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秋の始まりはお盆の始まり② (上賀茂神社 夏越神事)


上賀茂神社 夏越神事
秋の始まりはお盆の始まり。(上賀茂神社 夏越神事)」 より続きます。

●前回のまとめ


風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける (藤原家隆)
(風が楢の葉をそよがせる楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。六月祓のみそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。)



①家隆が夏越神事を見たのは旧暦の6月晦日であるが、現在、上賀茂神社では新暦の6月に夏越神事を行っている。
旧暦は新暦の約ひと月遅れとなるので、新暦に換算すると7月ごろに上賀茂神社の夏越神事は行われていたということになる。
7月の京都は暑いさかりで、秋の気配などみじんもない。
それなのに家隆はなぜ「禊(夏越神事)の様子だけが夏のしるしである(すっかり秋の気配が漂っている)などと歌に詠んだのか。

②旧暦では1月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬としていた。
旧暦は新暦の約一月遅れなので、ざっくり考えて、新暦の2月・3月・4月が旧暦の春、新暦の5月・6月・7月が旧暦の夏、新暦の8月・9月・10月が旧暦の秋、新暦の11月・12月・1月が旧暦の冬に該当する。

③つまり、旧暦では1年でもっとも暑い季節が秋の始まりだった。

④旧暦の7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)といわれていた。
釜蓋朔日とは、地獄の釜の蓋が開く日であのことであり、この日からお盆が始まるとされていた。
そして6月晦日が夏のおわりで、7月1日は秋の始まりであった。
お盆とは秋の始まりを告げる行事であった。

⑤ 『風そよぐ』の『そよぐ』は漢字では「『戦ぐ』と書く。
『戦』という漢字の意味は① 戦う。戦をする。② いくさ ③ おののく ふるえる ④ そよぐ そよそよと揺れ動く ⑤ はばかる 
『風戦ぐ』とは、吹かれて心地よく感じる風ではなく、ざわざわと不気味さを感じる風のことではないか。

⑥家隆は楢の葉がざわざわと不気味に揺れているのを見て、お盆になって戻ってきた霊が楢の葉を揺らしているのではないかと考え、ああ、お盆の季節がやってきたんだなあという気持ちを歌に詠んだのではないか。

●楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり

古語辞典で『そよぐ』をひくと、『そよそよと音をたてる』とあり、文例として
岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり(平家物語・灌頂・大原入り)
があげられていた。

上賀茂神社の禊川が『ならの小川』と呼ばれているのは、川べりに楢の木が生えているためである。
そよそよと音をたてるものは、ほかにもたくさんあるだろうと思われるのに、なぜ古語辞典には『楢』が文例にひかれているのだろうか。
偶然か。それとも『楢がそよぐ』ということが何かを意味しているのだろうか。

平家物語には次のように記されている。

建礼門院(平 德子)の父は平清盛、母は平時子で、高倉天皇の中宮として入内し、安徳天皇を産んだ。
平家没落の時、安徳天皇は祖母の時子に抱かれて入水した。
このとき、建礼門院も入水したのだが、死ぬことができず源氏方に捕らえられた。
彼女の母も、子も、一族の者も大勢死んだ。
壇ノ浦で入水したものの捕縛された建礼門院は東山の麓の吉田の地に隠棲し、長楽寺において出家した。
しかし大地震がおこり、築地が崩れて住めなくなった。
そこで人目のない大原に居を移した。
あるとき、庭に散り敷いた楢の葉を踏みしだく音がし、女院は捕り方がやってきたのかと思って身を隠そうとした。
しかしそれは鹿だった。
それを見ていた重衡の北の方が涙ながらに詠んだのが次の歌であった。


岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉の そよぐは鹿の 渡るなりけり

楢の葉をざわざわと戦がせたのは鹿だったと平家物語にはあるが、鹿といえば、私は日本書紀 仁徳天皇38年の記事にある『トガノの鹿』 を思い出す。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂した。


昔、謀反の罪で殺された人を塩漬けにすることもあり、鳴く鹿は謀反の罪で殺される者の象徴だったと考えることができる。

『トガノの鹿』の物語をふまえて、『岩根ふみ~』という歌を味わってみると、この歌は深みを増す。

平家物語を読んでいると、随所に怨霊の話が出てくる。

建礼門院が懐妊し、祈祷を行ったが、いまひとつ調子がよくないのを、平清盛は藤原成親の怨霊の仕業だろうと判断し、成親の息子・成経らを鬼界が島より召還させている。

また建礼門院が隠棲していた家は大地震で住めなくなってしまったが、この地震は安徳天皇や平家の怨霊によるものだとされ、怨霊は恐ろしいものであると人々は噂しあった、とも記されている。

琵琶法師の芳一が平家の霊にとり憑かれ、住職が全身にお経を書いて亡霊から芳一を守ったが、耳にお経を書くのを忘れたため、亡霊が芳一の耳をちぎって立ち去った話は有名だ。

能の『船弁慶』では、義経と弁慶が乗った船が風にあおられて沖に流された海上で平知盛の霊があらわれる。
義経は刀をぬいて亡霊と切りあうが、弁慶は『刀ではかなわないでしょう』と数珠を繰って経文を唱え、祈りの力で悪霊を退散させる。

これらの記述は当時、いかに怨霊というものの存在が信じられていたかを示すものだといえるだろう。

「岩根ふみ~」の歌に詠まれた鹿とは殺された平家の亡霊なのではないか。
重衡の北の方が、楢の葉を踏みしだく鹿の陰に安徳天皇や平家一門の怨霊を見たとしても不思議はない。

さらに『楢』を辞書でひくと、『楢葉守=ならの木の葉を守る神』とある。
そして文例に『楢葉守の祟りなし(浄瑠璃・会津山・近松)』がひかれていた。

古には楢葉守という神が存在すると考えられていたということがわかる。
しかもその神は祟る神、怨霊のようである。

家隆は楢の葉が戦ぐ様子にお盆になって戻ってきた死者の霊を感じ、秋の始まり=お盆の始まりを感じたと、そういう歌なのではないだろうか。

●「大原入り」と「大祓い」

家隆が「風そよぐ~」の歌を詠んだのは、詞書から1229年だと考えられる。
平家物語の成立年代は不明だが、1240年に書かれた『兵範記』に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあり『平家物語』の前身として『治承物語』なる書物が存在していたと考えられている。

平家物語と家隆の歌のどちらが先でどちらが後かはわからない。
が、どちらかがどちらかの影響を受けている可能性はある。

その証拠に、平家物語の『大原入り』の段のタイトルから『おおはらいり』=『大祓(夏越神事のことを大祓ともいう)』という言葉が読み取れるではないか。
このような技法を、和歌では「もののな」という。

家隆の歌は、単に夏越神事の風景について詠んだ歌ではなく、 たいへん技巧的で、しかも深みのある歌だったのである。

『風そよぐ ならの小川』というフレーズから楢葉守や、平家物語にある『岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり(平家物語/灌頂の巻・大原入りの段)』という歌を想起させる。

さらに夏越神事は別名を大祓という。

大祓から、大原入り(おおはらいり。/『岩根ふみ たれかは問わむ 楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり』この歌の出典は平家物語/灌頂の巻・大原入りの段である。大原入りというタイトルの中に大祓と言う言葉がよみとれる。もののな。)の段を想起させる。

●後鳥羽上皇

さて、楢の葉がざわつく様子を見て、家隆は誰の霊を感じたのだろうか。
それは後鳥羽上皇ではないだろうか。
後鳥羽院が崩御したのは1239年で、家隆が「風そよぐ~」の歌を詠んだのが1229年年なので、死んだ人の霊というよりは生霊であるが。

後鳥羽上皇は歌人としても優れた才能を持っていた人で、たびたび歌会を開いている。
この時代の代表的歌人である藤原定家や藤原家隆とも交流があった。

藤原定家は九条家に出仕して官位を上げていたが、1188年、源通親のクーデターにより九条家は失脚した。
その後1200年に定家は宮廷歌人となり、1201年には後鳥羽上皇から新古今和歌集の撰者に任命された。
ところが、歌の選定において定家は後鳥羽上皇と争い、1220年、後鳥羽上皇は定家の歌会への参加を禁じた。
しかしこのことは定家にとって災い転じて福となった。
なぜなら、1221年、後鳥羽上皇は承久の乱をおこして隠岐へ配流となったからである。

承久の乱後、定家は後鳥羽院とは一切の連絡を絶ち、高い官位を得て歌壇の頂点に立った。
一方、定家の兄弟弟子である家隆は変後も後鳥羽院と連絡をとりつづけている。

「絢爛たる暗号」の著者・織田正吉氏によれば、後鳥羽院と定家の歌は対応しているのではないか、という。
後鳥羽院の歌は次のようなものだ。

われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 こころして吹け
(私は、新任の島守である。隠岐の荒き波風よ、それを心得て吹くがよい。)


これに対して藤原定家の歌は次のようなものだ。

こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ
(いくら待っても訪れてこない恋人を待ちこがれている私は、あの松帆の浦(淡路島)で夕なぎの頃焼くという藻塩のように、身もこがれるほど に苦しんでいます。)


織田正吉氏によれば、定家は、隠岐の荒波を煽動する後鳥羽院に対し、怒りを静めて欲しいという気持ちから、『夕なぎ』を詠んだのではないかという。

私は藤原家隆の歌もまた後鳥羽院の歌に対応していると思う。

風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける

『風そよぐならの小川』という言葉は『楢葉守』を想起させ、『新島守(後鳥羽上皇)』と対応しているのではないだろうか。

そして後鳥羽上皇は『荒き波風』、藤原定家は無風状態の『夕なぎ』、藤原家隆は『風そよぐ』でそよ風を詠っている。
三つの歌は風をテーマとして対応しているのである。

後鳥羽院が配流となった後、後鳥羽院と全く連絡をたった定家は新島守となった後鳥羽院が起こす風を無風状態にして歌を詠んでいるのに対し、後鳥羽院配流後も連絡をとっていた家隆は新島守となった後鳥羽院がおこす風をそよ風という形で受け入れているのが興味深い。

上賀茂神社・・・京都市北区上賀茂本山339
夏越神事・・・6月30日 20時より(確認をお願いします。)
 

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