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私流 トンデモ百人一首 19番 難波潟・・・ 『伊勢が産んだ子は蛭子と淡島だった?』


小倉百人一首 19番

難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや /伊勢
(難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)


舞洲 百合 ヨット 

 ①難波潟 短き芦の 節の間も


百合の花が咲き乱れる舞洲。
大阪湾にある人口の島である。

かつての大阪湾は現在よりも内陸部にまで入り込んでいた。
そして干潟が広がり、難波潟と呼ばれていた。

難波潟と呼ばれていたころは百合ではなく、芦(あし)が生い茂っていた。 
この難波潟の葦を詠んだのが
難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
である。

舞洲 葦 
 ②恋多き女性だった伊勢

伊勢はすごくもてる女性だったようである。
藤原仲平とつきあっていたが破綻。
その後、藤原仲平の兄の時平や平貞文から求愛を受けている。
宇多天皇の寵愛を受けて皇子を産んだ。この皇子は5歳または8歳で夭逝したようであるが。
宇多天皇が出家したあと、宇多天皇の皇子の敦慶親王との間に中務という娘をもうけている。

えっ・・・おっおっおっ・・親子どんぶり?

舞洲 百合 

③伊勢はなぜ本名がわかっていないのか?

平安時代の女性はおいそれと人前で名前を名乗ることがなかったこともあって、ほとんど本名がわかっていない。
伊勢というのは紫式部・清少納言等と同様、通称である。

ただし、天皇に入内した女性は位が与えられて記録が残っているため、名前がわかっている。
伊勢は宇多天皇の后・藤原温子に仕えているが、藤原温子という名前が後世に残っているのはそのためである。

いやいや、そんなことよりも、伊勢が自分が仕えている人(温子)の夫(宇多天皇)と関係をもって子供を産んでいるというのが衝撃的だ~。

いやー、平安時代の宮中って実に乱れている。それとも当時そんなのは普通のことだったのだろうか?

それはさておき、『古今和歌集目録』に伊勢が宇多天皇の更衣となったとある。
更衣になったのであれば記録があって本名が記録に残っているはずではないだろうか?

なぜ伊勢は本名が後世に伝えられていないのだろうか?
更衣になったというのは間違いなのか、それとも記録が消されたのか、記録することができない何らかの事情があったのか?

舞洲 百合 黄色

④伊勢の御息所(みやすどころ)

伊勢は「伊勢の御息所」とも呼ばれていたが、この御息所には2つの意味がある。

天皇の寝所に侍する宮女。女御(にょうご)・更衣(こうい)、その他、広く天皇に寵せられた官女の称。また一説に、皇子・皇女の母となった女御・更衣の称という。みやすんどころ。「六条の御息所」
「上は、―の見ましかば、とおぼし出づるに」〈源・桐壺〉
皇太子妃または親王妃の称。
「二条の后、春宮(とうぐう)の―と申しける時に」〈古今・物名・詞書〉

https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E6%81%AF%E6%89%80-139576#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 より引用

伊勢が「伊勢の御息所」と呼ばれていたのは、1で、宇多天皇に寵愛されていたためか、または宇多天皇の皇子を産んだためではないかと思う。

天皇の皇子を産むというのはすごいことである。
自分が生んだ皇子が皇位を継承したら、自分は国母となる。
まあ、宇多天皇には多くの皇子があったので、身分の低い伊勢が生んだ皇子が皇位継承する可能性は低かったと思われるが。

しかし、伊勢が生んだ宇多天皇の皇子は夭逝してしまった。

舞洲 百合 ピンク

⑤低い身分で国母となった藤原胤子

②でお話ししたように、宇多天皇が出家したあと、伊勢は宇多天皇の第四皇子の敦慶親王との間に中務という娘をもうけている。
醍醐天皇は敦慶親王の同母兄にあたる。

醍醐天皇と敦慶親王の母親は藤原高藤の娘の藤原胤子である。
勧修寺を創建したとも伝わる女性である。

勧修寺 睡蓮・花菖蒲・額紫陽花・沙羅双樹 『外祖父になっても昇格できなかった藤原高藤』 

藤原高藤は醍醐天皇の外祖父であるにもかかわらず、大納言どまりで出世できなかった。
また胤子の母親は宮道弥益(山城国宇治郡大領)の娘・列子で、身分としては低い方だった。

そのような低い身分の人でも国母(醍醐天皇の母親なので)になった例があったのである。
ちなみに伊勢の父親は藤原北家真夏流の伊勢守藤原継蔭、母親は不明である。

しかし伊勢は宇多天皇の皇子を産んだにもかかわらず、国母になることができなかった。
⑥恋の歌ではなく、我が子を詠んだ歌?

難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
(難波潟の短い芦の節の間ほどの短い時間もあなたにお会いすることができず、一生を過ごせと、あなたは言うのでしょうか。)


この歌は、恋の歌のように見えて、伊勢が夭逝した我が子(宇多天皇の皇子)と娘・中務を詠んだ歌のように思える。

「芦」は足にかかり、足が悪かった蛭子を思い出させる。
蛭子はイザナギ・イザナミの長子だったが、3歳になっても歩けなかったので芦舟に乗せられて流された神である。

また「逢はで」は「淡で」にかかり「淡島」を思い出させる。
淡島はイザナギ・イザナギの2番目の子だったが、やはり不具の子であったとして、芦の舟に乗せられて流されている。


舞洲 百合 オレンジ



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