私流 トンデモ百人一首7番 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 『阿部仲麻呂と光明皇后のスキャンダル?』
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも/ 阿部仲麻呂
(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)

浮見堂 三笠山 百日紅
向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山
①阿部仲麻呂、帰京の喜びを詠む。
717年、第9次遣唐使が派遣されることになり、遣唐使に選ばれた人々は春日大社の背後にある三笠山(御蓋山)の麓で航海の無事を神に祈り、唐へ向かって出発した。
三笠山は遣唐使として出立する人々が航海の安全を祈る場所だったのである。
遣唐使の中には阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らがいた。
735年、吉備真備・玄昉らは帰国したが、阿倍仲麻呂は唐で役人になって帰ってこなかった。
752年、孝謙天皇(光明皇后の娘)は第12次遣唐使を派遣し、次のような歌を詠んだ。
四つの船 早帰り来と しらかつく 我が裳の裾に 鎮ひて待たむ
(四隻の船よ、早く帰ってくるように。しらかをつけたこの我が裳の裾に祈りをこめて待っています。)
※しらか/麻やこうぞを細く裂いて幣帛としたもの
また、孝謙天皇の母親の光明皇太后(光明皇后)も入唐大使・藤原朝臣清川に次のような歌を贈っている。
大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち
(大きな船にたくさんの櫂を取り付けて、わが子を唐へ遣わします。神々よ、護り給え。)
※藤原清川は光明皇太后の甥で子ではない。
光明皇太后は国家の皇太后という立場からが清河を『この吾子』と表現したと考えられている。
遣唐使たちを乗せた船は無事唐へ到着し、翌753年、阿倍仲麻呂は藤原清川の船に乗って日本に帰ることになった。
日本に帰国する前日、唐の役人たちは仲麻呂との別れを惜しんで宴を開いた。
その席で仲麻呂が詠んだのが、次の歌である。
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも
(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)
ところが、仲麻呂が乗った船は暴風雨に会って長安に戻り、仲麻呂は日本に帰れないまま、唐で没した。

②暗闇を照らす光、光明は月?
阿部仲麻呂が詠んだ「三笠の山」は「遣唐使として出立する人々が航海の安全を祈る場所」であり、その場所で孝謙天皇と光明皇太后が遣唐使船の無事の帰国を願う歌を詠んでいることに注意してほしい。
孝謙天皇と光明皇太后が詠んだ遣唐使船の無事の帰国を願う歌と、阿部仲麻呂が詠んだ「天の原・・・・」の歌は対応しているのではないか?
「暗闇を照らす光」のことを光明という。
暗闇を照らす光とは月のことで、阿倍仲麻呂の歌にある「月」とは光明皇太后のことではないだろうか。
阿倍仲麻呂が唐へ行った翌年、光明皇后(光明皇太后)が聖武天皇の皇女・阿倍内親王(孝謙天皇)を出産しているのが気になる。

③孝謙天皇は阿部氏と関係が深い?
孝謙天皇は阿倍内親王という名前であったが、この名前は阿倍氏と関係の深い人物であったところからつけられたのではないだろうか。
『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、孝謙天皇(称徳天皇)は蝦夷の安倍一族の出身であり、あるとき朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたと記されている。
正史では孝謙天皇は聖武天皇の皇女で母親は光明皇后(=光明皇太后)となっているが。
東日流外三郡誌は後世に作られた偽書とされているが、気になる記述である。
正史は為政者の都合のいいように書き換えられている可能性もある。
阿倍仲麻呂は安倍仲麿とも記される。
阿倍内親王は聖武天皇の皇女とされているが、本当の父親は阿倍仲麻呂なのではないか?
第12次遣唐使は阿部仲麻呂を日本に帰国させる目的で派遣されたのではないか。
孝謙天皇(阿部内親王)と光明皇太后は父または愛しい男を迎える喜びをこめて①の歌を詠んだように思えてならない。
だとすると阿倍仲麻呂が唐にとどまって日本に帰ってこなかったのは、聖武天皇の妻である光明皇太后を孕ませてしまったためではないか、などと考えてしまう。
遣唐使派遣は体のいい流罪だったのではないかということである。
阿倍内親王が生まれたのは阿倍仲麻呂が唐へ旅立った翌年なので、時期的にもあう。
④孝謙上皇(淳仁天皇に譲位していた。)は藤原仲麻呂の新羅の討伐に反対したのはなぜ?
758年ごろ、孝謙上皇(淳仁天皇に譲位していた。)は藤原仲麻呂の新羅の討伐に反対し、これによって新羅討伐は実現しなかった。
孝謙上皇が新羅討伐に反対したのは、まだ帰国しない父・阿倍仲麻呂の身を案じたためではないだろうか。

春日大社 萬灯篭 春日大社の背後に三笠山はある。
717年 第9次遣唐使が派遣される。
阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉ら、三笠山の麓で航海の無事を祈って唐へ出発。
718年 阿倍内親王誕生(父/聖武天皇、母/光明皇后・・・ということになっている。)
735年 吉備真備・玄昉らは帰国。阿倍仲麻呂は唐で役人になって戻らず。
749年 阿倍内親王、即位して孝謙天皇となる。
752年 孝謙天皇(阿部内親王)は第12次遣唐使を派遣。「早く帰ってくるように」と歌を詠む。
光明皇太后も「神よ、遣唐使船をお守りください」と歌を詠む。
阿部仲麻呂、帰国にあたり三笠山に出る月を懐かしむ歌を詠む。
帰国する遣唐使船に乗船するが暴風雨にあって日本にもどれず。
758年 孝謙天皇、淳仁天皇に譲位。
孝謙上皇、藤原仲麻呂の新羅征伐に反対。実現せず。
770年 阿倍仲麻呂、ベトナムで死亡。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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