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私流 トンデモ百人一首 18番 すみの江の・・・ 『紀氏と関係が深かった藤原氏の男?』

小倉百人一首18番 
すみの江の 岸による波 よるさへや 夢のかよひぢ 人目よくらむ/藤原敏行
(墨の江というのにぴったりな夜の住之江。この住之江の岸に何度も波は寄ってくるのに、あなたは私に寄ってこない。
住之江の岸に寄る波の「寄る(よる)」という言葉は「夜」を思い出せるが、
その夜にさえ、夢の中で私のもとに通う道にあなたは人目を避けてあらわれてくれない。)


なんこう サンフラワー ゆうひ
南港

①平安時代、住之江区は海だった。

住之江区南港。
ここから海を見ていると、百人一首にある藤原敏行の歌を思い出す。

すみの江の 岸による波 よるさえや 夢のかよひぢ 人目よくらむ

平安時代、藤原敏行はこのあたりで海を見、それを歌に読んだのだろうか。

調べてみると藤原敏行が歌に詠んだ住之江とは現在の住吉大社付近にあった入り江のことだとある。

住吉大社 太鼓橋

住吉大社 平安時代にはこの太鼓橋あたりまで海だったという。


しかし住吉大社の近くには海はない。
海岸線ははるか遠くである。

また住吉大社は住之江区ではなく住吉区にある。




②河内湾・河内湖

実は現在の住之江区あたりは、平安時代にはほとんど海だったのである。

かつて大阪湾の海岸線は現在の平野部まで深く入りこんでいた。(河内湾)
そして上町台地のみが海の上に姿を見せていた。
古墳時代(3世紀~ら7世紀ごろ)には、河内湾は淀川・大和川が運ぶ水によって淡水化し、河内湖となった。

藤原敏行(?年~901年)の時代、大阪湾の海岸線は現在の住吉大社あたりまであったのである。

その後、淀川や大和川の度重なる氾濫により土砂が堆積し、また干拓工事なども行われた結果、河内湖は徐々に平野へと変わっていった。
門真市の弁天池・大東市の深野池は河内湖の名残だという。

↓ こちらのページに河内湾(河内湖)の変遷図が掲載されているので、参照してほしい。
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html

すみのえ南港 光のワンダーランド4 
南港

③伊予親王の変で勢力が衰えた藤原南家

すみの江の 岸による波 よるさえや 夢のかよひぢ 人目よくらむ

この歌を詠んだ藤原敏行(?~907年または901年)は藤原南家の人物である。

藤原氏の始祖は藤原不比等だが、不比等には無智麻呂・房前・宇合・麻呂の四人の息子があった。
そして房前は藤原南家の開祖、房前は北家の開祖、宇合は式家の開祖、麻呂は京家の開祖となった。

807年、伊予親王の変がおこった。
藤原宗成(北家・左大臣)が平城天皇の弟・伊予親王を担ぎ上げての謀反を計画していると、藤原雄友(藤原南家)が右大臣・藤原内麻呂(北家)に報告したのだ。
宗成に取り調べを行ったところ、彼は伊予親王が首謀者だと自白した。
そして伊予親王は母・藤原吉子(南家・藤原雄友の妹)とともに川原寺に幽閉されてしまったのだ。

伊予親王と藤原吉子(南家)は川原寺で自害した。
謀反を計画したとされる左大臣・藤原宗成(北家)は流罪。
宗成の謀反を右大臣・藤原内麻呂(北家)に報告した藤原雄友(南家)も流罪。(報告などしなければよかった!)
また事件に関与したとして、南家の藤原友人は下野へ左遷、同じく南家も藤原乙叡は中納言を解任されている。

この事件があって、南家の勢力は衰え、藤原式家が権力を握る。
この後、平城上皇が式家の藤原仲成・藤原薬子と結んで薬子の変(平城上皇が嵯峨天皇に対して挙兵するがまもなく鎮圧された。)をおこしたことで、式家も勢力が衰えてしまうのだが。

薬子の変の後、嵯峨天皇の信任を得た北家の藤原冬嗣が権力を得、娘の藤原順子を仁明天皇に入内させた。
順子は文徳天皇を産み、冬嗣は文徳天皇の外祖父となった。
藤原冬嗣の子の良房は娘の明子を文徳天皇に入内させた。
明子は清和天皇を産み、良房は清和天皇の外祖父になった。
良房の養子(甥)の基経は醍醐天皇に娘の藤原穏子を入内させた。
穏子は朱雀天皇・村上天皇を産み、基経は外祖父となった。
このようにして北家が他家を押さえて権力を身につけていったのである。

天皇
51平城天皇桓武天皇藤原乙牟漏(式家・藤原良継の娘)
52嵯峨天皇桓武天皇藤原乙牟漏(式家・藤原良継の娘)平城天皇の弟
53淳和天皇桓武天皇藤原旅子(式家・藤原百川の娘)平城天皇・嵯峨天皇の弟
54仁明天皇嵯峨天皇橘嘉智子
55文徳天皇仁明天皇藤原順子(北家・藤原冬嗣の娘)
56清和天皇文徳天皇藤原明子(北家・藤原良房の娘)
57陽成天皇清和天皇藤原高子(北家・藤原良房の養女/藤原基経の妹)
58光孝天皇仁明天皇藤原沢子(北家・藤原総継の娘)
59宇多天皇光孝天皇斑子女王(桓武天皇皇子・仲野親王の娘)
60醍醐天皇宇多天皇藤原胤子(北家・藤原高藤の娘)養母は藤原温子(北家・藤原基経の娘)
61朱雀天皇醍醐天皇藤原穏子(北家・藤原基経の娘)
62村上天皇醍醐天皇藤原穏子(北家・藤原基経の娘)朱雀天皇の弟

すみのえ南港 光のワンダーランド3

南港

④岸は紀氏の掛詞?


藤原敏行の生年は不明、没年は907年または901年とされ、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇、醍醐天皇に仕えている。
官位は従四位上、右兵衛督で身分は高い人ではない。

父親は藤原南家の藤原富士麻呂、母親は紀名虎の娘である。
そして藤原敏行は紀有常の娘を妻としている。
藤原氏は非常に紀氏の血の濃い藤原氏だったのだ。

これで「岸による波 よるさえや」の意味がわかった!

「岸」は「紀氏」の掛詞になっているのではないだろうか。
「岸による波」とは「紀氏による波」にかかり、藤原敏行自身の比喩ではないだろうか。

⑤紀名虎と藤原良房のバトル

文徳天皇は藤原良房の娘・明子との間に惟仁親王(清和天皇)、紀名虎の娘・静子との間に惟喬親王があった。
源信の日記によれば、文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子にしたいと源信に相談したが、源信は藤原良房を憚って天皇をいさめたという。

平家物語にはいずれの孫を立太子させるかで、藤原良房と紀名虎が激しいバトルを繰り広げる様子が記されている。
相撲、高僧の祈祷合戦などのすえ、藤原良房が勝利したとある。
紀名虎の没年は847年、惟仁親王の生年は858年なので、平家物語の記述は創作なのだが、こうした物語が創作される背景に紀氏と藤原氏に相当な確執があったことは確かだろう。

すみのえ南港 光のワンダーランド2

南港


⑥六歌仙は怨霊だった。

高田祟史さんは「六歌仙(僧正遍照在原業平分室康秀喜撰法師小野小町大友黒主)とは藤原氏と敵対関係にあった人物であり、怨霊である。」とおっしゃっている。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた者のことで、疫病の流行、天災などは怨霊の仕業で引き起こされると考えられていた。

そこで六歌仙ひとりひとりについて調べてみると、全員藤原氏と確執があることがわかる。

喜撰法師紀名虎または名虎の息子の紀有常だという説がある。
(藤原敏行の母は紀名虎の娘、藤原敏行の妻は紀有常の娘)
すでに述べたように、紀名虎の娘で紀有常の妹の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産んだ。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談たが、源信は藤原良房を憚ってこれを諌めた。
藤原良房の娘の藤原明子もまた文徳天皇に入内して惟仁親王(のちの清和天皇)を産んでいた。
この惟仁親王が皇太子になった。

私自身は喜撰法師とは紀氏の血のこい惟喬親王のことだと考えている。

参照/私流トンデモ百人一首 8番 わが庵は『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王のことだった?』 

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いているが、その歌会のメンバーの中に遍照在原業平紀有常らの名前がある。
彼らは歌会と称し、惟喬親王をまつりあげてクーデターを計画していたのではないかという説もある。
在原業平が849年から862年まで全く昇進しておらず、伊勢物語7段に「京にいるのがつらくなって東下りした」という内容が記されているが、彼らがクーデターを計画していたがばれた結果だと考えると辻褄が合うと思う。

遍照は藤原良房にすすめられて出家したと伝わるが、彼は出家した理由を決して人に話さなかったという。

在原業平は紀有常の娘を妻としており、惟喬親王の寵臣でもあり紀氏側の人物だった。

文屋は分室とも記され、文屋康秀は分室宮田麻呂と血のつながりがあると思われる。
分室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となっているが、死後冤罪であったことが判明している。
分室宮田麻呂は藤原北家に暗殺されたのではないかとする説もある。

大友黒主は大伴黒主とも記され、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残されている。
大友黒主とは大伴家持のことだと思う。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして当時すでに死亡していたのだが、死体が掘り起こされて流罪となっている。

参照/ 陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? 

⑥小野小町は男だった?


残る小野小町について、私は「小野宮」と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えている。
惟喬親王はもちろん男性なのだが、古今和歌集には男性が女性の身になって詠んだ歌というのがたくさんある。
今回の藤原敏行の歌も、男性が女性の身になって読んだ歌である。
古今和歌集の編者の一人である紀貫之も土佐日記で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自らを女と偽って日記を書いている。

参照/ 私流 トンデモ百人一首 9番 花のいろは・・・  『小町の歌は男らしく堂々とした歌だった。』 

⑦藤原敏行は怨霊だった?

藤原敏行は三十六歌仙に選ばれている。
六歌仙とか三十六歌仙と聞くと、現代人は歌のうまい6人の歌人、歌のうまい36人の歌人というふうに思いがちだが、
六歌仙が怨霊であったとすると、三十六歌仙もまた怨霊だろう。
つまり、藤原敏行は怨霊である可能性が高い。

すみのえ南港 光のワンダーランド5

南港

⑧伊勢物語百七段(涙河)

藤原敏行の妻と在原業平の妻はどちらも紀名虎の娘で、姉妹である。
これを踏まえて、伊勢物語百七段(涙河)を読んでみよう。

むかし、あてなるをとこありけり。そのをとこのもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。されど若ければ、文もをさをさしからず、ことばもいひ知らず、いはむや歌はよまざりければ、かのあるじなる人、案をかきて、かかせてやりけり。めでまどひにけり。さてをとこのよめる。
  つれづれのながめにまさる涙河袖のみひぢてあふよしもなし
返し、例のをとこ、女にかはりて、
  あさみこそ袖はひづらめ涙河身さへながると聞かば頼まむ
といへりければ、をとこいといたうめでて、今まで巻きて、文箱に入れてありとなむいふなる。をとこ、文おこせたり。得てのちのことなりけり。雨のふりぬべきになむ見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨はふらじ、といへりければ、例のをとこ、女にかはりてよみてやらす。
  かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨は降りぞまされる
とよみてやれりければ、蓑も傘も取りあへで、しとどに濡れて惑ひ来にけり。

(文の現代語訳)
昔、ある高貴な男があった。その男のところにいたある女に、内記であった藤原の敏行という人が言い寄っていた。だが女はまだ若いので、手紙もろくに書けず、言葉の使い方も知らず、いわんや歌を読むことなどできなかったので、女の主人が、下書きを書いて、女に書かせて送らせてやった。敏行はそれを読んでたいそう感心した。そこで敏行は次のような歌を読んで贈ったのだった。
  やるせない思いにもまさって深い涙の川ですが、濡れるのは袖ばかりで、川を渡ってあなたと会うことができません
これに対して、主人の男が女に代って、
  浅いから袖が濡れないのでしょう、あなたの身が流れる程川が深いと聞いたならば、あなたを頼りにいたしましょう
と読んでやったので、敏行はいたく感心して、その文を巻物にして、文箱に保存しているということだ。さて、その敏行が女にまた文を送った。女と結ばれた後のことだったという。それは、雨が降っているのでどうしようか迷っています、私の身に幸運があれば、この雨が降ることはないでしょう、という内容だった。すると女の主人が、女にかわって、次のような歌を読んで返したのだった。
  あれやこれやとあなたが私を思ってくれるのか、それとも思ってくれないのか、聞くわけにもいかず、私の心のうちを知っている雨は、このように降るばかりなのでしょう
そこで敏行は、蓑も傘もとりあえず、ずぶ濡れになりながら、大慌てで駆けつけてきたということである。


(文の解説)
●あてなる:気品がある、高貴な、●内記:中司省に所属する役人、●藤原敏行:古今集にも出てくる歌人、●よばひけり:言い寄った、求婚した、●をさをさしからず:しっかりとしていない、●めでまどひにけり:どうしてよいかわからないほど感心した、●つれづれの:みたされない思い、やるせない:●袖のみひぢて:袖ばかり濡れて、●あさみこそ:浅いので、●雨のふりぬべきになむ:雨が降りそうなので、●見わづらひはべる:判断に迷う、●かずかずに:あれやこれやと、●問ひがたみ:問うわけにいかないので、●身をしる雨:身の程を知っている雨、●しとどに:ぐっしょりと、

https://ise-monogatari.hix05.com/6/ise-107.html より引用

上記サイトで現代語訳がなされているが、もう少しわかりやすく解説してみたい。

「高貴な男」とは在原業平のことである。
「業平のところにいたある女」とはのちに藤原敏行の妻になった紀有常の娘のことだろう。
すでに述べたように在原業平もまた紀有常の娘を妻としていた。
のちに藤原敏行の妻となった紀有常の娘は、在原業平の妻の紀有常の娘と姉妹であるところから、業平の妻と同居していたのだろう。

後に藤原敏行の妻となった紀有常の娘は若く、手紙を書いたり歌を詠んだりすることができなかったとある。
ということは敏行の妻が妹で、在原業平の妻のほうが姉なのだろう。

そして「女の主人が手紙の下書きを書いて、女に書かせた」とあるが、女の主人とは姉のことだ。
姉がまだ幼い妹のかわりに手紙の下書きを書き、妹に手紙を書かせて敏行に送らせたのだ。

敏行は大変喜んで、次のような歌を詠んで妹の方に送った。
つれづれの ながめにまさる 涙河 袖のみひぢて あふよしもなし
(やるせない思いにもまさって深い涙の川ですが、濡れるのは袖ばかりで、川を渡ってあなたと会うことができません)


これに対して主人の男=在原業平が、紀名虎の娘(妹)に変わって歌を詠み、藤原敏行に送った。
あさみこそ袖はひづらめ涙河身さへながると聞かば頼まむ
(浅いから袖が濡れないのでしょう、あなたの身が流れる程川が深いと聞いたならば、あなたを頼りにいたしましょう)

藤原敏行は非常に感心して、この文を巻き物にして文箱に保存した。

藤原敏行が紀有常の娘(妹)と結ばれたのち、また紀有常の娘(妹)に文をおくった。
(当時は妻問い婚が主流だったので、結婚したのちも、紀有常娘(妹)は紀有常娘(姉)とともに生活していたのだろう。
もしかすると姉妹が住んでいたのは紀有常の邸宅であり、在原業平は妻にあうためそこへ頻繁に通っていたのかもしれないが、
詳細はわからない。)

雨のふりぬべきになむ見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨はふらじ
(雨が降っているのでどうしようか迷っています、私の身に幸運があれば、この雨が降ることはないでしょう。)

すると紀有常の娘(姉)が妹にかわって歌を詠んで返した。

かずかずに 思ひ思はず 問ひがたみ 身をしる雨は 降りぞまされる
(あれやこれやとあなたが私を思ってくれるのか、それとも思ってくれないのか、聞くわけにもいかず、私の心のうちを知っている雨は、このように降るばかりなのでしょう)

この歌を詠んで藤原敏行は蓑も傘ももたず、ずぶぬれになって大慌てで駆けつけてきた。

すみのえ南港 光のワンダーランド7


⑨藤原敏行、惟喬親王を担ぎ上げての業平のクーデターに参加?


平安時代の貴族の婚姻は政治的目的を持ったものがほとんどだったとみていいだろう。
在原業平が紀有常の娘を妻にしたのも政治的目的を持ったものだと思う。
伊勢物語を読むと在原業平が惟喬親王の寵臣であったことがわかる。
惟喬親王の母親は紀名虎の娘の静子で、紀有常は静子の兄で、惟喬親王の叔父にあたる。
業平は紀氏との関係を強固にするために、紀有常の娘(姉)を妻にしたのだろう。

そして紀名虎の娘を母に持つ藤原敏行が紀有常の娘(妹)を妻としたのも、紀氏とのつながりをより強固にするためではなかったかと思う。

藤原敏行が紀有常娘(妹)に送った手紙に対して、紀有常(姉)や在原業平が代筆して文を送ったというが、これは実は恋文ではなく、惟喬親王を担ぎ上げての業平のクーデターに関する機密文書ではないだろうか。

つれづれの ながめにまさる 涙河 袖のみひぢて あふよしもなし
(やるせない思いにもまさって深い涙の川ですが、濡れるのは袖ばかりで、川を渡ってあなたと会うことができません)

クーデターに参加したいのはやまやまですが、私は藤原南家の人間ゆえ障害が多く、あなた(在原業平)に会うことができずにいます。


あさみこそ 袖はひづらめ 涙河 身さへながると 聞かば頼まむ
(浅いから袖が濡れないのでしょう、あなたの身が流れる程川が深いと聞いたならば、あなたを頼りにいたしましょう)

浅いから袖が濡れないのでしょう、あなたの身が流れるほど川が深いのならば、私(在原業平)はあなた(藤原敏行)を頼りにしますよ。

雨のふりぬべきになむ見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨はふらじ
(雨が降っているのでどうしようか迷っています、私の身に幸運があれば、この雨が降ることはないでしょう。)

雨が降っているのでクーデターに参加するかどうか迷っています。私(藤原敏行)の身に幸運があるなら、この雨は降ることは無いでしょう。


かずかずに 思ひ思はず 問ひがたみ 身をしる雨は 降りぞまされる
(あれやこれやとあなたが私を思ってくれるのか、それとも思ってくれないのか、聞くわけにもいかず、私の心のうちを知っている雨は、このように降るばかりなのでしょう)

あなたが紀氏側につくか、それともつかないのか聞くわけにもいかず、私(クーデターメンバー/在原業平・紀有常ら)の心のうちを知っている雨はこのように降るばかりなのでしょう。


このようなやり取りがあり、藤原敏行は在原業平のクーデターに参加擦るべく大慌てで業平のもとに駆け付けてきたということではないだろうか。

しかしクーデターは失敗したようで惟喬親王が皇位につくことはなかった。
またクーデターの首謀者と思われる在原業平は849年から862年まで全く昇進していない。


すみの江の 岸による波 よるさえや 夢のかよひぢ 人目よくらむ

この歌の詞書に「寛平御時きさいの宮の歌合のうた」とある。

寛平とは889年から898年の年号で、宇多天皇・醍醐天皇の御代である。

クーデター参加メンバー生没年
惟喬親王844~897
在原業平825~880
遍照816~890
紀有常815~877
藤原敏行?~901or907 

惟喬親王の生没年は844-897で、寛平9年に亡くなっている。
「寛平御時きさいの宮の歌合」が何年に行われた歌合わせなのかわからないが、惟喬親王の死後に行われたものなのかもしれない。
夢の通い路ですら、人目を避けて藤原敏行の前に現れないのは、亡き惟喬親王であったかもしれない。 


すみのえ南港 光のワンダーランド8 
南港



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