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「古墳時代という嘘」は嘘 




上の動画でねずさんがこんなことを言っている。

A 農地を開墾するさい、土地を平にするため土を削る必用があり、削った土を積み上げた。これが古墳である。
B 仁徳天皇陵は大きいので、災害で土砂が崩れたとき災害がおきないように堀(壕)をつくった。
 (堀を掘った土を用いて古墳を作ったのではない。)
Ⅽ 古墳は平地にしかないのがその証拠である。
Ⅾ 古墳は避難所であった。
E 仁徳天皇は土木工事に力をそそぎ、その結果生産高があがって民衆の生活が潤った。
  それを民衆は感謝して仁徳というありがたい名前をおくった。
F 古墳がなくなったのは水路をつくり船で残土を運べるようになったため。
  埋め立て工事に残土が使えるようになった。
G 古墳が崩れてこないように囲いを作った。囲いは四角がつくりやすい。
  もうすこしおしゃれにした円形のものをつなげたのは自然なこと。土が固まったところで囲いをとった。

さすがにこの説については多くの批判コメントがついている。
視聴者はバカではなく、きちんと考えられる人も多いということがわかり、少しほっとした気分になった。

私がねずさんを批判しているのは、彼が憎いからとか、嫉妬しているからではない。

彼は根拠や証拠を示さずに断定的に話す。
コメントにはまっとうな反論を述べたものが多数あるが、そういった反論は無視して、一切答えていない。

また、何かというと安易な陰謀説をもちだしてNHKや歴史学者・考古学者を批判しているが、陰謀があることを証明できるのか。
陰謀というならば、ウオーターゲート事件を調査したウッドワードとバーンスタイン記者のように、徹底的な証拠をつかんでのべてほしいが
そこまでできなくとも、怪しいと思う理由くらいは列挙するべきだと思う。

それにもかかわらず彼には人気があって支持者が大勢いることも私が彼を批判する理由のひとつである。

彼が人気ブロガーでなければ、彼の個人的意見としてほおっておく。
しかし彼を支持する人が大勢いる以上、彼の説のどこが間違っているかを指摘しておく必要があると思うのだ。

ただし、私が批判しているのは彼の説についてであり、彼の人格まで批判しているわけではないことはご理解いただきたいと思う。


① 「古墳は平地にしかない」というのは間違い。古墳は山の上にもある。

ねずさんは「古墳は平地にしかない」と言っておられるが、山の上にある古墳も多数ある。
コメントでも奈良市若草山の上にある鶯塚古墳などの名前があがっている。

②多くの古墳は尾根を利用して作られている。

また多くの古墳は尾根を利用して作られたと考えられている。(尾根を利用せず、土を盛り上げて作った古墳もある。)
尾根を利用して作る場合、盛り土をする必要はほとんどなかっただろう。
古墳は土地を平にするために削った土地を盛ったもの、とするねずさんの説では、尾根を利用して作られた古墳はどう説明するのか。

③河川下流域平野での稲作が広まったのは近世以降?

土地を平らにしないで段差があったほうが、古の水田には便利であったのではないか、とのコメントもある。

そこで調べてみたところ、ウィキペディア「棚田」の項目には次のような内容が記されていた。
「傾斜があまりにも少ない河川下流域の沖積平野は、江戸時代以前は稲作をするのに不適当だった。」と。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%9A%E7%94%B0

猪名川町 棚田

しかし、大和川の付け替え(https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/about/yamato300/tukekae/tukekae.html#t1)には次のような記述がある。

「大和川が流れていた河内平野は、川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで、古代から田畑が開かれ、人々が生活を営んでいたのですが・・・」

仁徳天皇陵がある百舌鳥古墳群あたりは河内平野に含まれると思う。
このあたりで稲作はいつごろから行われていたのだろうか?
これについては、古い記録など調べてみなければならず、現時点では私にはわからない。




④古墳を避難所として使用した証拠はあるのか。

ねずさんは古墳は避難所であったというが、古墳が避難所として用いられた証拠のようなものはあるのだろうか。
例えば、「古墳を避難所として用いた記録」「古墳の上に大勢の人が避難できるような建物物跡」のようなものがあるのかということである。
ねずさんはこういった証拠について一切話していない。
ということは証拠はないのだろう。

⑤堀(壕)、葺石、古墳周囲にめぐらせた埴輪は非難の妨げになりそう。


前方後円墳は仁徳天皇陵だけでなく、堀があるケースが多いが、堀の存在は災害時の非難を妨げるのではないだろうか。

崇神天皇陵 

崇神天皇陵(行灯山古墳)より二上山を望む

崇神天皇陵の周囲にも堀がめぐらされている。




また、多くの古墳で古墳表面の葺石が確認されている。

ナガレ山古墳

ナガレ山古墳

葺石はすべりやすくはないだろうか。避難者がここを上るのは大変なように思えるのだが。
また周囲にめぐらされた円筒形埴輪も避難者の侵入を妨ているようにみえる。

⑥古墳がなくなったのは薄葬令が出されたから。

ねずさんは古墳がなくなったのは、水路ができ船で残土を運べるようになったためとしておられる。

しかし、そうではなく646年に薄葬令が出されたことが原因と考えられている。

薄葬令とは身分に応じて墳墓の規模を制限するもので、これによって巨大古墳は姿を消したとされる。
薄葬令ののちも巨大古墳が作られたケースもあり、薄葬令は日本書記が記された奈良時代の後付けとする説もある。
しかし、その場合でも次のように考えられると思う。
「巨大古墳をつくってはいけない」ということは、「巨大古墳は墓である」という認識があったことを前提としたものであると。

⑦仁徳という諡号は奈良時代に淡海三船がつけた。

ねずさんは「仁徳天皇は土木工事に力をそそぎ、その結果生産高があがって民衆の生活が潤った。それを民衆は感謝して仁徳というありがたい名前をおくった。」と言っている。

しかし民衆が仁徳という名前をおくったという事実はない。
神武、応神、仁徳などは漢風諡号といって奈良時代に淡海三船がつけたものなのだ。

仁徳天皇の時代、漢風諡号はなく、和風諡号のみだった。
ちなみに神武の和風諡号は「かむやまといわれびこのすめらみこと」、応神天皇の和風諡号は「ほむたのすめらみこ」
仁徳天皇の和風諡号は「おほさざきのすめらみこと」である。
当時の人々は仁徳天皇ではなく「おほさざきのすめらみこと」と呼んでいたと思われる。

百舌鳥八幡宮 模型   

堺市役所21階展望ロビーにあった模型(見やすくするため一部加工しました。)



ねずさんは、冒頭にあげたA~Gのようなことを、あたかも事実であるかのように語っているが
それらを裏付ける証拠がないばかりか、上に説明したように明らかな間違いもあり、多くの矛盾が生じている。

繰り返しになるが、ねずさんがおっしゃっていることは、証拠を示しておらず、反論に答えるということもされていないので、到底事実であるとは考えられない。

ねずさんの妄想であるといわれても仕方がないと思う。






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