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ミシャグジ様の謎⑧ 大神神社は物部氏が祭祀する神社? 


ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル? よりつづきます~
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ミシャクジ様の謎① 昔の人は岩を落ちてきた星だと考えた? 

①三つ鳥居は怨霊を封じるためのもの?

前回、私たちは石上神宮について見てきた。
ミシャグジ様の謎⑦ 神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイル? 

今日はこの石上神宮から山辺の道を歩いて南へ6kmほどの場所にある大神神社を参拝してみることにしよう。

大神神社 茅の輪

コンクリート造りの大鳥居をくぐり、参道を歩いていくと大神神社の拝殿が見えてくる。
拝殿の前に置いてある輪は茅の輪である。

6月晦日の夏越の祓で、茅の輪潜りをする習慣が全国の神社にある。
その作法は神社ごとに多少の違いはあるが、だいたい、次のような文言を唱えながら輪をくぐる。

水無月の 夏越の祓ひ する人は、千歳の命 延ぶといふなり (1回目/左回り)
思ふこと みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな(2回目/右回り)
蘇民将来 蘇民将来(3回目/左回り)


生田神社 夏越大祓式 

上は生田神社(兵庫県神戸市)の夏越大祓式の写真である。
通常の茅の輪は生田神社のもののように一つの輪があるだけである。

大神神社は三輪山をご神体とする神社で、拝殿より直接ご神体の三輪山を拝する。

三輪山 日の出

大神神社 ご神体の三輪山


拝殿と大神神社の間には三つ鳥居がおかれているそうである。
私はなんとか三つ鳥居を見ることができないかといろんな場所から拝殿の向こう側をのぞいてみたが、残念ながら三つ鳥居は見ることができなかった。

三つ鳥居の写真は大神神社のhpに写真が掲載されていた。
http://oomiwa.or.jp/keidaimap/02-mitsutorii/

三つの輪を持つ茅の輪はこの三つ鳥居を模して作ったのだろう。

 三つ鳥居の中央には御簾のようなものがかけられているが、以前、大神神社のhpを見たときには鳥居の中央には御簾ではなく彫刻を施した扉のようなものがついていたと思う。
もしかしたら最近この三つ鳥居を作り直したのかもしれない。

いずれにせよ、この鳥居が普通の鳥居と性質が異なることは確かだろう。
普通の鳥居は参拝者がその下をくぐって神域に入ることができる。
いわば門のような役割をはたしている。
しかし、御簾や扉のついた鳥居では、その下を参拝者が通ることはできない。
 
三輪山は聖なる山、禁足地として参拝者の通行を制止するためのものなのか?
いや、どちらかというと、三輪山は怨霊の住まう山であり、怨霊が出てこないようにとの配慮からこのような御簾や扉のついた鳥居を作ったのではないかと私は思う。

というのは大神神社の御祭神・大物主は怨霊なのだ。
こんな話がある。

崇神天皇の夢枕に大物主があらわれ、こういった。
「今疫病が流行っているのは私の仕業である。自分の血をひく大田田根子に私を祀らせたならば、疫病はおさまるだろう。」
そこで天皇が大田田根子を探し出したところ、彼は「父は大物主神、母は活玉依姫」と答えたので、大物主神の祭主とした。
するとたちまち疫病は収まった。


怨霊とは政治的陰謀により不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされる、と考えられていた。
疫病を引き起こした大物主は怨霊だといえる。

②大田田根子は秦氏のオオ氏?

大田田根子は神君、鴨君の祖先だとされているが鴨氏が祭祀する上賀茂神社の摂社に大田神社がある。
また大田田根子は秦氏のオオ氏ではないかとする説がある。

秦氏は渡来人で、百済からやってきたとされるが、秦氏の祖が弓月君という人物であるところから、中央アジアにあった弓月王国の民ではないか、
そして弓月王国はキリスト教国であり、秦氏はクリスチャンではないかともいわれている。

秦氏の本拠地・京都の太秦には秦氏の氏寺である広隆寺があるが、広隆寺はかつて別名を太秦寺といった。
そして唐のネストリウス派キリスト教(景教)の寺院は大秦寺といい、太秦寺とは点があるかないかの違いしかない。
蚕の社はその広隆寺の鎮守として創建されたとも伝わるが、そこには珍しい三柱鳥居があり、キリスト教の三位一体をあらわすのではないかといわれている。

蚕の社 三柱鳥居 

蚕の社 三柱鳥居 3つの鳥居で三角柱の形を作っている。


三柱鳥居が秦氏の信仰によるものであるならば、大神神社の三つ鳥居もまた秦氏によるものではないか、とも考えられる。

③物部氏の祖神・ニギハヤヒと大物主は同一神?

大田田根子が秦氏だとすると、大物主は秦氏なのか?
私は大田田根子の母親の活玉依姫が秦氏の女性であったのではないかと思う。

大田田根子の父親、大物主は物部氏ではないだろうか。

物部氏の祖神はニギハヤヒだが、先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表記している。

そして大物主神は正式名称を倭大物主命という。
櫛・玉(魂)が共通するので、二神は同一神ではないかとする説があるのだ。

④本殿をもたないのは物部氏の祭祀スタイル?


そういえば、肩野物部氏の本拠地である大阪府交野市・枚方市あたりには本殿のない神社がいくつかあった。

磐船神社・星田妙見宮は巨岩をご神体とし、交埜神社の境外社の瘡(くさがみ)神社は拝殿の後ろにある沼をご神体としていた。
いずれも本殿はない。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 天の磐船

星田妙見宮 織女石

星田妙見宮 織女石(たなばたいし)

瘡(くさがみ)神社
 

瘡(くさがみ)神社 拝殿より後方の沼を拝する。
鳥居の左右の脚の長さがちがっていたw 2018年の台風で折れたのかも?

そして前回訪れた石上神宮には現在は本殿があるが、もともとは本殿はなく拝殿の奥の聖地を「布留高庭」として祀っていたのだった。
石上神宮は物部氏が祭祀する神社である。

石上神宮 3

石上神社


そして、ここ大神神社にも拝殿はあるが本殿がない。
拝殿より直接ご神体である三輪山を廃するという祭祀スタイルである。

大神神社の御祭神・大物主神は物部氏の神で、大物主神の「物」とは「物部氏」を意味しているのではないか。

星田妙見宮には次のような伝説が伝わっているとネット記事で読んだ記憶がある。

星田妙見宮は何度本殿を作っても火事になって焼失してしまう、それでこの神様は本殿は欲しくないのだろうということになり、本殿をつくっていない。

そしてこれとほとんど同じ伝説を、大神神社に伝わる伝説として聞いた記憶があった。
しかし随分昔のことであり、テレビか何かの本で読んだのだと思うが、覚えていない。
なので残念ながらこれについてのソースを示すことができない。

⑤大物主神と大国主神は同一神?

大神神社の御祭神・大物主神と出雲大社の御祭神・大国主神は同一神とされている。

というのは、次のような神話があるからだ。

大国主神は少名彦名神とともに国作りを行っていたが、国作りの途中で少名彦名神は常世の国へいってしまった。
大国主神はこれからどうやって国作りをすればいいのかと途方にくれていたが、そこへ海の向こうから光り輝く神があらわれた。
大国主が神に名前を問うと、「私はあなたの幸魂、奇魂。私を祀れば国造りは完成するだろう」と言った。
そこで大国主が祀ったのが大神神社であるという。


Izumotaisha 17feb1875

国立公文書館所蔵「出雲大社絵図」(1875年〈明治8年〉頃作成)
中央にある一番大きな建物が神殿だろう。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Izumotaisha_17feb1875.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/66/Izumotaisha_17feb1875.jpg
不明 [Public domain]


⑥出雲大社の本殿は15階建てビルに匹敵する大きさだった。

大国主を祀る出雲大社には大きな本殿がある。
現在でも破格の大きさだが、かつてはもっと大きかったらしく、出雲大社の言い伝えでは、神殿の高さは上古には32丈(約96m)もあったという。
970年に源為憲が書いた『口遊(くちずさみ)』によれば『雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)』とある。
雲太は出雲太郎、和二は大和二郎の略で東大寺大仏殿、京三は京三郎の略で京都の大極殿を表しており、出雲大社・大仏殿・大極殿の順で建物が大きいという意味だ。
その当時の東大寺大仏殿の高さは15丈であり、出雲大社の本殿は十六丈(約48m)はあったと想定される。
高さ十六丈は現在の15階建ての高層ビルに匹敵する。

また、3本の木を鉄の輪で1つに束ね、柱の太さが1丈(3m)もある金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』なども伝えられていた。
金輪御造営差図のような建物は構造的に無理だと考えられていたが、平成11年(1999)年から平成12年に行われた発掘調査の結果、拝殿北側から3本の柱の根本部分が発見され、しかも3本を束ねた柱の直径は約3mもあった。
こうして『金輪御造営差図』が現実のものであったことがわかった。

Izumo-taisha scale model 121281969 6127ff6b17 o

古代の本殿の模型
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Izumo-taisha_scale_model_121281969_6127ff6b17
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8e/Izumo-taisha_scale_model_121281969_6127ff6b17_o.jpg
Blue Lotus [CC BY 2.0 (
https://creativecommons.org/licenses/by/2.0)]

⑥出雲の国譲り

大国主といえば国譲りの神話で知られる。

天照大神に派遣されたタケミカヅチが大国主神に「国を譲れ」とせまった。
大国主は「二人の息子に聞いてくれ」と言った。
そこでタケミカヅチが大国主神の息子の事代主神に「国を譲れ」と迫ったところ、事代主神は「承知した」と答えて
逆手を打ち、海を青芝垣に変え、船を踏み傾けて姿を消した。(入水したのだろう。)

次にタケミカヅチは大国主神のもうひとりの息子タケミナカタと相撲をとった。
タケミナカタはタケミカヅチに手をつぶされて諏訪湖まで逃げたが逃げ切れず「国は天孫にさしあげる」と約束した。

大国主神は「二人の息子がそういうならば国は天孫にさしあげる。そのかわり天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を作ってほしい。そうすれば私はその宮殿に籠って外に出ることはないだろう。」

この大国主の言葉に従って作られたのが出雲大社で、出雲大社の社殿が大きいのは大国主の願いを聞き入れた、ということだろう。

⑦本殿を作らないのは、天皇家に従わないという意思表示だった?

一方、大物主神を祀る大神神社には本殿がない。
これについて、こんなことを言う人がいる。
「大国主神は宮殿をつくってもらえたが、大物主神は宮殿を作ってもらえなかったのだ。」

しかし伝説では、大物主のために何度本殿(宮殿)をつくっても潰れてしまうので、人々は大物主自身が本殿(宮殿)を欲していないと考えたということだった。

この伝説をどう考えるべきだろうか。

ニギハヤヒは初代神武天皇より早く畿内に天下った神であり、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。

日本書紀に次のような記述がある。

ニギハヤヒを神と奉じていたナガスネヒコは、日向より東征して畿内入りした神武と対峙し、次のように発言した。

「昔ニギハヤヒという天孫が天下り、私は妹のトミヤスヒメをニギハヤヒと結婚させた。
二人の間にはウマシマジノミコトという御子も生まれた。
あなたは天孫だというが、天孫がふたりもいるのか。
あなたは天孫だと偽って土地を奪おうとしているのではないか。」

神武は天つ神の子である証拠の天の羽羽矢と歩靱(かちゆき)を見せた。
それでもナガスネヒコは考えを改めなかったので、神武に服したニギハヤヒによってナガスネヒコは殺された。

(日本書紀)

ナガスネヒコは神と奉じていたニギハヤヒに殺されたとあるが、これは信用できない。
日本書紀は舎人親王らが編纂し元正天皇に奉納したものであり、天皇家に都合よく改竄されている可能性が高いからだ。

③で書いたように、大物主神=倭大物主命は物部氏の祖神・ニギハヤヒ=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と同一神であったのだろう。

実際のニギハヤヒ=大物主神は誇り高い人物であり、簡単に国を明け渡すような人物ではなかったのではないだろうか。

「私は宮殿などいらない。私は宮殿にこもったりはしない。もちろん国を天孫に譲ったりもしない!」
大物主はそんな風に考えているににちがいない、と人々は考え、大神神社に関しては出雲大社のように本殿をつくるということをしなかったのではないか。

しかしそれではあまりに大物主の祟りが恐ろしいということ大田田根子は大物主の怨霊を封じるため、三つ鳥居をつくり、三輪山から大物主神の怨霊が彷徨い出ないような呪術的な仕掛けをつくったのではないだろうか。

また本殿を造るのは秦氏の祭祀スタイルであり、本殿を作らず巨岩・沼・山などをご神体とするのは物部氏の祭祀スタイルだと考えられると思う。





ミシャクジ様の謎⑨ 30kmも運ばれた丈六の仏像 につづきます~



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[2019/09/21 16:28] ミシャグジ様の謎 | TB(0) | CM(0)

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