http://nezu3344.com/blog-entry-1411.html上記の記事をまとめる。
「日本人と縄文体質
世界最古の磨製石器が出土した日本は、世界最古の木造加工技術を開発した技術国家でもあった。 」
A 群馬県みどり市笠懸町にある岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で出土した「槍先形尖頭器(局部磨製石器)」は約3万年前、旧石器時代のもの。
B これは「人の手による加工技術の産物」として「世界最古の道具」である。
Ⅽ 同様の石器はオーストリアのヴォレンドルフ遺跡出土のものが約2万5000年前。
Ⅾ 日本の加工技術は3万年の歴史がある。
E 青森県の三内丸山遺跡は5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、栗やクルミ、トチなどの木の栽培跡が確認されている。
また六本柱建物跡なども発見されている。
F 六本柱建物を作る際、木を伐採するのに石器を用いた。
G木の根もとで火を起こして、伐りたいところを焦がし、焦がしたところを小さくて先の尖った石斧で、すこしづつ大木を削った。
H このときに先の尖った小型の石器が用いられた。
Ⅰ 加工をともなわない石器は日本では12万年前のものが発掘されている。
J 日本に人が住み始めたのはいまから3万年前。その3万年前の世界最古の磨製石器が日本で出土した。
さらに日本で12万年前の石器が出土した
K 磨製石器は3万年前のもの、法隆寺の五重塔は1300年ほど前の建造物で、時代は違うが、ほとんど「槍(やり)カンナ」と呼ばれる先の尖ったノミのような道具一本でつくられている。
Ⅼ 槍鉋(やりかんな)は鉄製だが冒頭の磨製石器が鉄になった形状。
Ⅿ 日本古来の、先の尖った道具一本で、木材に様々な加工を施してしまうという技術は、日本で3万年前から使われていた磨製石器よりつづく技術ではないだろうか。①岩宿遺跡で出土した「槍先形尖頭器」は局部磨製石斧で約3万年前、旧石器時代のもの。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%99%A8上記記事によると、石器は次のように分類されるという。
石器 | 時代 | 石器の作り方 | 作成者 | 発見場所 |
打製石器 | 人類の最も古い道具の一つ | | アウストラロピテクス? | |
オルドワン型石器群 | ヒト化人類の最古の石器群 | 礫の一部を打撃して造る | ホモハビリス?頑丈型猿人? | ケニア、タンザニアなど |
磨製石器 | 中石器時代(紀元前9000年) | 磨いた石器 | | ヨーロッパ、西アジアなど |
局部磨製石斧 | 3~4万年前 | 石器の一部を磨く | | 日本、オーストラリアなど |
岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で出土した「槍先形尖頭器」は上表の局部磨製石器に相当する。
局部磨製石斧はオーストラリアやオーストリアでも発見さされている。
また、石器時代は次のように区分される。
旧石器時代 | 前期旧石器時代 | 約200万年前~約10万年前 | ホモ・ハビリス ホモ・エレクトス 25~20万年前、ホモサピエンスが登場※1 |
中期旧石器時代 | 約9~7.5万年前~約3.5万年前 | ヨーロッパ・中近東・中央アジアではネアンデルタール人(約9~7.5万年前から約3.5万年前) 約7万年前にはホモ・エレクトスが絶滅。 |
後期旧石器時代 | 約3.5万年前~紀元前約1万年 | 約3万年前から2万4000年前にはネアンデルタール人が絶滅。 ヒト属は現生人類のみとなる。 |
中石器時代 | | 紀元前1万年~紀元前8・6000年 | |
新石器時代 | | 紀元前8000年~ | |
② 岩宿遺跡の局部磨製石斧は「世界最古の道具」といえるか?ねずさんは「B これ(岩宿遺跡の局部磨製石斧)は「人の手による加工技術の産物」として「世界最古の道具」であるとおっしゃっている。
ねずさんはどのように「ヒト」の定義を定めているのか。
ヒト属のことだとすると、ホモ・ルドルフェンシス、ホモ・ハビリス、ホモ・エルガステル、ホモ・エレクトス、ホモ・アンデセッサー、ホモ・ハイデルベゲンシス、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・フローレシエンシス、ホモ・サピエンスなどの種類がある。
たぶん、ホモ・サピエンスのことを言っているのだろう。
しかし、旧石器時代の石器を作った人類はホモ・エレクトスやネアンデルタール人ではなく、ホモサピエンスである可能性もある。
ねずさんは下の記事で、現生人類が登場したのは4万年前、と書いておられる。
http://nezu3344.com/blog-entry-4276.htmlこれはあやまりで、4万年前は現生人類が日本へやってきたとされる年代である。
上記石器時代の区分した表にも書いたとおり、現生人類が登場したのは25万~20万年前とされる。
つまり、現生人類は前期旧石器時代からいたということになる。
また、現生人類が打製石器をとばしていきなり磨製石器を作り始めたとも考えにくい。
岩宿遺跡の局部磨製石斧はホモサピエンスの最古の道具とは言えないと思う。
③日本の加工技術は3万年の歴史がある?
ねずさんは「Ⅾ 日本の加工技術は3万年の歴史がある。」とおっしゃっている。
オーストラリアと日本では、旧石器時代に刃部磨製石斧(局部磨製石斧)が作られた。最古の例はオーストラリアで、4万7千年前にさかのぼるという。日本では3万8千年前から3万5千年前に出現し、打製石斧と併用したが、3万年前には見られなくなった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%A8%E8%A3%BD%E7%9F%B3%E5%99%A8より引用
局部磨製石斧は大変古いもので、すすんだ技術力でつくられたことはたしかだ。
しかし、どういうわけか、3万年前には見られなくなってしまうという。
つまり、技術が途切れてしまったということだ。
④日本で出土した12万年前の石器はデニソワ人などの旧人によるもの「Ⅰ 加工をともなわない石器は日本では12万年前のものが発掘されている。」とねずさんはおっしゃっている。
しかし、これはデニソワ人などの旧人が作ったものと考えられる。
デニソワ人などの旧人は我々ホモサピエンスとは異なる種類の人類であり、すでに滅んでしまっている。
つまり、日本人の先祖が作ったものではない。
現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前に出アフリカを果たし、それ以前にはアフリカ外には分布していなかった。
従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)を遺したのはデニソワ人などの旧人である。
日本列島に現生人類が現れるのは4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のはプログループⅮプ1a2(Y染色体)の起源年代とおおむね一致する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%97%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3 より引用。⑤日本古来の、先の尖った道具一本で、木材に様々な加工を施してしまうという技術は、磨製石器よりつづく技術か?
城南宮 釿始式(ちょうなはじめしき)槍鉋ねずさんは「Ⅿ 日本古来の、先の尖った道具一本で、木材に様々な加工を施してしまうという技術は、日本で3万年前から使われていた磨製石器よりつづく技術ではないだろうか。」とおっしゃっている。
しかし、法隆寺などの飛鳥時代に建立された寺院は朝鮮半島から招いた渡来人より技術提供を受けて建立した可能性がたかい。
日本最古の官寺は四天王寺といわれている。
聖徳太子が物部守屋との闘いに勝利したのは四天王のご加護があったからとして創建した。
聖徳太子は四天王寺を創建するため、朝鮮半島の百済から3人の宮大工・金剛、早水、永路を招いた。
この3人の一人、金剛重光が創業したのが金剛組という建設会社である。
金剛組の創建は578年で現在も大阪市の四天王寺の近くにある。世界最古の企業だといわれている。
つまり、世界最古の企業は日本にあるが、その創業者は百済からやってきた渡来人であったということである。
四天王寺の創建は593年である。
四天王寺また『日本書紀』の崇峻元年(588)のところに、「百済国が仏舎利や僧などとともに、寺工(てらたくみ)2名、鑢盤(ろばん/仏塔の相輪の部分)博士1名、瓦博士4名、画工1名をおくってきた」という記述がある。
彼らは蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)造営にかかわっている。
法興寺は596年に完成した。
飛鳥寺法隆寺が創建されたのは607年とされ、四天王寺や法興寺創建よりもあとのことになる。
法隆寺聖徳太子はなぜ百済から宮大工を招いたのか。
ただの労働者としてわざわざ百済か羅宮大工を招くとは思えない。
それはやはり、百済にある建設技術をとりいれるためと考えるのが自然ではないだろうか。
そして、法隆寺建設にも百済の建設技術が用いられたのではないかと思える。
槍鉋は鉄製で、日本で鉄がいつごろから作られているかについては諸説ある。
弥生時代の確実な製鉄遺跡がみつかっていないため、輸入していたのではないかとする説が定説だが
広島県三原市の小丸遺跡(弥生時代)が製鉄遺跡ではないかなどともいわれている。
弥生時代の遺跡から槍鉋が出土しており、日本で作られた可能性もあるが、朝鮮半島や大陸から輸入した可能性もある。
弥生時代すでに日本には製鉄技術があり、槍鉋を作っていたかもしれないが
四天王寺・法興寺・法隆寺などの建築技術の多くは、渡来人が伝えたものだと考えられると思う。
⑥海外の先進技術を取り入れようとする態度は日本人の長所だと思う。飛鳥時代の日本人は百済から宮大工などの技術者を招いて建築技術を取り入れたと考えられる。
また古代の日本人は遣隋使や遣唐使を中国に派遣して先進技術をとりいれようともした。
もしかしたらこれを残念に思う人がいるかもしれないが、私はそうは思わない。
近代の日本も進んだ外国の技術を積極的に取り入れることで、先進国へと成長してきた。
これは日本という国の長所だと私は思う。
なら瑠璃絵で展示されていた遣唐使船いつも応援ありがとうございます♪
写真ブログのはずだったのにほとんど歴史ブログになってしまった 心の旅 もよろしくおねがいします。
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