謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑮道鏡と猿丸太夫
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑭ とうとうたらりたらりろ は志貴皇子のテーマソングだった? よりつづきます~
トップページはこちらです→謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫
①男体山の百足退治伝説
友人が栃木県日光市に転勤になり、遊びに来いよ、と言われたので日光にでかけた。
日光といえば東照宮。
関西では見かけない派手な五重塔に驚くw。
日光東照宮 五重塔
ちょうど東照宮では例大祭を行われており、友人と私は百物揃千人武者行列などを見学して楽しんだ。
友人は高校の民俗学研究サークルの仲間で、趣味があうのだ。

百物揃千人武者行列

百物揃千人武者行列
その後、友人の車で友人の家に向かう。この日は友人の家に泊めてもらうことになっていたのだ。
長い長い杉並木が続いている。日光杉並木街道だ。

日光杉並木街道
松平正綱(1576-1648)が日光東照宮の参道となる3つの街道に杉を植樹したものが、長い年月を経てこんな立派な並木道になったのだという。
大沢ー日光間16.52km、小倉―今市13.17km、大桑 - 今市間5.72kmの杉並木で世界最長の並木道としてギネスブックに登録されているのだと、友人が教えてくれた。
大谷川より男体山・女峰山を望む
大谷川にかかる橋の上から車窓の外を眺めると二つの頂をもつ山が見えた。
関西に住んでいる私は奈良と大阪の県境にある二上山を思い出しながらその山を見つめていた。
友人が言う。
「向かって左が男体山、向かって右が女峰山やと思う。まちがってるかもしれへんけど。(なんじゃ、そりゃw)
昔、男体山の神と赤城山の神が領地争いをしたっちゅう話があるみたいやで。
男体山の神は白い大蛇に、赤城山の神は大ムカデに変身して闘ったとか。」
②俵藤田の百足退治伝説
私は言った。
「へーえ、なんか似たような伝説聞いたことあるで。
琵琶湖に瀬田の唐橋ってあるやん。
藤原秀郷が唐橋を渡ろうとしたら、橋の上に大蛇がおった。
秀郷は気にとめもせず、蛇を踏んで橋をわたった。
蛇は老人に姿を変えた。
そして、藤原秀郷を勇気のある人物とみこんで、三上山の百足を退治してくださいと頼んだ。
秀郷は三上山の百足を弓で射て退治した。
老人の正体は龍神で、ムカデ退治のお礼にと秀郷に米のつきない俵、つきない巻絹を与えた。
それで藤原秀郷は俵藤太と呼ばれるようになった。
また竜神は秀郷を竜宮にまねき、赤銅の釣鐘も与えた。
赤銅の釣鐘は三井寺に奉納されたそうな。
瀬田の唐橋のほとりにある説明板に絵が書いてあった。」
瀬田の唐橋の説明板より
③下野国は俵藤太の本拠地
私の話を聞いて、友人はハンドルを握りながら大きくうなづき、そしてこう言った。
「あー、俺もその説明板見たわ。ちょっと前に瀬田の唐橋のあたりに花火見にいったことがあるねん。」

瀬田の唐橋
「彼女と?」
「まあね」
友人は少しにやけた顔をしw、話をつづけた。
「このあたりは昔下野国っていうたやろ、ほんで下野国は俵藤太(藤原秀郷の呼び名)・・・藤原秀郷の本拠地なんやってん。
もともと下野国に大ムカデ退治の話があって、俵藤太の本拠地やっちゅうことで俵藤太と結びついて、瀬田の唐橋の伝説がつくられたんとちゃうかな。」

三上山
「なるほどね。
だけど瀬田の唐橋付近から三上山見えへんかと思って探してみたけど、わからんかったな。
天気のいい日やったら見えるんかもしれへんけど。
烏丸半島からは見えたな。」
②なぜ滋賀に下野と同様の伝説があるのか。
私は話を続けた。
「でもなんで下野から離れた近江の国におんなじような伝説があんねんやろ?」
「瀬田の唐橋の東詰に雲住寺というお寺があったやろ。」
「ああ、そういえばあったな。境内には百足(ムカデ)供養堂があった。」

「雲住寺は1408年に城主・蒲生高秀が創建した寺やと聞いた。
それで、蒲生高秀は藤原秀郷の14代目の子孫なんや。」
友人はよくものを知っているなと感心しながら、私はいった。
「なるほど、その蒲生氏が、御先祖の俵藤太の伝説を近江の地にあてはめて創作した、みたいな。」
④猿丸太夫登場!
「まあ、そんなとこちゃうかと思う。
それで男体山と赤城山の伝説のつづき。
男体山の神は弓の名手・猿丸太夫に援助を頼んだ。
猿丸太夫は大ムカデの目を射抜いた。それで男体山の神が勝った。
瀬田の唐橋の話では俵藤田・・・藤原秀郷が弓を射て大ムカデを退治したことになってるけど
もともとは猿丸太夫の話やったんや。」
「へーえ、猿丸太夫が・・・・・」
そういいかけて、私は黙り込んでしまった。
猿丸太夫だって?
それは私が常日頃気になって仕方がない謎の歌人の名前じゃないか!
⑤能・翁と猿
私はこれまでの旅の記憶を思い返していた。
猿丸太夫を祀る猿丸神社の境内には狛犬ならぬ狛猿が置かれていた。

猿丸神社 狛猿
猿丸神社の狛猿は三番叟の姿に似ていた。

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟
猿丸神社の狛猿は手に御幣を持っていた。
一方、奈良豆比古神社の三番叟が手に持っているのは扇子と鈴だった。
持ち物は違うが、頭にかぶっている帽子のようなものがとてもよく似ていた。
そして、私は旅の中でたくさんの三番叟の姿をした猿の像や狂言の猿を見てきた。
三番叟とは猿丸太夫の舞なのではないだろうか?

京都御所 猿が辻の猿の像

千本閻魔堂狂言 靭猿
新日吉神社 御神猿

新日吉神社 狛猿
三番叟とは能・翁で演じられる黒式尉の舞のことである。現在では独立してこの三番叟のみが演じられることも多い。
翁は芸能というよりは神事であるなどともいわれ、能のルーツともいうべきものである。
そして能はかつては猿楽と呼ばれていた。
猿と能は関係が深そうに思える。
その能・翁のルーツは奈良豆比古神社の翁舞だと思われる。
⑥浄人王は弓削浄人(道鏡の弟)?
その奈良豆比古神社で、ある人にこんな話を教えていただいた。
奈良豆比古神社にある3つの社のうち、中央は平城津彦(ならづひこ)神という産土の神を祀っている。
その向かって右には志貴皇子を祀っている。
『いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも』
という有名な歌を詠まれた方である。
志貴皇子の子、白壁王が即位して光仁天皇となられた。
その際、光仁天皇は父親の志貴皇子を春日宮御宇天皇と追尊された。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
向かって左には志貴皇子の子の春日王を祀っている。
春日王は田原太子とも呼ばれている。
志貴皇子は天智天皇の第七皇子であったが、672年の壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では大友皇子側についた。
壬申の乱では大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害して果てた。
そのため乱後の志貴皇子は政治的に不遇であった。
その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養された。
春日王の二人の息子・浄人王と安貴王は熱心に春日王の看病をされた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。

奈良豆比古神社 社
この話を聞いて私はこんなことを考えた。
⑴「貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
春日王はハンセン病を患ったというが、本当にハンセン病を患ったという意味ではなく、ハンセン病をもたらす怨霊だったのではないか?
⑵日本には先祖の霊はその子孫が祭祀(供養)すべきという考え方があった。
春日王が怨霊であったとすれば、春日王は謀反人として不幸な死を迎えた人であったと考えることができる。
春日王の怨霊の祟りを鎮めることができるのは春日王の子である浄人王と安貴王、また彼らの子孫だということになる。
⑶浄人王と安貴王は夙冠者黒人と呼ばれていたが、夙とは中世から近年にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民のことである。
春日王の子の浄人王と安貴王は非人だったのである。
⑷平安時代に承和の変をおこしたとして橘逸勢が姓を非人と改められて流罪になっている
非人とは謀反人もしくはその子孫のことではないか。
⑸桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えたというが、これは桓武天皇が浄人王と安貴王の官位をはく奪し『弓削』という名前を与えて非人にした、ということだろう。
⑹浄人王は皇族であったが、父の春日王が謀反人とされたため非人とされ弓削浄人という名前になったのだろう。
弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡は称徳女帝が次期天皇にしたいと考えていた人物である。
護王神社絵巻に描かれた道鏡
⑦志貴皇子と春日王は同一人物?道鏡・弓削浄人は志貴皇子の子?
先日、図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中にここ奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。
志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。
室町時代、金春流の祖となる人が奈良坂に能を習いに通っていた。
京都御所でおこなわれる能舞台に立つために奈良豆比古神社に伝わる『肉つき面』を借りた。
しかし面はなかなか返却されず、ようやく戻ってきたのは『肉つき面』ではなかった。
村人たちは激怒して坂下で殺し、金春塚に葬った。
なんと、地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。
志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。
志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。
神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。
桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。
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①男体山の百足退治伝説
友人が栃木県日光市に転勤になり、遊びに来いよ、と言われたので日光にでかけた。
日光といえば東照宮。
関西では見かけない派手な五重塔に驚くw。

日光東照宮 五重塔
ちょうど東照宮では例大祭を行われており、友人と私は百物揃千人武者行列などを見学して楽しんだ。
友人は高校の民俗学研究サークルの仲間で、趣味があうのだ。

百物揃千人武者行列

百物揃千人武者行列
その後、友人の車で友人の家に向かう。この日は友人の家に泊めてもらうことになっていたのだ。
長い長い杉並木が続いている。日光杉並木街道だ。

日光杉並木街道
松平正綱(1576-1648)が日光東照宮の参道となる3つの街道に杉を植樹したものが、長い年月を経てこんな立派な並木道になったのだという。
大沢ー日光間16.52km、小倉―今市13.17km、大桑 - 今市間5.72kmの杉並木で世界最長の並木道としてギネスブックに登録されているのだと、友人が教えてくれた。

大谷川より男体山・女峰山を望む
大谷川にかかる橋の上から車窓の外を眺めると二つの頂をもつ山が見えた。
関西に住んでいる私は奈良と大阪の県境にある二上山を思い出しながらその山を見つめていた。
友人が言う。
「向かって左が男体山、向かって右が女峰山やと思う。まちがってるかもしれへんけど。(なんじゃ、そりゃw)
昔、男体山の神と赤城山の神が領地争いをしたっちゅう話があるみたいやで。
男体山の神は白い大蛇に、赤城山の神は大ムカデに変身して闘ったとか。」
②俵藤田の百足退治伝説
私は言った。
「へーえ、なんか似たような伝説聞いたことあるで。
琵琶湖に瀬田の唐橋ってあるやん。
藤原秀郷が唐橋を渡ろうとしたら、橋の上に大蛇がおった。
秀郷は気にとめもせず、蛇を踏んで橋をわたった。
蛇は老人に姿を変えた。
そして、藤原秀郷を勇気のある人物とみこんで、三上山の百足を退治してくださいと頼んだ。
秀郷は三上山の百足を弓で射て退治した。
老人の正体は龍神で、ムカデ退治のお礼にと秀郷に米のつきない俵、つきない巻絹を与えた。
それで藤原秀郷は俵藤太と呼ばれるようになった。
また竜神は秀郷を竜宮にまねき、赤銅の釣鐘も与えた。
赤銅の釣鐘は三井寺に奉納されたそうな。
瀬田の唐橋のほとりにある説明板に絵が書いてあった。」

瀬田の唐橋の説明板より
③下野国は俵藤太の本拠地
私の話を聞いて、友人はハンドルを握りながら大きくうなづき、そしてこう言った。
「あー、俺もその説明板見たわ。ちょっと前に瀬田の唐橋のあたりに花火見にいったことがあるねん。」

瀬田の唐橋
「彼女と?」
「まあね」
友人は少しにやけた顔をしw、話をつづけた。
「このあたりは昔下野国っていうたやろ、ほんで下野国は俵藤太(藤原秀郷の呼び名)・・・藤原秀郷の本拠地なんやってん。
もともと下野国に大ムカデ退治の話があって、俵藤太の本拠地やっちゅうことで俵藤太と結びついて、瀬田の唐橋の伝説がつくられたんとちゃうかな。」

三上山
「なるほどね。
だけど瀬田の唐橋付近から三上山見えへんかと思って探してみたけど、わからんかったな。
天気のいい日やったら見えるんかもしれへんけど。
烏丸半島からは見えたな。」
②なぜ滋賀に下野と同様の伝説があるのか。
私は話を続けた。
「でもなんで下野から離れた近江の国におんなじような伝説があんねんやろ?」
「瀬田の唐橋の東詰に雲住寺というお寺があったやろ。」
「ああ、そういえばあったな。境内には百足(ムカデ)供養堂があった。」

「雲住寺は1408年に城主・蒲生高秀が創建した寺やと聞いた。
それで、蒲生高秀は藤原秀郷の14代目の子孫なんや。」
友人はよくものを知っているなと感心しながら、私はいった。
「なるほど、その蒲生氏が、御先祖の俵藤太の伝説を近江の地にあてはめて創作した、みたいな。」
④猿丸太夫登場!
「まあ、そんなとこちゃうかと思う。
それで男体山と赤城山の伝説のつづき。
男体山の神は弓の名手・猿丸太夫に援助を頼んだ。
猿丸太夫は大ムカデの目を射抜いた。それで男体山の神が勝った。
瀬田の唐橋の話では俵藤田・・・藤原秀郷が弓を射て大ムカデを退治したことになってるけど
もともとは猿丸太夫の話やったんや。」
「へーえ、猿丸太夫が・・・・・」
そういいかけて、私は黙り込んでしまった。
猿丸太夫だって?
それは私が常日頃気になって仕方がない謎の歌人の名前じゃないか!
⑤能・翁と猿
私はこれまでの旅の記憶を思い返していた。
猿丸太夫を祀る猿丸神社の境内には狛犬ならぬ狛猿が置かれていた。

猿丸神社 狛猿
猿丸神社の狛猿は三番叟の姿に似ていた。

奈良豆比古神社 翁舞 三番叟
猿丸神社の狛猿は手に御幣を持っていた。
一方、奈良豆比古神社の三番叟が手に持っているのは扇子と鈴だった。
持ち物は違うが、頭にかぶっている帽子のようなものがとてもよく似ていた。
そして、私は旅の中でたくさんの三番叟の姿をした猿の像や狂言の猿を見てきた。
三番叟とは猿丸太夫の舞なのではないだろうか?

京都御所 猿が辻の猿の像

千本閻魔堂狂言 靭猿

新日吉神社 御神猿

新日吉神社 狛猿
三番叟とは能・翁で演じられる黒式尉の舞のことである。現在では独立してこの三番叟のみが演じられることも多い。
翁は芸能というよりは神事であるなどともいわれ、能のルーツともいうべきものである。
そして能はかつては猿楽と呼ばれていた。
猿と能は関係が深そうに思える。
その能・翁のルーツは奈良豆比古神社の翁舞だと思われる。
⑥浄人王は弓削浄人(道鏡の弟)?
その奈良豆比古神社で、ある人にこんな話を教えていただいた。
奈良豆比古神社にある3つの社のうち、中央は平城津彦(ならづひこ)神という産土の神を祀っている。
その向かって右には志貴皇子を祀っている。
『いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも』
という有名な歌を詠まれた方である。
志貴皇子の子、白壁王が即位して光仁天皇となられた。
その際、光仁天皇は父親の志貴皇子を春日宮御宇天皇と追尊された。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
向かって左には志貴皇子の子の春日王を祀っている。
春日王は田原太子とも呼ばれている。
志貴皇子は天智天皇の第七皇子であったが、672年の壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では大友皇子側についた。
壬申の乱では大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害して果てた。
そのため乱後の志貴皇子は政治的に不遇であった。
その後、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養された。
春日王の二人の息子・浄人王と安貴王は熱心に春日王の看病をされた。
兄の浄人王は散楽と俳優(わざおぎ)が得意だったので、ある時、春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてていた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。

奈良豆比古神社 社
この話を聞いて私はこんなことを考えた。
⑴「貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で表されることが多い。
疫病をもたらす疫病神は疫病を患った姿をしていると考えられたのではないだろうか。
春日王はハンセン病を患ったというが、本当にハンセン病を患ったという意味ではなく、ハンセン病をもたらす怨霊だったのではないか?
⑵日本には先祖の霊はその子孫が祭祀(供養)すべきという考え方があった。
春日王が怨霊であったとすれば、春日王は謀反人として不幸な死を迎えた人であったと考えることができる。
春日王の怨霊の祟りを鎮めることができるのは春日王の子である浄人王と安貴王、また彼らの子孫だということになる。
⑶浄人王と安貴王は夙冠者黒人と呼ばれていたが、夙とは中世から近年にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民のことである。
春日王の子の浄人王と安貴王は非人だったのである。
⑷平安時代に承和の変をおこしたとして橘逸勢が姓を非人と改められて流罪になっている
非人とは謀反人もしくはその子孫のことではないか。
⑸桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えたというが、これは桓武天皇が浄人王と安貴王の官位をはく奪し『弓削』という名前を与えて非人にした、ということだろう。
⑹浄人王は皇族であったが、父の春日王が謀反人とされたため非人とされ弓削浄人という名前になったのだろう。
弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡は称徳女帝が次期天皇にしたいと考えていた人物である。

護王神社絵巻に描かれた道鏡
⑦志貴皇子と春日王は同一人物?道鏡・弓削浄人は志貴皇子の子?
先日、図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中にここ奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。
志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。
室町時代、金春流の祖となる人が奈良坂に能を習いに通っていた。
京都御所でおこなわれる能舞台に立つために奈良豆比古神社に伝わる『肉つき面』を借りた。
しかし面はなかなか返却されず、ようやく戻ってきたのは『肉つき面』ではなかった。
村人たちは激怒して坂下で殺し、金春塚に葬った。
なんと、地元にはハンセン病になったのは春日王ではなくて志貴皇子だという伝承が伝わっているのだ。
志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。
志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。
神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。
桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。
さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしている。

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉(三人翁)
⑧宇佐八幡宮神託事件
769年、宇佐八幡神託事件がおこった。
宇佐八幡で「道鏡を天皇にすべし」との神託があり、これを確認させるために女帝の称徳天皇は和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣した。
宇佐から帰京した和気清麻呂は称徳天皇に「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を奏上した。
「我が国は開闢以来、君主・臣下の身分が定まっている。臣下を君主にしたことはない。天皇は必ず皇室のものにせよ。皇室と関係のないものを天皇にしてはいけない。」というような意味だ。
これを聞いた称徳天皇はカンカンになって怒り、和気清麻呂を流罪にした。
しかし、770年に称徳天皇は急死してしまい、称徳天皇が重用していた道鏡は失脚して下野薬師寺に流罪となる。
そして志貴皇子の子である光仁天皇が即位した。
道鏡は数年後に下野でなくなり、庶民として葬られた。
しかし、道教もまた光仁天皇と同様、志貴皇子の子であったとしたら、どうだろうか?
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
という和気清麻呂の奏上を聞いて、称徳天皇がカンカンになって怒った理由がわかる。
「道鏡は志貴皇子の子で皇緒ではないか!無道なものではない!清麻呂の大ウソつき!」
と称徳天皇が言ったかどうかは知らないがW。
⑨下野国と猿丸太夫と道鏡。俵藤田と田原天皇と宇治田原。
・・・・うん?
道鏡は下野国で亡くなった?
猿丸太夫は下野国の男体山の神を助け、赤城山の大ムカデの目を射抜いたのだった。
そして猿丸太夫は能・翁の三番叟と関係が深そうに思われ、
能・翁のルーツと考えられる奈良豆比古神社の伝説に登場する春日王の子、浄人王は桓武天皇より弓削姓を賜った。
つまり、浄人王は弓削浄人という名前になったということだと思う。
弓削浄人は道鏡の弟の名前だ。
すると道鏡は安貴王だろう。
道教が流罪となって亡くなったのが下野国。
その下野国に猿丸太夫の伝説があるというのは偶然だろうか?
そして猿丸太夫と同様の伝説のある俵藤太。
俵藤太は田原藤太と書かれることもある。
志貴皇子の別名は田原天皇で、何か関係がありそうに思える。
あっ、そういえば、猿丸神社のある場所の地名も宇治田原だった・・・・。
猿丸神社 歌碑

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉(三人翁)
⑧宇佐八幡宮神託事件
769年、宇佐八幡神託事件がおこった。
宇佐八幡で「道鏡を天皇にすべし」との神託があり、これを確認させるために女帝の称徳天皇は和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣した。
宇佐から帰京した和気清麻呂は称徳天皇に「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を奏上した。
「我が国は開闢以来、君主・臣下の身分が定まっている。臣下を君主にしたことはない。天皇は必ず皇室のものにせよ。皇室と関係のないものを天皇にしてはいけない。」というような意味だ。
これを聞いた称徳天皇はカンカンになって怒り、和気清麻呂を流罪にした。
しかし、770年に称徳天皇は急死してしまい、称徳天皇が重用していた道鏡は失脚して下野薬師寺に流罪となる。
そして志貴皇子の子である光仁天皇が即位した。
道鏡は数年後に下野でなくなり、庶民として葬られた。
しかし、道教もまた光仁天皇と同様、志貴皇子の子であったとしたら、どうだろうか?
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
という和気清麻呂の奏上を聞いて、称徳天皇がカンカンになって怒った理由がわかる。
「道鏡は志貴皇子の子で皇緒ではないか!無道なものではない!清麻呂の大ウソつき!」
と称徳天皇が言ったかどうかは知らないがW。
⑨下野国と猿丸太夫と道鏡。俵藤田と田原天皇と宇治田原。
・・・・うん?
道鏡は下野国で亡くなった?
猿丸太夫は下野国の男体山の神を助け、赤城山の大ムカデの目を射抜いたのだった。
そして猿丸太夫は能・翁の三番叟と関係が深そうに思われ、
能・翁のルーツと考えられる奈良豆比古神社の伝説に登場する春日王の子、浄人王は桓武天皇より弓削姓を賜った。
つまり、浄人王は弓削浄人という名前になったということだと思う。
弓削浄人は道鏡の弟の名前だ。
すると道鏡は安貴王だろう。
道教が流罪となって亡くなったのが下野国。
その下野国に猿丸太夫の伝説があるというのは偶然だろうか?
そして猿丸太夫と同様の伝説のある俵藤太。
俵藤太は田原藤太と書かれることもある。
志貴皇子の別名は田原天皇で、何か関係がありそうに思える。
あっ、そういえば、猿丸神社のある場所の地名も宇治田原だった・・・・。

猿丸神社 歌碑
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑯猿丸大夫は弓削浄人?へ続きます~
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