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ミシャグジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像



ミシャグジ様の謎⑧ 大神神社は物部氏が祭祀する神社?  よりつづきます~
トップページはこちらです→ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

興福寺 五重塔

興福寺 五重塔 八重桜

①巨大な仏頭

奈良を訪れたのは晩春で、もうソメイヨシノは散ってしまっていた。
こんな時期になぜ奈良を訪れたのかというと、東大寺知足院に咲くナラノヤエザクラを見たいと思ったからだった。
ナラノヤエザクラは遅咲きなのだ。
しかし残念ながらナラノヤエザクラは咲いていなかった。
それでも遅咲きの八重桜と藤が今を盛りと咲いていて心は落胆している暇がなかった。

興福寺 藤

興福寺 南円堂 藤

花を見ただけでは飽き足らず、御仏の姿も拝んでみたくなったので、興福寺国宝館に行ってみることにした。
国宝館には阿修羅像をはじめとする八部衆もあり、八部衆の前には人だかりができていた。
阿修羅の筋肉のついていない昆虫的な腕や少女のような憂いを含んだ顔に、私もしばし見とれた。
しかし阿修羅よりももっと私の度肝を抜いたのは、巨大な仏頭だった。高さは98.cmもある。

Buddha Head Yamadadera

山田寺仏頭(
興福寺蔵)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。
匿名Unknown author [Public domain]


さらに驚いたことは、この仏頭はもともとは飛鳥の山田寺のご本尊であったというのだ。
その山田寺のご本尊の仏頭がなぜ興福寺にあるのか。またなぜ頭部だけなのか。

②蘇我倉山田石川麻呂

山田寺を創建した蘇我倉山田石川麻呂(? - 649年)は蘇我馬子の孫で蘇我倉麻呂の子として生まれた。
蘇我蝦夷は叔父、蘇我入鹿は従妹である。

      蘇我蝦夷ー蘇我入鹿
蘇我馬子<
      蘇我倉麻呂ー蘇我倉山田石川麻呂
            蘇我日向(倉山田石川麻呂の異母弟)


同族ではあるが、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏本宗家の蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子と対立していたようである。

蘇我倉山田石川麻呂、乙巳の変のメンバーに。

626年、蘇我馬子が死亡し、子の蝦夷が大臣となった。
蘇我蝦夷・入鹿親子は権力を増大させ、豪族達は朝廷ではなく蘇我家に出仕する有様であったという。

642年、蘇我蝦夷と入鹿は、自分達の陵墓築造のために公民を動員している。
聖徳太子の一族の領民も動員され、聖徳太子の娘の大娘姫王が抗議したという記録が残っている。

643年、蘇我蝦夷は朝廷の許可をえず蘇我入鹿を大臣とし、次男を物部の大臣とした。

こうした蘇我氏の専横に対し、中臣鎌足&中大兄皇子らは蘇我入鹿殺害を計画した。
この蘇我入鹿殺害計画のメンバーに、蘇我倉山田石川麻呂もはいっていた。
蘇我倉山田石川麻呂は娘の遠智娘(おちのいらつめ)を中大兄皇子の后にするなど、姻戚関係も結んでいる。

645年、蘇我入鹿は中大兄皇子に斬られて没し、その翌日、蘇我蝦夷は自宅に火を放って自殺した。
こうして蘇我本宗家は滅んだ。

皇極天皇は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子が皇太子となった。
皇太子となった中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任命した。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)
 
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)中大兄皇子に首を斬られた蘇我入鹿。入鹿の首は皇極天皇の御簾にくらいついたと伝えられる。

③蘇我倉山田石川麻呂、冤罪で自害。

右大臣の地位を手に入れた蘇我倉山田石川麻呂。
しかし彼の栄華はわずか5年で異母弟・蘇我日向によって壊されてしまう。

649年、蘇我日向は、「蘇我倉山田石川麻呂は謀反を企てている」と中大兄皇子に密告したのだ。
蘇我倉山田石川麻呂のもとへ孝徳天皇の軍がさし向けられ、蘇我倉山田石川麻呂は一族とともに山田寺仏殿前で自害した。

この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされる。

④蘇我倉山田石川麻呂の死後も続けられた山田寺建立。

山田寺は641年に整地工事が始まり、643年には金堂の建立が始まっている。
648年には僧が住むようになっていた。

しかし、この翌年の649年に蘇我倉山田石川麻呂が自害してしまったため、山田寺造営は中断してしまった。

663年(天智天皇2年)、中断していた山田寺建立工事が再開した。
676年(天武天皇5年)に塔が完成した。
678年(天武天皇7年)には丈六仏像鋳造が始まり、685年(天武天皇14年)丈六仏像が開眼され、天武天皇が山田寺に行幸しています。

※丈六/仏像の像高。立像で約4.8m、坐像はその約半分。

天智天皇と持統天皇は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れた?

③でも述べたように蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘は中大兄皇子〈天智天皇)の妃となっている。
遠智娘は中大兄皇子の子として健皇子・大田皇女・ 鸕野皇女を産んだ。
鸕野皇女は天武天皇の皇后となり、天武天皇崩御後、持統天皇として即位している。

蘇我倉山田石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられたのは、持統天皇・天武天皇の力添えがあったのではないかと考えられている。

私は天智天皇(中大兄皇子)やその娘の持統天皇が、蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れ、そのため山田寺の建立を行ったのではないかと思う。

蘇我倉山田石川麻呂が自殺においやられたのは中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であった。
また、『末代まで祟ってやる』などというように、怨霊は憎い本人だけでなく、その子孫にも祟ると考えられていたようである。

奈良時代には長屋王が謀反を企てていると讒言され、厳しい取り調べを受けて自殺に追い込まれている。(長屋王の変)
長屋王の変は藤原四兄弟の陰謀だと考えられている。
その後、天然痘が流行り、藤原四兄弟は相次いで死亡してしまうが、これは長屋王の怨霊のしわざだと噂された。

 飛鳥時代にもこれと同じような怨霊信仰があったのではないかと思うのだ。

つまり、山田寺の丈六仏像は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの像ではないかと思うのである。

⑥興福寺の僧兵、山田寺講堂本尊を強奪!

『玉葉』(九条兼実の日記)に次のような内容が記されている。

「1187年、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊とした」と。
この山田寺講堂本尊の薬師三尊像の中尊の薬師如来は685年(天武天皇14年)に開眼された丈六仏像だと考えられている。

1180年、興福寺は平重衡の兵火によって炎上しているが、このとき、興福寺・東金堂の本尊も焼失してしまったのかもしれない。

興福寺は藤原氏の氏寺だが、藤原氏の祖は中臣鎌足である。
中臣鎌足は死の間際に天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったとされる。
この藤原鎌足(中臣鎌足)の次男が藤原不比等だが、藤原不比等は天智天皇の後胤とする説がある。

藤原鎌足は天智天皇の后・鏡王女を妻としてもらいうけているが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに記されているのだ。

すると、藤原氏にとって蘇我倉山田石川麻呂は親戚(天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘の間に生まれたのが持統天皇なので)ということになる。

          鏡王女
           |――藤原不比等(興福寺縁起などによる。一般に藤原不比等は中臣鎌足の次男とされる。)
          天智天皇
           |――持統天皇
蘇我倉山田石川麻呂―遠智娘


興福寺は山田寺に対して、次のような理由を申し立てて仏像を強奪したのではないだろうか。
a.藤原氏は天智天皇の後胤である。
b蘇我倉山田石川麻呂の死後,山田寺に塔が建立されたのは天智天皇の資金援助を得たためである。(⑤を参照)

また陰陽道では荒ぶる怨霊(荒魂)は十分に慰霊するとご利益を与えてくださる和魂に転じると考えた。
さらに、明治まで神仏は習合して信仰されていた。

藤原氏の祖・天智天皇にとって蘇我倉山田石川麻呂は恐ろしい怨霊であるが、十分に慰霊・供養すれば和魂に転じる。
そういうわけで蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの像である山田寺の丈六仏像を興福寺は欲したのかもしれない。

1411年、興福寺東金堂で火災が発生し、丈六仏像も焼けてしまった。
ところが昭和12年、その後新しく新しく造られた本尊像の台座内から仏頭が発見された。
どうやら1411年の火災で丈六仏像の頭部が落ちて焼け残り、後に台座内にしまいこまれたようである。

これが興福寺国宝館に安置されている仏頭である。

美しく、端正な顔をしている。
しかし、頭部だけの仏像というのは首級を思い出させて気持ち悪いと思った。


興福寺国宝館をあとにした私は、桜井市にある山田寺跡へ行ってみることにした。
興福寺から車で50分ほど、直線距離で30kmも離れている。
この距離を丈六仏像を運ぶというのは、よほど厚い信仰心がないとできないだろう。

山田寺 白藤

山田寺跡 白藤


山田寺跡はただがらんとした何もない空き地のようなところだった。
そして空き地のすみに、明治25年
に再興されたという小さなお堂が建てられているだけだった。

山田寺 赤い楓

山田寺跡


ミシャグジ様の謎⑩ 千の仏頭が現れた山  につづきます~



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[ 2019/10/07 ] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

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