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私流トンデモ百人一首 12番 天つ風・・・・ 『僧正遍照、大嘗祭で呪いの歌を詠む?』

小倉百人一首12番

天つ風  雲の通ひ路  吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ/僧正遍照
(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)


京都御苑・九條池の百日紅を見ようと京都御苑を訪れたのだが
「そうだ、京都御所通年公開されることになったんだった~。」と思い出し、京都御所に行ってみることにした。

京都御所 松 
①1331年から1869年まで皇居があった場所

14世紀ごろ、鎌倉幕府は持明院統と大覚寺統から交互に天皇をたてていた。
1308年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位。
1331年、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、後醍醐天皇は京都を脱出して南山城の笠置山に籠った。
このとき鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇を即位させた。
これがきっかけで南北朝が並立するようになっていく。

光厳天皇は土御門東洞院殿を里内裏とした。
それ以来、ここが皇居として用いられるようになり、明治2年(1869年)に明治天皇が東京へ行幸するまで続いた。
ただし、建物は何度も建て直されている。

794年の平安遷都時の内裏は現在の御所より西の千本通り沿いにあった。

②即位の礼が行われていた紫宸殿

京都御所 承明門と紫宸殿 
承明門と紫宸殿

承明門の向うに紫宸殿が見えている。
紫宸殿は儀式を行うところで、昭和天皇まで『即位の礼』はここで行われていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%A4%BC#/media/File:Enthronement_of_Emperor_Hirohito.jpg
(ウィキペディア 昭和天皇の即位の礼(京都御所・紫宸殿の儀) 大阪朝日新聞 昭和3年10月1日付挿画)

今上天皇の『即位の礼』は1990年11月12日に東京で行われた。

京都御所 池と百日紅2 
③大嘗祭

11月23日は勤労感謝の日ですが、この日宮中では新嘗祭が行われる。
新たな天皇が即位した年に行われる新嘗祭は大嘗祭と呼ばれ、即位の礼と一連の儀式とされている。

大嘗祭は大極殿前に大嘗宮という建物をつくり、そこで行われた。
1990年の大嘗祭では東御苑に約9000㎡もの土地が用意され、39棟もの建物が建てられたそうである。

大嘗祭では様々な行事が行われるが、その中に五節舞(ごせちのまい)がある。

④五節舞

五節舞とは大嘗祭や新嘗祭に行われる、4,5人の舞姫による舞のことである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E#/media/File:Gosechi_no_Mai-Hime_Shozoku.JPG(ウィキペディア 五節舞姫装束)



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)


この歌は詞書に「五節の舞姫をみてよめる」とありる。

遍照は宮中を天上になぞらえ、そのため宮中に吹く風を「天つかぜ」と表現したと解釈されている。

僧侶がこんな好色な歌詠んでいいのか、と思っていましたが(笑)、古今和歌集では作者は「よしみねのむねさだ(遍照の在俗時の名前)となっており、遍照が出家する以前に詠んだ歌だと一般には考えられている。

京都御所 池 

⑤六歌仙は怨霊だった。


僧正遍照
は六歌仙の一である。(他の五歌仙は在原業平分室康秀喜撰法師小野小町大友黒主
高田祟史さんは「六歌仙とは藤原氏と敵対関係にあった人物であり、怨霊である。」とおっしゃっている。

そこで六歌仙ひとりひとりについて調べてみると、全員藤原氏と確執があることがわかる。

喜撰法師紀名虎または紀有常だという説がある。
紀名虎の娘で紀有常の妹の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産んだ。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談しましたが、源信は藤原良房を憚ってこれを諌めたとされる。
藤原良房の娘の藤原明子もまた文徳天皇に入内して惟仁親王(のちの清和天皇)を産んでいた。
この惟仁親王が皇太子になった。
私は喜撰法師とは紀氏の血のこい惟喬親王のことだと考えている。

参照/私流トンデモ百人一首 8番 わが庵は『喜撰法師は紀仙法師で惟喬親王のことだった?』 

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いているが、その歌会のメンバーの中に遍照在原業平紀有常らの名前がある。
彼らは歌会と称し、惟喬親王をまつりあげてクーデターを計画していたのではないかという説もある。

遍照は藤原良房にすすめられて出家したと伝わるが、彼は出家した理由を決して人に話さなかったという。

在原業平は紀有常の娘を妻としており、惟喬親王の寵臣でもあり紀氏側の人物でした。

文屋は分室とも記され、文屋康秀は分室宮田麻呂と血のつながりがあると思われる。
分室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となっているが、死後冤罪であったことが判明している。
分室宮田麻呂は藤原北家に暗殺されたのではないかとする説もある。

大友黒主は大伴黒主とも記され、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残されている。
大友黒主とは大伴家持のことだと思う。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして当時すでに死亡していたのdが、死体が掘り起こされて流罪となっている。

参照/ 陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? 

京都御所 池と百日紅

⑥小野小町は男だった?


残る小野小町について、私は「小野宮」と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えている。
惟喬親王はもちろん男性なのだが、古今和歌集には男性が女性の身になって詠んだ歌というのがたくさんある。
古今和歌集の編者の一人である紀貫之も土佐日記で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自らを女と偽って日記を書いている。

参照/ 私流 トンデモ百人一首 9番 花のいろは・・・  『小町の歌は男らしく堂々とした歌だった。』 

京都御所 平安装束の女性たち  

↑ 八坂神社のかるた始めに登場したかるた姫さんたちを合成しました。

⑦藤原高子、五節舞姫となる。

さて世継ぎ争いに勝利した惟仁親王は859年に即位して清和天皇となったのであるが
この際の大嘗祭で、藤原良房の養女・藤原高子が五節舞姫をつとめている。
そして866年に藤原高子は清和天皇に入内して女御となった。

高子が清和天皇に入内したことで藤原良房はますます権力を高めていった。
藤原良房にとって高子は、天皇家と結びつきを強めるための大切な存在であった。

⑧「天つかぜ~」は高子入内を妨害する呪いの歌だった?

京都御所 蹴鞠の絵


すると、僧正遍照が 
天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
と歌を詠んだ真意が見えてくるような気がする。

この歌にある「をとめ」とは859年の清和天皇即位に伴う大嘗祭で五節舞姫をつとめた藤原高子のことではないだろうか。
遍照は宮中を天上になぞらえてこの歌を詠んだとされていることを思い出してほしい。
遍照は「風よ、高子を天上(宮中)に入れないでくれ。清和天皇に入内させないでくれ」という意味で、この歌を詠んだのではないだろうか。

古今和歌集ではこの歌の作者名は「よしみねのむねさだ」と遍照が在俗時の名前になっているので、出家する前に詠んだ歌だと考えられている。
遍照が出家したのは849年、高子が五節舞姫を務めたのが859年なので、遍照が詠んだ五節舞を舞う乙女とは高子のことではない、と思われる方もいるかもしれない。

遍照出家後に詠んだ歌ではあるが、「高子を入内させないでくれ」というとんでもない内容の歌なので、
呪ったことがばれないように、あえて在俗時の名前で掲載されたという可能性もあると思う。

今は人を呪っても罪にはならないが、古には権力者を呪うことは罪として罰せられたのである。

あるいは「僧侶が好色な歌を詠むとはいかがなものか」との批判を避ける目的があったのかもしれない。



京都御所 蹴鞠の庭   

蹴鞠の庭。
絵に描かれた人物を現実の風景の中に立たせてみたら面白いだろうな~、とずっと思っていました。
そこで京都御所の建具(戸かな?)に描かれていた蹴鞠する人々の絵を合成してみました。


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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