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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?④猿と三番叟 

謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?③三番叟  よりつづきます~

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謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?①謎の歌人・猿丸太夫



豊臣秀吉、善光寺如来の祟りで死亡。豊国神社の御祭神となる。

1567年、『東大寺大仏殿の戦い』で東大寺大仏殿は戦火によって消失し、大仏の首も落ちてしまった。
(現在の東大寺大仏殿は1709年に再建されたもの。大仏の頭部も江戸時代に補修された。)

豊臣秀吉は東大寺の大仏に変わるものとして新しく大仏を造立し、京都の方広寺大仏殿に安置した。
当時の方広寺の敷地は、妙法院・現在の豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の敷地を含む広大なものだった。



ところが1596年、慶弔伏見地震によってこの大仏は倒壊してしまう。
そこで1597年、秀吉は善光寺如来(善光寺の御本尊だが、当時は甲斐にった。)を大仏殿に移して本尊とした。

1598年 秀吉は病を患い、善光寺如来の祟りではないかということで、善光寺如来は信濃の善光寺へ戻された。
しかし1599年に秀吉は死亡してしまった。

1599年、遺命に従い、秀吉の遺体は方広寺東にある阿弥陀ヶ峯山頂に埋葬され、阿弥陀ヶ峯の山ろくに廟所が建立された。

秀吉は奈良東大寺大仏殿の鎮守・手向山八幡宮にならって自分を「新八幡」として祀るように遺言していた。
しかし、朝廷は「新八幡」ではなく「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号を与え、廟所は豊国神社と命名された。
毎年8月18日の秀吉の年忌には豊国祭と呼ばれる盛大な祭りが行われたという。

②徳川家康、方広寺鐘銘に大激怒!豊臣家を滅亡させる。

秀吉の死後、豊臣秀頼が方広寺の大仏を作り直す計画をたてた。
秀吉が作った大仏は木造漆膠だったが、秀頼は銅造で大仏を作ろうとした。
ところが1602年、流し込んだ銅が漏れ出て火災が起き、造営中の大仏と方広寺大仏殿は消失してしまった。

1610年、方広寺大仏殿は再建され、1610年には梵鐘が完成した。
ところが家康がこの梵鐘の銘文「国」「君臣豊楽」に大激怒!

「国家安康」だと?これは家康の名前を切っているじゃないか!
「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味ではないか!
けしからんーーーー!と。

そしてこれを理由に豊臣秀頼の居城・大阪城を責め、豊臣家を滅亡させてしまったのである。

 ③新日吉神社は豊国廟への参拝を妨げるために再建された?

1615年、豊臣家が滅亡すると徳川家康は、後水尾天皇の勅許をえて豊国大明神の神号を剥奪し、豊国神社も廃絶させた。
(現在、方広寺の隣にある豊国神社は1868年に明治天皇の勅命によって再興されたもの。)

1640年、旧豊国神社参道上(現在地よりもやや北がわ)に新日吉神社が再建された。
(1160年、後白河天皇が法住寺殿の鎮守として現在地より南に創建されたが、遷宮を繰り返していた。)

これについて、こんなことがまことしやかに言われている。

豊国廟への参拝を妨げるため、幕府が豊国神社旧参道に新日吉神社を再建したのではないかと。
 
④新日吉社の再建は豊国神社の復活?

ところがウィキペディアを調べてみると、次のようなことが記されていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA

a.新日吉神社は、豊国神社の参道を塞ぐように再建されたため、「幕府が豊国廟への参拝を妨げるために再建した」との説が明治以降流布した。

b.新日吉神社の再建に幕府が積極的に関わった形跡はなく、伝承では再建したのは後水尾上皇、直接に関与したのは妙法院の尭然法親王(後水尾実弟)である。

c.再建新日吉神社には明暦元年(1640)に樹下(このした)社(現在は豊国社と改称)が勧請され、そこには妙法院で密かに保管されていた豊国神社のご神体も祀られた。
秀吉の元姓は木下、幼名は日吉丸だった。

d.a~cの理由から、新日吉社の再建は、実は「豊国神社の復活」ではなかったかとの見方もある。

この説はつじつまがあっており、読むとなるほどと納得させられる。

⑤猿の三番叟

そんな歴史を頭の中に思い描きながら、私は京都の町を練り歩いていた。
かつては広大な敷地面積を有していたという方広寺だか、現在は小さな寺で像高19mもあったという大仏もない。

大仏は1610年に作り直されたが、1662年の地震で大破。
大仏に用いられていた銅は銅銭にされたという。

1667年、大仏は木造で作り直された。
ところが1798年の落雷でまたしても焼失している。

天保年間(1830年 - 1844年)、尾張国の有志により、上半身のみの大仏が木造で再興されたが
1973年、この大仏も火災で焼失してしまったという。

 かつて大仏殿があったという場所には小さな石碑が建てられているだけである。
ガラス張りの本堂内部には廬舎那仏像が安置されているが、像高は2mぐらいだろうか。

方広寺 

方広寺

ただ、徳川家康を激怒させた梵鐘は現存しており、「国」「君臣豊楽」の文字もはっきりと読み取れた。

方広寺 鐘楼

方広寺 鐘楼

方広寺 鐘銘 

方広寺鐘銘

方広寺の隣には1868年に明治天皇の勅命によって再興された豊国神社があった。

豊国神社 紅葉

方広寺より豊国神社を望む(柵の向こう側が豊国神社)

豊国神社の一本東の通りには豊国神社のご神体が密かに保管されていた妙法院がある。

妙法院 紅葉

妙法院の南に面した道路には豊国廟参道と記された石碑が建てられていた。

豊国廟参道 紅葉

この道を東にまっすぐ進んでいくと新日吉神社だ。

新日吉神社 紅葉

新日吉神社の拝殿の前には金網をかぶせられた阿吽の猿が置かれていたが、その阿形の猿は三番叟のいでたちをしていた。

新日吉神社 猿の像

三番叟とは能・翁で、黒い翁面をつけて舞う舞のことを言う。

八坂神社 翁 黒式尉

八坂神社 翁 三番叟

今回の旅のスタート地点・猿丸神社にも同様の像があったが、手には鈴と扇ではなく御幣を持っていた。
ただし、頭にかぶっている帽子は三番叟のものにそっくりである。

猿丸神社 狛猿

猿丸神社 狛猿

また、京都御所の猿が辻や千本閻魔堂狂言の演目「靭猿」なども三番叟の細長い帽子をかぶっていたが、手には御幣や扇子をもっていた。

猿が辻

猿が辻 東北の角をつくらないよう、塀を内側に凹ませてある。

猿が辻 猿の像

京都御所 猿が辻の猿の像(塀の瓦の下に設置されている。)

千本閻魔堂狂言 靭猿

千本閻魔堂狂言 靭猿

しかし、新日吉神社の猿は手に鈴と扇子をもっており、八坂神社で見た三番叟と持ち物が全く同じだった。

新日吉神社 猿のレリーフ 

新日吉神社 御神猿

さらに新日吉神社本殿向拝柱上方にある御神猿(説明版の写真)もまた手に鈴と扇子を持っており三番叟だと考えてよさそうだった。

どうも、三番叟と猿は関係が深そうである。





謎の歌人・猿丸太夫の正体とは?⑤猿楽と猿の三番叟 に続きます~





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