近江神宮 かるた祭
近江神宮では天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ=天智天皇)を祀っています。小倉百人一首1番
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ/天智天皇
(秋の田の仮小屋の屋根の苫(むしろ)が荒いので、私の衣のそでは梅雨に濡れてしまったことだ。)①「秋の田の・・・・・」は天智天皇が詠んだ歌ではなかった。 天智天皇は飛鳥時代の人物で、万葉集に4首の歌が残されている。
しかし「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は万葉集にはない。
この歌は958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されている。
万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられている。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして、撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられている。
近江神宮②天智天皇が農民の気持ちになってそのつらさを詠んだ?なぜ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は、天智天皇の心を表す歌であると考えられてたのだろうか?
一般には次のように考えられている。
心優しい天智天皇が、農民の気持ちになってそのつらさを読んだと考えるにふさわしい歌であるためだと。
③埋葬されないわが身を嘆く歌私の考えはこれとは違う。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」
後撰和歌集の撰者たちはこの歌を「死んだ天智天皇の霊が、埋葬されないわが身を嘆く歌」であると考えたのではないかと思うのだ。
672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
天智天皇の皇子・大友皇子と、天智天皇の同母弟・7大海人皇子が皇位をめぐって争ったのである。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。
④風葬の際にたてる庵(いおり)古事記に、大国主神が国譲りして、「八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠りましき」とある。
これは大国主神が風葬された様子を記したもので、古には柴を沢山立てた中に死体を葬る風葬の習慣があったと考えられている。
柴を立てた八十青柴垣はとまが粗いだろう。
万葉集に次のような歌がある。
荒磯面に いほりてみれば 波の音の 繁き浜辺を しきたえの 枕になして 荒床に 自伏す君が(柿本人麻呂)
(荒磯の上に仮小屋を作ってみると、波の音が頻繁に聞こえる浜辺を枕として荒々しい岩の床に伏している人がいる)荒床とは、風葬するときに死体の下に敷くむしろのことである。
「荒磯の上につくったいほり(仮小屋)」とは風葬するときに死体を安置する建物のことなのではないだろうか。
すると、「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」の中にでてくる、「とまが粗くて袖が濡れてしまう庵」もまた風葬の際につくられた仮小屋を表しているように思える。
天智天皇の時代、天皇は一定期間、殯宮に安置されるのが一般的だった。
でも壬申の乱がおこったために、天智天皇には殯宮さえ作られなかったのかもしれない。
石清水八幡宮 青山祭 風葬のようすをあらわしたものであるともいわれている。②天智天皇は謀反人の父親その後、壬申の乱では天智天皇の弟の天武天皇が勝利し、天智天皇の皇子・大友皇子は自害した。
つまり大友皇子は謀反人なのである。
そして天智天皇は謀反人・大友皇子の父親である。
③天智天皇は謀反人の父親なので埋葬が許されなかった?中国では滅んだ王朝の王の墓は暴かれたという。
百田尚樹さんは「日本では墓を暴いたりはしていない、中国人は野蛮だ」とおっしゃっていた。
しかし私は日本でも墓を暴くようなことをしていたと思う。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、当時すでになくなって1か月が経過していたにも関わらず、死体が流罪にされているのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81#経歴上記ウィキペディアによると「(大伴家持は)埋葬が許されず」と書いてあるが、いくつかの本では「家持は死体が墓から掘り出された」と書いてあった。
天智天皇も謀反人の父ということで、埋葬が許されなかった可能性がある。
④「案山子=崩え彦=山田のそほど」に重なる天智天皇のイメージ秋の田には米を鳥害から守るために案山子が置かれる。
記紀神話に登場する久延毘古(くえびこ)という神様は案山子の神だとされる。
古事記では「久延毘古とは"山田のそほど"のことである」と記されている。
「そほど」とは「ぐっしょり濡れる」という意味である。
秋の田のかりほの庵で動くことができず(案山子は歩くことができない)、雨にぐっしょり濡れているのは案山子である。
万葉集にある「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という歌は、案山子を詠んだ歌であるのかもしれない。
「クエビコ」は「崩え彦」で、体が崩れた男という意味である。
体が崩れているのは、死んで体が腐っているからではないか?
そういえばやいかがしといって、節分の夜、鰯の頭などを焼いて戸口に刺しておく風習がある。
その生臭い臭いで疫神を追い払うことができるという信仰によるものである。
やいかがしとかかしは似ている。
案山子の語源は「嗅がし」ではないかとする説がある。
かつて鳥獣よけになるとして、獣の肉を焼いたものを串刺しにして立てておくとことがあったそうで、そういうものも「カカシ」と呼ばれていたのだという。
天智天皇は何年も埋葬されず死体が放置されていた可能性が高い。
天智天皇の死体は腐り、うじがたかるような状態になっていたかもしれない。
それはまさしく『崩え彦』そのものである。
つまり
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」
この歌の「かりほの庵」とは風葬するときに死体を安置する粗末な建物であり、あまりに粗末であるため雨漏りがして死体がぐっしょりと濡れてしまい、「崩え彦」のような状態になっている。
それを死んだ天智天皇の霊が嘆いている歌であると後撰集の撰者たちは考えたのではないだろうか。
⑤埋葬のされ方を嘆く父娘前回、私は持統天皇の『春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山』は『火葬されたわが身を嘆く歌ではないか、と述べた。
私流 トンデモ百人一首 2番 春すぎて 夏きにけらし 白妙の 『火葬されたわが身を嘆く歌』 持統天皇(小倉百人一首2番)は天智天皇(小倉百人一首1番)の皇女である。
つまり、天智天皇が父親で、持統天皇が娘なのである。
この親子関係のある二人が、ともに死を嘆く歌を詠んでいるというのも興味深い。
毎度とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました。
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