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妖怪・入道 (永福寺)

たこやくし

●蛸薬師と平清盛

新京極通商店街は、たくさんの店舗が軒を並べる中に小さなお寺が点在する異色の商店街である。
赤い座布団の上に巨大な蛸の像を安置した寺もあった。 永福寺である。
蛸の像は『なで薬師』といい、この像をさすって祈願すると病回復の御利益があると信仰されている。

永福寺には次のような伝説が伝わっている。

1181年、二条室町に住んでいた林秀というお金持ちが、比叡山の根本中堂に籠もって次のようにお願いした。
『比叡山に御参りするためには山を登らなければいけないが、自分は老人で山を登るのはたいへんである。つきましては、どうか自分のそばに薬師如来様をお与え下さい』と。
すると夢の中に薬師如来様が現れてこう言った。
『伝教大師(最澄)が私の姿を彫った石仏が山内に埋められているので、これを持ち帰るがよい。』
林秀は夢で薬師如来が教えてくれた場所を掘った。
するとそこにはお告げの通りに薬師如来様がおられた。
林秀はその薬師如来を持ち帰り、安置するお堂を建てた。


これが永福寺であり、もともとは室町通二条下ルにあったるとされる。

時は下って鎌倉時代の中頃のこと、永福寺に善光と言う僧が住んでいた。
建長年間(1249年~1256年)のこと、善光の母親が病気になった。
善光は寺に母親を引き取って看病したが一向に病状は回復しなかった。
病床の中で母親は『大好きな蛸を食べたい。そうすれば病気が治るかもしれない。』と言った。
僧侶である善光は蛸を買うことを憚ったが、母親のために市場に出かけ、蛸を買った。 善光が蛸を買うのを目撃した町の人々は、善光が手に持った箱を『あけて見せよ』と迫った。
善光は『薬師如来様、この蛸は母の病気を治す為に買ったものです。どうか、お助け下さい。』と祈って箱を開けた。
すると蛸の八本の足が八軸の経巻となり、霊光を放った。
人々が合掌し、南無薬師如来と称えると、経巻は蛸のすがたに戻った。
そして寺の門前にあった池に入り、光を放って善光の母を照らした。
すると母親の病気はたちまち回復した。
以来、人々はこの寺の薬師如来を蛸薬師と呼ぶようになった。


林秀が永福寺を建てたのは1181年だというが、1181年は平清盛が死亡した年である。
平清盛は清盛入道とか六波羅入道などと呼ばれていたが、入道とは剃髪して仏道にはいった人のことや、坊主頭の人のことをいう。
平清盛は1168年に病を患って出家している。
入道と呼ばれたのはそのためで、六波羅蜜寺にある清盛像は剃髪した姿で刻まれている。

蛸の頭は坊主頭=入道に似ている。
入道という坊主頭の妖怪がいるが、これは清盛のことなのではないだろうか。
永福寺には清盛の霊が祭られており、入道=蛸の連想から、蛸薬師と呼ばれているのではないだろうか。

また蛸は海の生物なので、強力な海軍を持っていた平家をあらわしているようにも思える。
伝説の中に、人々が南無薬師如来と称えると蛸が池の中にはいったという話があるが、これは壇ノ浦の戦いに敗れて入水して果てた平家を思わせる。

●蛸が信仰された理由は8本脚にあり?

蛸を御仏として祀っているのは永福寺だけではない。 
大阪府岸和田市にある天性寺は蛸地蔵として有名である。

イカではなく蛸が仏として祀られたのは、蛸の頭部が坊主頭に似ているというだけではないだろう。
イカと蛸は腕(脚)の本数が違う。
イカの腕は8本で、蝕腕(しょくわん)が2本、合計10本である。
一方蛸は8本の触腕が8本である。
蛸の足は8本あるので、仏として祀られるようになったのだと思う。

梅原猛氏によれば、8は復活を意味する数字ではないか、という。
八角墳や八角円堂は死者の復活を願って作られたものではないかというのだ。

易の本に、1は神・起源、2は対比・分裂、3は懐妊、4は実現・世界、5は智恵・想像力、6は六 星・健在意識と潜在意識の調和、7は神的受胎・休息・沈黙、8は無限、9は完成・達成、10は神・男性=1と女性=0の相互作用と書かれていた。
ここに8は無限、とある。
無限なのは、復活を繰り返すため、とも考えられる。

八は神道的・仏教的な数字だともいえる。

神道では八咫鏡、八咫烏、八百万の神々など八のつく言葉が多い。
スサノオノミコトは『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣つくる その八重垣を』と詠っている。

また仏教においても八角堂・八角塔・八部衆・八正道などやはり八のつく言葉が多い。

蛸は足が8本あるからこそ仏になれたのだと私は思う。
イカが仏になれなかったのは足が10本あるからだろう。

●後花園院と豊臣秀吉の蛸薬師への信仰

永福寺は1441年に、後花園院の勅願寺となっている。
428年7月に称光天皇が崩御したが光天皇には嗣子がなく、将軍足利義教が伏見宮家の彦仁を天皇にたてた(後花園天皇)。
伏見宮家は本来皇統を出す家ではなく、後花園天皇の即位は予想外の出来事だったに違いない。
1433年には後花園天皇は親政を行うようになった。
同年、『永享の乱』が勃発した際には後花園天皇は治罰綸旨を発している。
これ以降、室町幕府の衰退と反比例するように天皇の権威は強くなっていった。

そして1441年、『嘉吉の乱』が起こる。
このとき6代将軍足利義教が赤松満祐の所領を没収し、寵臣の赤松貞村に与えようとしているという噂が流れた。
そこで赤松満祐は『鴨の子が多数出来たので見に来てほしい』と足利義教を自宅に招き、祝宴の最中に義教を殺害した。
それに対して山名持豊は赤松討伐のための治罰綸旨を奏請し、後花園天皇はこれを許している。
1441年の『嘉吉の乱』は、ますます天皇の権威を高めるのに役立ったことだろう。

後花園天皇は蛸薬師(清盛の霊)を深く信仰しており、自分の政治的権力が高まったことを、蛸薬師のご加護のおかげであると考えたのではないだろうか。
それで永福寺を勅願寺としたのだと思う。

その後、豊臣秀吉の時代、都の東の端の城壁代わりに大寺院が集められ、永福寺もここに移された。
秀吉も蛸薬師が清盛の霊を祀った寺であることを知っていて、城壁がわりにしたのではないだろうか。
清盛を祀る寺を城壁にすれば、それは心強かったことだろう。
蛸薬師・・・京都市中京区新京極蛸薬師東側町

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[ 2014/07/09 ] 京都 | TB(-) | CM(-)