謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑬ 天児屋根命は天智天皇?
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①近江神宮 かるた祭
1月10日、午前8時ごろ、私と友人K子は近江神宮に到着した。
車のドアをあげて外に出ると吐く息が白い。
急いでコートを着込み、マフラーを巻く。底冷えするような寒さだ。
向こうから若い神職さんが歩いてこられたので、声をかけた。
「おはようございます。あのう、今日のかるた祭はどこで行われますか?」
「神楽殿で行われます。どうぞ、ご案内しますので。」
神職さんは神楽殿まで案内してくださり、扉の鍵をあけて私とK子を中に入れてくださった。
「今日は寒いですから中でお待ちになってください。始まるまでにまだ1時間ほどもありますから。」
そう言いながらファンヒーターのスイッチも入れてくださったので、私たちは温かい部屋でかるた祭が始まるのを待つことができた。
(ありがとうございました!)

「近江神宮の御祭神は天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ)ゆうねん。」
こう私はK子に話しかけた。
「天命開別大神?聞いたことないなあ?」
「天智天皇ことや。天智天皇の神名が天命開別大神やねん」
「あ、そうなんや。」
「鎌倉時代に藤原定家が選集した小倉百人一首には百首の歌にそれぞれ1~100までの番号が振られてる。」
「1番は天智天皇の 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ やったね。」
「そう、近江神宮でかるた祭をやってるのは、天智天皇の歌が百人一首の1番歌やからなんやて。」
ファンヒーターの熱風に手をかざしながら、そんな話をしているうちに、ひとり、またひとりと人がやってきた。
15~6人の人が集まったところで、かるた祭は始まった。
采女装束のかるた姫たちが登場し、スローモーションのようにゆっくりと、優雅に腕を伸ばして札をとっていく。
私は元旦にK子と百人一首かるたをしたときのことを思い出していた。
K子は百人一首が得意で、上の句の5文字が読み上げられただけで、鋭く札を跳ね飛ばしていた。
近江神宮のかるた姫の優雅さはK子とはえらい違いだ(笑)。

②埋葬されないわが身を嘆く歌
帰路、車の中でK子はこう話しかけてきた。
「なあ、悠太。知ってる?
万葉集に天智天皇の歌は4首あるねんけど、
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ
という歌は万葉集にはないねん。」
「えっ、そうなん?」
「この歌は958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されてるねん。
万葉集には似たような歌はあるけど。
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける
作者は読人知らずやけどね。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ
は
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける
を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌じゃないけど、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられてるんやって。」
K子は百人一首かるたが得意なだけでなく、こういったうんちくも詳しいんだなと私は感心した。
「なあ、K子。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ
いう歌は、なんで天智天皇の心を表す歌であると考えられたんやろう?」
「この歌はどう考えても農民の歌やん。天智天皇は身分の高い天皇なんやけど、貧しい農民の気持ちになって歌を詠んだ。
そのくらい天智天皇は思いやりのある人だったということとちがう?」

「うーん?」
「悠太はどう思う?」
「後撰和歌集の撰者たちはこの歌を『死んだ天智天皇の霊が、埋葬されないわが身を嘆く歌』やと考えたんとちゃうかなあ?」
「えっ?」
赤信号で止まり、K子の顔を覗き込む。K子は目を丸くしてきょとんとした顔をしている。
信号が青に変わり、私はアクセルを踏み込みながら話を続けた。
「672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。」
「天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の同母弟の大海人皇子が皇位をめぐって争ったんやったっけ。」
「そう、で壬申の乱がおこったので、天智天皇の遺体を埋葬する余裕がなかった。
天智天皇の遺体は長い間放置されていたと考えられてる。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年なんや。」
「28年も? それじゃあほとんど天智天皇の遺体は白骨化してたのかも。」
「古事記にこんな記述があるねん。
大国主神が国譲りして、八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠れたと。
これは大国主神が風葬された様子を記したもので、古には柴を沢山立てた中に死体を葬る風葬の習慣があったと考えられてる。
また万葉集にこんな長歌がある。
荒磯面に いほりてみれば 波の音の 繁き浜辺を しきたえの 枕になして 荒床に 自伏す君が・・・・」
「ああ、柿本人麻呂や。
荒磯の上に仮小屋を作って見やると、波の音が頻繁に聞こえる浜辺を枕として荒々しい岩の床に伏している人がいる・・・」
「荒床とは、風葬するときに死体の下に敷くむしろのことなんやって。
すると『荒磯の上につくったいほり(仮小屋)』は風葬するときに死体を安置する小屋のことなんとちゃうかなあ。
天智天皇の時代、天皇は一定期間、殯宮に安置されるのが一般的やった。
でも壬申の乱がおこったんで、天智天皇のために殯宮さえ作られなかったのかも。」
「天智天皇の遺体は風葬された?」
「つまり
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ
この歌の『かりほの庵』とは風葬するときに死体を安置する粗末な建物で、あまりに粗末であるため雨漏りがして遺体がぐっしょりと濡れている。
それを死んだ天智天皇の霊が嘆いている歌であると後撰集の撰者たちは考えたんとちゃうやろか。」
「なる、壬申の乱では、大海人皇子が勝利して即位し(天武天皇)、追い詰められた大友皇子は自害して果てた。
そのため大友皇子の父・天智天皇は反逆者の父であるとして長年埋葬されることもなく、放置されていたのかも。」
車窓から外を眺めるとちらちらと白い雪が降り始めていた。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑭ とうとうたらりたらりろ は志貴皇子のテーマソングだった? へ続きます~
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