日王(志貴皇子と同一人物か?)の子の浄人王が弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)という名と位を光仁天皇より授かったという伝説もある。
つまり、浄人王は弓削浄人という名前になったということだと思うが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
その道鏡の弟である弓削浄人が、猿楽のルーツともいうべき翁舞を舞ったというのが奈良豆比古神社の伝説である。
すると春日王(志貴皇子と同一人物か?)のもう一人の子である安貴王とは道鏡のことではないか。
道鏡というのは出家して僧となって得た法名で、道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴というのではないだろうか。
さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしているのだ。
そして高知県高岡郡佐川町・猿丸峠に猿丸太夫の墓があり、そこでは猿丸太夫とは弓削浄人だと伝えているという。
これは偶然とは思えない。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉
③従二位・弓削浄人は大夫といえる
続いて私はウィキペディアの猿丸太夫の項目を調べてみた。
苦いモーニングコーヒーを飲みながら、ウィキペディアに記されていた内容をメモする。
⑴「大夫」とは五位以上の官位をもっている者のことをいう。
⑵「猿丸大夫」という名は公的史料には登場しないことから本名ではないとする考えが古くからある。
⑶猿丸太夫の正体については諸説ある。 a.弓削王(山背大兄王の子、聖徳太子の孫) b.弓削皇子(天武天皇の子) c.道鏡 d.小野猿丸(二荒山神社神職・小野氏の祖) e.芦屋市や堺に猿丸大夫の子孫と称するものがいた。 f.長野県戸隠に猿丸村があるが関係があるかも?
⑶鴨長明の『方丈記』には「サルマロマウチギミ」とある。 サルマロ」は「猿丸」、「マウチギミ」は「大夫」に当たる。 陽明文庫蔵の『古今和歌集序注』でも猿丸大夫の「大夫」の字の脇に「マウチキミ」と振り仮名が付けられている。 「マウチギミ」とは天皇のそば近く仕える者、すなわち大臣や側近という意味。
⑷『方丈記』が書かれた頃には、「大夫」は五位の官人の通称となっていた。 しかしそれ以前は五位より上の高位の官人のことを称した。
⑸『日光山縁起』に拠ると、小野(陸奥国小野郷か?)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫。 下野国河内郡日光権現と上野国の赤城神が神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧められ 女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利した。 これにより猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となった。 二荒山神社はかつて猿丸社とも呼ばれていた。 ※これについては、一部、こちらの記事に書いた。→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑮道鏡と猿丸太夫
⑹梅原猛氏が『水底の歌-柿本人麻呂論』において柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物と説いた。 根拠 ●柿本人麻呂が『古今和歌集』の真名序では「柿本大夫」と記されている。 反論 ●猿丸大夫の大夫は「五位以上の位階」を意味するが、柿本人麻呂は官位がなかった。
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私は梅原猛氏のファンだが、猿丸大夫=柿本人麻呂説は違うと思う。
というのは、猿丸大夫の正体を追ういままでの旅の中で、柿本人麻呂の影は一切感じられなかったからだ。
浮かんできたのはすでに述べたように柿本人麻呂ではなく、志貴皇子、道鏡、弓削浄人である。
そして高知県高岡郡佐川町・猿丸峠の猿丸大夫の墓の説明板には、猿丸大夫の後ろに(弓削浄人)と記されており、
猿丸大夫と弓削浄人は同一人物であると読める。
説明版には「元従二位大納言弓削浄人(猿丸太夫)」とあった。
ウィキペディアの弓削浄人の項目を確認しても「従二位・大納言」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E5%89%8A%E6%B5%84%E4%BA%BA
⑷『方丈記』が書かれた頃には、「大夫」は五位の官人の通称となっていた。
しかしそれ以前は五位より上の高位の官人のことを称した。
とウィキペディア、猿丸太夫の項目には記されていた。
弓削浄人は従二位なので、辻褄があう。

奈良豆比古神社 翁舞 黒式尉
④小野猿丸は道鏡?
猿丸大夫の正体については道鏡だとする説もある。
その理由についてはウィキペディアには記されていなかった。
他には「帋灯・猿丸と道鏡」という柿花 仄という人が書いた本がでてくるが、内容などはでてこない。
二荒山神社神職・小野氏の祖である小野猿丸が猿丸大夫だとする説もある。
⑸『日光山縁起』に拠ると、小野(陸奥国小野郷か?)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫。
下野国河内郡日光権現と上野国の赤城神が神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧められ
女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利した。
これにより猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となった。
二荒山神社はかつて猿丸社とも呼ばれていた。
もしかして、この小野猿丸とは道鏡のことではないだろうか?
そう思う理由は、道鏡は下野国に流罪となっているからだ。
そして下野郡河内郡とあるのも気になる。
道鏡の出生地が河内国若江郡(現在の八尾市の一部)なのだ。
下野郡河内郡という地名は、道鏡もしくは弓削氏の本拠地である河内からくるのではないか?
護王神社絵巻に描かれた道鏡
⑤小野姓の不思議
それはおかしい、それならなぜ弓削猿丸ではなく、小野猿丸なんだ?といわれるかもしれない。
しかし小野姓というのは不思議なのだ。
小野小町は小野氏ではなく、小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと思う。
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』
霊山寺の由来には「小野富人が672年に右大臣を辞して登美山にすみ、鼻高仙人と呼ばれた」とあるが
672年右大臣だったのは小野富人ではなく中臣金で、中臣金が創建した佐久奈度神社には伊勢神宮より賜った鼻高面があって
鼻高仙人と呼ばれた小野富人と中臣金は同一人物のように思えるのだ。
霊山寺 薔薇会式・えと祭 『鼻高仙人の正体とは』
小野という言葉には、小野=オノ=オン=オニという意味が込められているのかもしれない、と思ったりもするがよくわからない。
しかし、皇族の惟喬親王が小野小町、中臣金が小野富人だと考えられることを思うと、同じように弓削姓の道鏡が小野猿丸と呼ばれることもありそうに思える。
⑥猿丸大夫は志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称?
とここまで考えたとき、今朝の夢をおもいだして「まてよ」と私は独り言を言った。
能・翁に登場する翁は一人である。
ところが奈良豆比古神社の翁舞は三人翁だ。

そして、こう伝えられている。
志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。
また
陽明文庫蔵の『古今和歌集序注』でも猿丸大夫の「大夫」の字の脇に「マウチキミ」と振り仮名が付けられている。
「マウチギミ」とは天皇のそば近く仕える者、すなわち大臣や側近という意味。
赤い衣装を着た中央の翁は志貴皇子、そして左右の翁は志貴皇子の子であり、志貴皇子に近く仕える道鏡、弓削浄人なのではないか?
そして黒い面をつけた翁は猿丸大夫で、志貴皇子・道鏡・弓削浄人の総称なのかもしれない。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑰猿丸神社のある宇治田原は志貴皇子ゆかりの地だった。 へ続きます~
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