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菜畑遺跡は7000年前の遺跡ではない 



【ねずさんの主張】

ねずさんの主張
㈠稲作は弥生時代に始まったと学校で習った。
㈡弥生時代は紀元前1000年~200年300年あたり。
㈢菜畑遺跡を復元したジオラマ。日本最古の水田。高床式住宅。7000年前。
㈣弥生時代に渡来人が稲作をもたらしたというのは嘘。
㈤日本はもともと亜熱帯だったので、ナウマン象や鰐がいた。
㈥稲は熱帯の植物である。雨季と乾季がある。それを人工的に再現したものが水田。(稲は日本に自生していた。)
㈦日本が温帯に変わる過程で自然と水田が発明された。
㈧6000年前の岡山県の朝寝鼻貝塚より稲作をやっていたという証拠がでてきた。
㈨土器のかけらの中にお米の結晶があった。
㈩弥生時代に稲作が渡来したというのは明らかに間違いである。


①縄文土器の縄はシダで作られた?

この動画のコメントにこういうのがある。
「縄文土器に縄目模様があるのは、当時すでに稲作をしていて稲藁で縄をつくったから」
「縄文の縄は稲でしか編めない。麦だと縄のような柔軟性のあるもを編もうとしても折れてしまう。」

縄は稲藁からしか作ることが出来ないということはなく
麻、カラムシ、アカソ、イラクサ、またヒノキなどの樹皮などで作られた可能性も考えらえている。

以前の記事、鳥浜貝塚から出てきたのは縄だが、縄は布の衣服があったことに結びつくか?  にも記したように
日本最古の縄は鳥浜貝塚から出土したもので約1万年前のものと考えられている。

調べたところ大麻製とあったので、記事にも大麻製と書いた。

しかし、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=10027
↑ こちらの記事によれば、リョウメンシダの葉柄・中軸、ツヅラフジのツル、ヤマブドウの樹皮などでできていると書いてあった。

鳥浜貝塚から出土した縄文時代前期の三つ組みの縄 の写真も掲載されている。

そういうわけで、「縄があった」事と「稲藁で作った」事を安易に結びつけるのはまちがいなのだ。

枚岡神社 注連縄掛神事

平岡神社 注連縄作り 注連縄は稲藁でつくるが、稲藁以外のものでも縄は編める。

②菜畑遺跡は7000年前の遺跡ではない


㈢菜畑遺跡を復元したジオラマ。日本最古の水田。高床式住宅。7000年前。

とねずさんはおっしゃっているが、動画コメントで多くの人が7000年前は間違いであると指摘している。

https://www.city.karatsu.lg.jp/manabee/kyoiku/kyoiku/inkai/bunkazai/bunkazaihogo/nabatakeiseki.html
上記塔津市のサイトによると、「今から約2500~2600年前の縄文時代晩期中頃のもの」とある。

※縄文時代、弥生時代の区分については議論があるが、ウィキペディアは縄文時代を14000年頃 – 前10世紀、弥生時代を前4世紀ー後3世紀中ごろとしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3

千早赤阪村 棚田

千早赤坂村 棚田


③稲作は半島経由の水田耕作と、中国経由の雑駁農耕があった?朝寝鼻貝塚のものは後者では?

㈧6000年前の岡山県の朝寝鼻貝塚より稲作をやっていたという証拠がでてきた。


朝寝鼻貝塚では約4000年前の貝塚基底部より貝殻類や土器片が出土。
さらにその下層部から縄文前期の掻器・ 石鍬・獣骨・炭などが出土しており、約6000年前の遺跡と推定されている。

そして、この土壌から約6000年前の栽培種の稲の細胞化石が検出された。

なので「6000年前の岡山県の朝寝鼻貝塚より栽培種の稲の細胞化石がでてきた」のは正しいのだが
「栽培種の稲の細胞化石がでてきた」ことと「6000年前稲作をやっていた」ことを容易に結びつけるのが科学的な態度であるとは思えない。

これについてはいろいろと議論があるようだ。

たとえば、https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
上のサイトで、静岡大学農学部助教授の佐藤 洋一郎 氏が稲作について次のような趣旨を話されている。

●日本の稲作はインドのアッサムや中国の雲南が起源だというのが通説だった。(建物の煉瓦に含まれているモミの長さなどを元に推測)
●中国の長江下流の河姆渡(かぼと)で7000年前の遺跡が発見され、栽培稲、栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見された。
さらに野生稲から栽培稲へと変わっていった痕跡も発見されている。
●稲はインディカとジャポニカの2種類ある。
さらにジャポニカは温帯ジャポニカ(水田栽培向き)と、熱帯ジャポニカ(陸稲。畑作向き)の2種類に分れる。
●河姆渡のものはジャポニカで、地面にモミを播いて栽培(雑駁農耕)したのではないか。
●その理由は、長江流域は湿地帯でモミを播くだけで稲が育つためである。
●アジアで水田で稲作をしているのは半分くらい、あとの半分は今でも雑駁農耕。
●日本の稲作は水田栽培が中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされるが、水田栽培以外の稲作も行われていたのではないか。
●縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが検出されている。
プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05−o程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののこと。
プラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができる。

日本で最も古いプラントオパールは岡山の朝寝鼻貝塚のもので、6000年前のもの。
●1990年代、縄文時代にも稲作があったと考えられるようになった。
●青森の縄文遺跡・三内丸山遺跡はおよそ5000年前のものと考えられているが、クリを大量に栽培していた可能性がある。
●野生植物の集団はDNAの並びはバラバラだが、三内丸山遺跡のクリはDNAパターンが揃っていた。
これは意図的に選抜して植林したためではないか。
●ヒョウタンやマメ、ゴボウなどの栽培植物も発見されている。

●水田は、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれた可能性が高い。
しかしジャポニカの起源だと考えられる長江流域は日本から近く、別のルートで日本に伝来していた可能性もある。
(つまり朝寝鼻貝塚の6000年前の稲のプラントオパールは水田耕作ではなく雑駁農耕されていた可能性がある。)

●曲金北(まがりがねきた)遺跡で、約5万−uもの広さを持つ古墳時代の水田跡が発見された。
3−4畳半程の小区画が連続しており、休耕田が含まれていた。
100の小区画のうち、水田は22区画。
DNA分析をしてみると、近在栽培されていた稲は、2割が水稲、4割が陸稲だった。
見掛けは水田だが、焼畑などの雑駁農耕をしていた。これは全国の弥生遺跡に共通する特徴。
(菜畑遺跡の水田あとも同様であった可能性がある。)
●縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで見た水田を見よう見真似で作ったのではないか?
●大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっている。
稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠である。
●柳田國男氏は「稲作は熱帯の島々から琉球列島を経て九州に達する」と説かれたが、南西諸島に稲作跡がない。

●日本の各所に点在する稲のRM1-b遺伝子。
中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類


わかりやすく、しかも面白い記事なので、一読をオススメしたい。

佐藤氏の主張が絶対正しいとは言わない。
朝寝鼻貝塚のプラントオパールの品種、遺伝子について述べられていない点も気にはなる。
しかし、こういう記事を読むと、6000年前のプラントオパールの発見を、水田耕作に結び付けるのがいかに安易であるかがわかるかと思う。

稲は水田耕作しかしないなんてことはないのだ。

なお、 岡山県灘崎町にある彦崎貝塚でも約6000年前のイネのプラントオパールが見つかっている。
朝寝鼻貝塚(岡山市)でプラントオパールは微量であったため、上層から混入したとか、風で飛ばされて飛来した可能性も説かれていたが、彦崎貝塚のものは大量に発見されており、稲作を行っていた可能性が指摘されている。
しかし、このプラントオパールは中国南部原産の可能性があるという。
ということは、水田耕作ではなく雑駁農耕であった可能性も考えなければいけない。

白米千枚田

白米千枚田

④朝寝鼻貝塚より発見されたのは6000年前の栽培種の稲の細胞化石で、野生種の細胞化石ではない。


㈥稲は熱帯の植物である。雨季と乾季がある。それを人工的に再現したものが水田。(稲は日本に自生していた。)
㈦日本が温帯に変わる過程で自然と水田が発明された。

これについては、③でご紹介した記事を読む限り、次のような理由で否定されているのではないかと思う。

中国・河姆渡(かぼと)で7000年前の栽培稲・栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見されている。
朝寝鼻貝塚より発見されたのは6000年前の栽培種の稲の細胞化石なので、これだけでは稲が日本に自生していたとはいえない。

調べてみて、はっきりした理由がわかれば追記をいれる。

穂谷 稲穂

枚方市穂谷

⑤ねずさんの考え方

数度にわたり、ねずさんの説について見てみたが、どうやら彼には次のような考え方の特徴があるように思える。

⑴根拠を説明しない。
・古墳は墓ではなく田圃を作るために削った土をもりあげたものである。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-entry-383.html

⑵説明した根拠が曖昧でわかりにくい。
・李氏朝鮮の庶民が箸を使っていなかった根拠としてあげた写真が不鮮明で小さすぎ、箸をつかっているかどうか確認ができない。
「李氏朝鮮の庶民は箸を使っていなかった」というけど証拠の写真が不鮮明すぎる。 

⑶結論の導き方が短絡的。
・鳥浜貝塚(12,000〜5,000年前)の集落遺跡から繊維製品(具体的には縄)が出土したことを、衣服があったことに結びつける。
・6000年前の稲のプラントオパールが発見されたことを水田があったことと結びつける。(実際には、水田耕作ではなく雑駁農耕であった可能性もある。)など。

⑷明らかな間違いがある。
・菜畑遺跡は3000年前の遺跡なのに7000年前だと発言する。

⑸具体的に言わない。
●鳥浜貝塚(12,000〜5,000年前)の集落遺跡からでてきたのは縄だが、繊維製品と表現する。

⑹学者や学会の頭が固いと悪口をいう。

福本遺跡 竪穴式

福本遺跡(弥生時代の竪穴式住居を再現したもの)







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[2020/01/22 14:39] おかしくないですか? | TB(0) | CM(2)

菜畑が7000年前の遺跡?(笑)
件のネトウヨは、おそらく東名遺跡と間違えたものと思います。
東名遺跡は佐賀市にある7000年前の縄文早期・国内最古かつ最大の低湿地性貝塚で、菜畑と同じ国史跡です。

東名と菜畑を間違えるなど通常ではありえないミスであり、反知性低知能ネトウヨの不勉強さが滲み出ていて実に趣がありますね。
東名遺跡では、陸稲の痕跡を示すプラントオパールは見つかっていません。

一方で、東名遺跡では網籠や各種動物遺骸加工品などの動植物利用製品が大量(特に網かごの出土量では全国一位)に出土しており、早期縄文文化の解明にきわめて重要な位置づけをされています。
東名遺跡では縄文人骨も出土しており、核DNA解析も行われています。
[2021/06/05 01:28] うんちっち [ 編集 ]

うんちっちさま

コメントありがとうございました。
私は考古学については詳しくないので、東名遺跡のことなど教えていただき、大変勉強になりました。
小名木氏は参政党とかかわりが深く、参政党の勉強会の講師のようなことをやっているようです。
こういうトンデモな研究者を講師にするという時点で、参政党の信頼性が失われますね。
参政党がらみのWeriseという団体は、2020年12月1日時点のコロナの死者数約2800人と、2019年のインフルエンザの死者数3500人を比較して「コロナたいしたことない」とやっていますが、
コロナは11ヶ月、インフルは1年で比較期間が違います。
コロナは12月に死者数急増して約3500人となり、2021年度は半年で約1万人の死者を出しています。
彼らは感染症が指数関数的に感染者が増えるということが理解できていないようです。
[2021/06/05 10:22] yu asada [ 編集 ]

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