謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑤猿楽と猿の三番叟
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?④猿と三番叟 よりつづきます~
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①新日吉神社は豊国神社の復活を目的として再建された?
前回、新日吉神社と方広寺・豊国神社・妙法院・豊国廟(豊臣秀吉の墓)の関係について記した。
方広寺は豊臣秀吉が大仏を建てた寺で、創建当時の方広寺の敷地は、妙法院・現在の豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の敷地を含む広大なものだった。
秀吉の墓は方広寺東にある阿弥陀ヶ峯山頂に埋葬され、阿弥陀ヶ峯の山ろくに廟所が建立された。
廟所は豊国神社と命名された。
1615年、豊臣家が滅亡すると徳川家康は豊国神社を廃絶させた。
(現在、方広寺の隣にある豊国神社は1868年に明治天皇の勅命によって再興されたもの。)
1640年、旧豊国神社参道上(現在地よりもやや北がわ)に新日吉神社が再建された。
(1160年、後白河天皇が法住寺殿の鎮守として現在地より南に創建されたが、遷宮を繰り返していた。)
これについて、豊国廟への参拝を妨げるため、幕府が豊国神社旧参道に新日吉神社を再建したのではないかとする説がある。
しかし、ウィキペディアは次のような理由から、新日吉神社の再建は豊国神社の復活ではないかと記しており、
私はこれを支持している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA
a.新日吉神社は、豊国神社の参道を塞ぐように再建されたため、「幕府が豊国廟への参拝を妨げるために再建した」との説が明治以降流布した。
b.新日吉神社の再建に幕府が積極的に関わった形跡はなく、伝承では再建したのは後水尾上皇、直接に関与したのは妙法院の尭然法親王(後水尾実弟)である。
c.再建新日吉神社には明暦元年(1640)に樹下(このした)社(現在は豊国社と改称)が勧請され、そこには妙法院で密かに保管されていた豊国神社のご神体も祀られた。
秀吉の元姓は木下、幼名は日吉丸だった。
d.a~cの理由から、新日吉社の再建は、実は「豊国神社の復活」ではなかったかとの見方もある。
②後白河上皇の御所・法住寺殿を偲ぶ
前回、この付近を訪れたのは紅葉が色づく秋だった。
季節はめぐり、今は春。
桜の花で薄紫色に煙る東山を私はぶらぶらと散歩していた。

新日吉神社
豊国神社を復活させるために再建されたとも考えられる新日吉神社。
この新日吉神社の歴史は豊臣秀吉以前に遡る。
平安時代末期、後白河上皇は法住寺殿という広大な御所に住んでおり、新日吉神社はその法住寺殿の鎮守として創建されたのだ。
新日吉神社から少し歩くと法住寺もあるが、大変小さな寺で、広大な敷地面積を有していた法住寺殿の面影はない。

法住寺
法住寺の向かい側には三十三間堂がある。
細長い堂内には千一体もの千手観音が安置されていることで有名である。
三十三間堂は法住寺殿の鎮守寺だった。

三十三間堂
三十三間堂から東大路通を南に向かって歩いていくと、新熊野神社がある。

新熊野神社は1160年、後白河上皇の命を受けた平清盛が紀伊国・熊野三山の熊野権現を勧請し、後白河上皇の御所・法住寺殿の鎮守社として創建された。
後白河上皇は33回または34回もの熊野御幸を行ったことで有名である。
厚く熊野の神を信仰しており、そのため法住寺殿の鎮守社として熊野の神を勧請したのだろう。

境内にはかつての新熊野神社付近の地図を描いた案内板が建てられていた。
②熊野本宮大社


境内には和歌山県にある熊野本宮大社についての説明板もあった。

↑ 新熊野神社のHPを見るとこの像の写真の下に次のような説明が記されていた。
花の窟(はなのいわと)とは三重県熊野市有馬にあり、日本書紀にはイザナミ命の葬られた場所と記されている。現在は切り立った大岸壁の前に鳥居が建っているに過ぎないが、熊野信仰の原点ともいえる場所である。春と秋に例大祭が行われるが、その時には長さ170mの〆縄が張られ、そこに季節の花や果物・扇などが吊り下げられる。この社では、表面にイザナギ・イザナミ命の国造り神話を描くことで、当社の主祭神イザナミ命の神格を記している。 http://imakumanojinja.or.jp/keidaiannai2.html より引用 |
新熊野神社の御祭神はイザナミなのである。
ちなみに和歌山の熊野本宮大社の御祭神は家津美御子(けつみみこ/スサノオ)である。
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社をあわせて熊野三山といいそれぞれ御祭神は次のようになっている。
熊野本宮大社 御祭神 家津美御子(けつみみこ/スサノオ)
熊野速玉大社 御祭神 熊野速玉大神(イザナギ)
熊野那智大社 御祭神 熊野夫須美大神(イザナミ)
③今熊野猿楽
新熊野神社には今熊野猿楽についての石碑も建てられていた。

石碑に「世阿弥 義光 機縁の地」と書いてあり、その傍らの説明板には次のように記されていた。
能楽大成、機縁の地 当地は能楽の大成者世阿弥が、まだ藤若丸と称していた文中三年(1374)のころ 父の観世清次と共に大和の猿楽結崎座を率い観勧興業を行ったところで、 世に「今熊野勧進猿楽」と呼ばれ、見学していた室町幕府第三代将軍義光が、その至芸に感激、二人を同朋衆に加え 父子を、それぞれ観阿弥・世阿弥と名乗らせた機縁の地である。 時の将軍の援助をうけた世阿弥は父の志をつぎ後顧の憂いなく猿楽の芸術性を高めるため日夜研究努力を重ね、 これを今日の能楽に大成させた。 謡曲史跡保存会 |
※改行は筆者が適当に入れた。
この説明板に猿楽という言葉が出てくる。
帰宅後、ネットで調べてみたところ、能楽と呼ばれるようになったのは明治以降で、それ以前、能楽は猿楽と呼ばれていたそうである。

今熊野能楽の絵が記された石碑もあった。
向かって左上の黒い面、黒い着物を着た人物は三番叟だ。

八坂神社 翁 三番叟
④猿が三番叟の姿をしているのは猿楽だから?
ここまでの旅の中で、私たちはいくつかの猿の三番叟を見てきた。

猿丸神社 狛猿

京都御所 猿が辻の猿の像

千本閻魔堂狂言 靭猿

新日吉神社 御神猿

新日吉神社 狛猿
猿が三番叟の姿をしているのは、三番叟が猿楽の演目だからなのだろうか?
謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑥ 道鏡は本当に悪人なのか? に続きます~
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