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天上から堕ちたビーナス②(三室戸寺)

みむろとじ はす


前回の記事・「天上から堕ちたビーナス① 」において、私は次のような話をした。

①三室戸寺は山号を明星山という。明星とは金星のことである。
②記紀神話には星の神は天津甕星(アマツミカボシ)しか登場しない。
③『天津甕星は葦原中国平定において、最後まで抵抗した荒々しく凄まじい神である』と記されている。
④③より星の神とは天皇と対立する人物=謀反人をあらわすものと考えられる。
⑤仏教では金星の神は虚空蔵菩薩、北極星の神は妙見菩薩で同じ星の神であるところから同一視されていると一般には説明されている。
⑥天津甕星は『のちに言う金星』であると記されている。
⑦『のちに言う金星』とあるのは、天津甕星は始めは金星ではなかった、ということで、もともとは北極星だったのではないか。
それゆえ、金星の神・虚空蔵菩薩と北極星の神・尿剣菩薩は同一視さえているのではないか。
⑧陰陽道の宇宙観では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とする。
⑨三室戸寺の欄間にかけてあった観音像の左右には太陽と月が刻まれて いる。
中央に刻まれている観音は星を神格化したものではないか。




三室戸寺は770年、光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建した寺で、次のような創建説話が伝えられている。

天智天皇の孫である白壁王(後の光仁天皇)は、右少弁・藤原犬養に毎夜輝いて見える金色の光の正体を確かめるように命じた。
犬養は光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着いた。
その滝壺の中に身の丈二丈ばかりの千手観音像があった。
犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じた。
その観音像を安置するために寺が創建され、当初は御室戸寺といった。
その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めた。


二丈の観音像は寛正年間(1460 - 1466年)の火災で焼失したが、この観音像の胎内に納められていた一尺二寸の二臂の観音像は無事だったそうで、現在ご本尊として祀られている。

このご本尊、腕は二臂なのだが千手観音とされている。
焼失した観音像が千手観音だったのだろうか?

さて、三室戸寺の山号は明星山というのであった。
明星とは金星のことである。
滝壷の中の観音が光の正体で、それは空から堕ちた明星(北極星=金星)だったとこの創建説話は伝えようとしているのではないだろうか。

もちろん、実際に明星(北極星=金星)が落ちたというわけではない。
金星を神格化した神・天津甕星は天照大神の葦原中國平定に最後まで抵抗した荒々しい神であり、天皇に対抗した人物=謀反人のことだと考えられる。
光仁天皇に対抗した人物=謀反人の霊を慰めるために、三室戸寺は創建されたということだろう。

また三室戸寺が創建された770年に光仁天皇は即位している。
三室戸寺の由緒では光仁天皇は即位する前の白壁王という名で登場している。
ということは、白壁王が即位することができたことと、その謀反人は関係が深い人物だと考えられる。

白壁王は天智天皇の孫、志貴皇子の子であったが、皇位継承には遠い場所にいた。
壬申の乱(672年)で大海人皇子(天智天皇の弟)と大友皇子(天智天皇の子)が皇位継承をめぐって争った結果、大海人皇子が勝利して天武天皇となった。
それ以降、天武系の人物が皇位を継承するという慣習が生じたようで、天武ののち持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳とずっと天武系の天皇が立っている。
そんな流れの中で天智系の光仁天皇が即位したというのは、まさしくウルトラCを決めた出来事だったといっていい。

光仁天皇が即位したのは、先代の称徳天皇(孝謙天皇・阿倍内親王)が急病を患って崩御したためだった。
この称徳天皇こそ、ビーナス=明星というにふさわしい。

称徳天皇は718年に聖武天皇と光明皇后(藤原氏出身で初めて人臣から皇后となった女性)の間に産まれた皇女であった。
同母弟に基王があり、基王は生後まもなく立太子したが、1歳になる前に夭逝した。
聖武天皇の皇子には安積親王があったが、安積親王の母親は県犬養広刀自で藤原氏ではなかった。
そのため、光明皇后を母親に持つ阿倍内親王(のちの孝謙天皇・称徳天皇)が立太子したと考えられている。
史上初の女性皇太子だった。
藤原仲麻呂の乱を平定したり、『今の天皇(淳仁天皇)は小事を行え。大事と賞罰は自分が行う』と宣言して重祚したり、なかなかの女傑だったようである。
道鏡との男女関係が疑われたときには、出家して尼となり、そういう関係にはないことをアピールしたりもしている。 

当時、未婚で皇位についた女帝は結婚が許されておらず、称徳天皇には子供がなかった。
そこで称徳天皇は次期天皇に道鏡を考えていた。

769年、宇佐八幡宮で『道鏡を天皇にせよ』と託宣があり、称徳天皇は事の真偽を確かめるために、和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣した。
清麻呂は『天の日継は必ず帝の氏を継が締めむ』と奏上し、称徳の怒りを買って大隅国へ配流された(宇佐八幡宮神託事件)。
しかし、道鏡は志貴皇子の子であるとする史料もあり、もしそれが事実なら、道鏡には皇位継承権はあったということになる。

翌770年、称徳天皇は急病を患って病床につき、数日のうちに崩御した。
通常は行われるはずの病気回復を願う祈祷が行われていないので、称徳天皇は暗殺されたのではないかという説もある。

また称徳天皇は病床から統帥権を道鏡の弟の弓削清人から左大臣藤原永手と吉備真備に移す詔を出しているのも妙である。
道鏡を次期天皇にしたいと考えている彼女がそのような詔を出すものだろうか。
宮中は吉備真備の軍勢がを取り囲み、出入りが禁じられていた。
また看病のため出入りが許されていたのは真備の娘の由利だけであった。
この詔は偽造されたものなのではないだろうか。

称徳天皇の死によって道鏡は失脚し、下野国へ左遷となって数年後に死亡し庶民として葬られた。
そして藤原永手や藤原百川の推挙を受けて白壁王が即位して光仁天皇となった。

創建説話の中に藤原犬飼なる人物が登場しているが、藤原氏の系図の中には藤原犬飼という人物の名前はない。
藤原犬飼という人物は架空の人物なのではないだろうか。

橘三千代という人物がいる。
橘美千代は文美努王と結婚して葛城王など3人の子をもうけた。
しかし美努王が大宰府に左遷されるとさっさと離婚し、不比等と再婚した。
藤原不比等と橘三千代との間には光明子が生まれた。
聖武天皇と光明子の間に生まれたのが称徳天皇である。
橘姓は708年に元明天皇より三千代に贈られた姓で、橘姓を授けられる前は県犬養三千代という名前だった。
藤原犬飼という名前はここからイメージされた名前で、橘三千代の孫にあたる称徳天皇のことを暗に指しているのではないだろうか。
創建説話では藤原犬飼は滝つぼに飛び込んだとあるが、これは犬飼=称徳天皇が身投げしたということだろう。
陰陽道では祟り神は神として祀ればご利益を与えてくださる和霊に転じると考える。
諡号に徳の字のつく天皇は不幸な死を迎えて怨霊になった天皇だといわれているが、称徳天皇も崩御後怨霊になったと怖れられ、その怨霊を祀るために創建されたのが三室戸寺なのではないだろうか。

そして称徳天皇という祟り神を神として祀り上げた結果和霊に転じたのが三室戸寺の千手観音ではないかと私は思う。

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