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文化と稲作、日本と中国どちらが古い? ※追記あり 



上の動画で武田邦彦さんが次のようにおっしゃっている。

①NHKが世界4大文明という特集をやったりしているのは、NHKは中国の味方で日本の敵であるということである。
「紀元前5000年ぐらいから黄河に文明が発達しそれが成熟して中国以外の他国に影響を及ぼした」と主張するため、中国人が四大文明という概念を作った。
②黄河文明は7000年前(紀元前5000年)、縄文時代は1万6000年前(紀元前1万4000年)なので、
 縄文時代のほうが黄河文明より古い。
③一般的にこんなことがいわれている。
 「稲は弥生時代に大陸からわたった。黄河文明が先で、そのころ日本には文明がない。
 弥生時代に(紀元前3000年くらい)やっと稲作が伝わった。それとともに弥生人がきた。」
 しかし黄河文明は7000年前で、日本の稲作は縄文時代の8000年前。日本のほうが古い。
④日本の稲は中国と種が違う。
⑤地球の気温を調べると12万年前から2万年前までウィスコンシン間氷期(寒冷期)だった。
 その間氷期に黄河なら黄河、日本に人が移っていなくてはならない。
 エジプトあたりから移る。そのころ黄河地区は寒くて人が移り住むような状態ではなかった。
 もしも人が移りすむなら3万年、4万年前だが、海洋で移動しか無理。
  エジプトからくるなら海岸沿いにこれるのはインドまで。内陸には入れないだろう。
 寒いのでヒマラヤ・シルクロードを超えて中国に入るのはムリ。
 移動する際の食糧もない。
 したがって文明は中国より、日本・フィリピン・インドネシアが早い。
⑥減塩といっているのは、内陸の国は塩がとれない。動物からとるしかない。
 だから内陸に住んでいる人は塩は少量しかとらなくていい体になっている。
 日本人は周囲が海なので塩はいくらでもとれる。減塩しなくてもよい体になっている。
⑦日本人の中に二つコンプレックスがある。
 a.中国より日本に多くの文明がやってきたという誤解。
 b.日本よりヨーロッパの方が優れているという誤解。
 これはまちがい。中国の文明は日本より遅い。ヨーロッパの文明のほうが日本より劣っているとするのが正しい。

あらき島3


①NHKが世界4大文明という特集をやったりしているのは、NHKは中国の味方で日本の敵であるということである。
 紀元前5000年ぐらいから黄河に文明が発達しそれが成熟して中国以外の他国に影響を及ぼした」と主張するため、
 中国人が四大文明という概念を作った。
     

四大文明について、ウィキペディアは次のような内容を記している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E6%96%87%E6%98%8E

●世界四大文明(せかいよんだいぶんめい)とは、人類の文明史の歴史観のひとつ。
歴史上、4つの大文明が最初に起こり、以降の文明はこの流れをくむとする仮説。

●「四大文明」とは、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明をさす。

●「四大文明」の考え方は20世紀につくられ、その原型は中国の政治家でジャーナリストであった梁啓超の『二十世紀太平洋歌』(zh:二十世紀太平洋歌)という詩の中にあり、「地球上の古文明の祖国に四つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」と述べている。

●2000年にNHKスペシャルで『四大文明』というタイトルで特集番組が放送され、関連書籍が出版された。


政治家である梁啓超が『二十世紀太平洋歌』という詩をよんでいることから、武田氏は「四大文明は中国の陰謀」としているのだろう。

現在、ウィキペディアの記述は書き換えられているが、かつては次のように記されていたらしい。

Wikipediaによると、この考え方の原型は梁啓超の『二十世紀太平洋歌』(1900年)にあり、「地球上の古文明の祖国に四つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」と述べている。この考え方はアジアでは広まったものの、欧米では受け入れられなかった。また、考古学研究が進展した現代では、初期の文明を4つに限定する見方は否定的であり(当の中国でも長江文明など、黄河文明以外の文明が存在したことが確認されている)、四大文明という概念自体が知識に乏しかった過去のものといえる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E6%96%87%E6%98%8E より引用


勉強不足ゆえ知らなかったが、四大文明という概念はすでに時代遅れのようである。
そして黄河文明以外に長江文明があったことが確認されているというのである。

八瀬 稲の実り

②黄河文明は7000年前(紀元前5000年)、縄文時代は1万6000年前(紀元前1万4000年)なので縄文時代のほうが黄河文明より古い。


武田氏は黄河文明を紀元前5000年ごろ、としておられるが、ウィキペディアには紀元前7000年?とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%96%87%E6%98%8E#裴李崗文化

しかし、それは大したことではない。

①で引用した(現在は書き換えられている)ウィキペディアの記述にこう書いてある。

「考古学研究が進展した現代では、初期の文明を4つに限定する見方は否定的であり(当の中国でも長江文明など、黄河文明以外の文明が存在したことが確認されている)、四大文明という概念自体が知識に乏しかった過去のものといえる。」


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E6%96%87%E6%98%8E より引用

武田氏は黄河文明のことばかりおっしゃっているが、黄河文明より古い長江文明が中国にあったとされているのだ。

長江文明の時期を、ウィキペディアは紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃と記す。
しかし、紀元前14000年とする根拠をウィキペディアは示していない。
ウィキペディアにはこういう点を明確に記述していただきたいと思う。

一方の縄文文化の時代をウィキペディアは紀元前14000年頃 – 前10世紀と記している。

どちらか古いのか、これだけでは判断できない。

猪名川町 棚田


③一般的にこんなことがいわれている。
 「稲は弥生時代に大陸からわたった。黄河文明が先で、そのころ日本には文明がない。
 弥生時代に(紀元前3000年くらい)やっと稲作が伝わった。それとともに弥生人がきた。」
 しかし黄河文明は7000年前で、日本の稲作は縄文時代の8000年前。日本のほうが古い。



ながらく、日本の稲作は弥生時代に始まったとされていたが、1990年代、縄文時代にも稲作があったと考えられるようになった。
武田氏は日本の稲作は縄文時代の8000年前とおっしゃっっているが、日本最古のプラントオパールは岡山の朝寝鼻貝塚のもので、6000年前のものとされる。
ただし、水田耕作ではなく雑駁農耕(陸稲)の可能性が高い。

一方、黄河文明ではなく、長江文明(7000年前)河姆渡(かぼと)遺跡では、栽培稲や栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡、野生稲から栽培稲へと変わっていった痕跡も発見されている。

ここから、次のような仮説がたてられている。

 a.水稲・・・縄文時代晩期に半島からやってきた渡来人達によって持ち込まれたのではないか。
b.陸稲・・・縄文時代に大陸から持ち込まれたのではないか。



また、「日本国内に稲の祖先型野生種が存在した形跡はなく」とウィキペディアに記されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8D#原産地

ということはやはりどこかから伝わったと考えるべきではないだろうか。


美山茅葺の里 はざかけ

④中国と種が違う。

稲はインディカとジャポニカの2種類ある。
さらにジャポニカは温帯ジャポニカ(水稲)と、熱帯ジャポニカ(陸稲)の2種類がある。
河姆渡のものはジャポニカで、地面にモミを播いて栽培(雑駁農耕)したのではないかと考えられている。

中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、
朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。
現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類

中国の稲の遺伝子・RM1-b遺伝子を持つ稲が日本にもあるのだ。

④地球の気温を調べると12万年前から2万年前までウィスコンシン間氷期(7万年前に始まって1万年前に終了した寒冷期)だった。
 その間氷期に黄河なら黄河、日本に人が移っていなくてはならない。
 エジプトあたりから移る。そのころ黄河地区は寒くて人が移り住むような状態ではなかった。
 もしも人が移りすむなら3万年、4万年前だが、海洋で移動しか無理。
 エジプトからくるなら海岸沿いにこれるのはインドまで。内陸には入れないだろう。
 寒いのでヒマラヤ・シルクロードを超えて中国に入るのはムリ。
 移動する際の食糧もない。
 したがって文明は中国より、日本・フィリピン・インドネシアが早い。


これについては、何を言っているのがわからない部分があるが、
このような理屈はいくらでもつけられる。
それよりも日本・フィリピン・インドネシアのほうが文明が早いことを示す遺跡や出土品などの証拠をしめすべきだろう。

※追記

「エジプトから海岸沿いにこれるのはインドまで」と武田氏は言うが、それではアフリカで生まれたとされる新生人類は日本・フィリピン・インドネシアにどのようにしてやってきたのだろうか?
中国には内陸しかないわけではない。海岸もある。
海岸沿いに中国南部に移動し、中国南部を経由して日本・フィリピン・インドネシアに移動したと考えられるのではないか。
そして、中国南部には長江がある。
寒冷期であっても長江が流れているあたりは緯度が低いので温暖で稲作に適した土地であったのではないか?
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ei=UTF-8&ts=11117&aq=-1&ai=HYgsPrbERIaHou8usqtAuA&fr=top_ga1_sa#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0
(長江の地図)


能勢 棚田


文明や稲の古さで国の優劣が決まるわけではない。
逆に事実ではないことを言ってまで、古さにこだわることのほうが

何かコンプレックスがあるように感じてしまう。


猪名川民族資料館 千枚こぎ2





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