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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑫天皇の 神の御子の 御駕の 手火の光りぞ ここだ照りたる  

①奈良大文字送り火

浮見堂 夕景 2 
夕暮れの鷺池、浮見堂。
 

浮見堂 夕景 

闇の色が少しづつ深くなり、それと反比例するようにライトアップされた浮見堂が浮かび上がってくる。

奈良大文字送り火

空の色が群青から黒へ変わったころ、浮見堂の向こうの山に大文字の送り火が点火された。

奈良の大文字送り火は昭和35年8月15日に戦没者慰霊と世界平和を祈って始められた。

大文字送り火の由来

大文字送り火が点火される山は高円山である。

高円山に大文字送り火の由来を記した碑があり、次のように記されているそうである。

高円山はかつて聖武天皇が離宮を営んだ地であり、弘法大師の師匠で大安寺の僧であった勤操が岩渕寺を創建した霊山である。
また護国神社のご神体の裏に位置する。こういったことから、高円山に大文字送り火を点火することにした。


護国神社は明治維新から第二次世界大戦までの奈良県出身の戦死者29,110柱の英霊を祀る神社で、昭和17年に創祀された。

④岩淵寺は志貴皇子を慰霊するための寺?

春日山岩渕寺は奈良時代に大安寺の僧、勤操(ごんぞう)によって創建されたと伝えられる。
勤操は空海の師匠で、空海は岩渕寺で勤操に弟子入りをした。

ところがいつのことか、岩渕寺は廃寺となってしまった。
新薬師寺の十二神将はもとは岩渕寺にあったものだといわれている。
また白毫寺は岩渕寺の一院ではないかともいわれている。
 
白毫寺は志貴皇子の邸宅跡だともいわれているので、
岩渕寺は志貴皇子の霊を弔うための寺だったのはないかと思ったりする。

志貴皇子の葬列の送り火

なぜ大文字送り火を点火する山として高円山が選ばれたのか。
それはもちろん、奈良市内からよく見える山だということもあるだろうが
唱和17年当時の人々の心に、笠金村が詠んだ志貴皇子の挽歌が思い起こされたからではないかと思ったりした。

万葉集に笠金村が詠んだ志貴皇子への晩歌が掲載されている。

亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨ぜし時に作る歌 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 得物矢(さつや)手挟み 立ち向ふ
高円山(たかまどやま)に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を 何(い)かと問へば
玉鉾の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白栲の 衣ひづちて 立ち留まり 吾に語らく
なにしかも もとな唁(と)ふ 聞けば 泣(ね)のみし哭(な)かゆ
語(かたら)へば 心ぞ痛き天皇(すまらぎ)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光りぞ ここだ照りたる

(梓弓を手に持ち、勇士たちが狩の矢を指に挟み持ち、立ち向かい狩をする高円山。
その高円山に、春野を焼く野火のように火が燃えている
「この火は何か、」と問うと、小雨が降ったかのように涙で真っ白な喪服を濡らしながら道を歩いて来る人が立ち止まって答えた。
「どうしてそんなことをお尋ねになるのですか。
聞けば、ただ泣けるばかり。語れば、心が痛みます。
天皇の尊い皇子様の、御葬列の送り火の光が、これほど赤々と照っているのです。」)

前回、私は春日宮天皇(志貴皇子のこと。志貴皇子は天皇ではなかったが、子の光仁天皇が春日宮天皇の追尊した。) 田原西陵を参拝した。
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑪ 志貴皇子が眠る場所 

田原西陵はこの高円山の向こう側にある。
そして大文字送り火が燃え盛る高円山の中腹に志貴皇子の邸宅跡と伝わる百毫寺がある。

大文字送り火が志貴皇子のご葬列の送り火のように見えてくる。

百毫寺 萩4

志貴皇子邸宅跡と伝わる百毫寺


謎の歌人・猿丸太夫の正体とは⑬ 天児屋根命は天智天皇?  へ続きます~



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