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仁徳天皇陵発掘。竹田恒泰さんの意見に反論させていただきます。 ②



①「うちの墓掘るな!」竹田恒泰さんの主張のまとめ

竹田恒泰さんの発言をまとめます。

a.仁徳天皇陵の堤三か所にトレンチ(切り込み)を掘って調査する計画がある。
b.考古学の中でも左派(左翼)は陵を掘らせろといっている。
c.宮内庁は部外者による立入・調査を皇室の祖先の墓であり、静安と尊厳が必要として制限してきた。(新聞記事より引用)
d.宮内庁は現王朝の墓なので、発掘調査を認めたことがない。
e.滅びた墓は祭祀が行われていないので発掘調査してもいいが、天皇陵は現王朝の墓で祭祀が行われている。
f.うちの墓掘るな。
g.発掘調査の結果、被葬者が特定されたのは全国で数件しかない。誰の墓かなんてどうでもいい。
h.仁徳天皇の時代には文字がないのでわからない。


このうち、 は間違いの可能性があるとして、前回の記事に書きました。
仁徳天皇陵発掘。竹田恒泰さんの意見に反論させていただきます。 

e.滅びた墓は祭祀が行われていないので発掘調査してもいいが、天皇陵は現王朝の墓で祭祀が行われている。
はまちがいとはいえないですが、かなり納得のいかない点があるので、追加で書かせていただきます。

NintokuTomb

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANintokuTomb.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/NintokuTomb.jpg よりお借りしました。
Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省 [Attribution], ウィキメディア・コモンズ経由で

②古代の天皇陵の管理が差別意識を生んだ?

飛鳥時代後期より平安時代の桓武天皇代ごろまでの日本では律令制をとっていました。
その律令制では陵墓は国家の管理と定められていました。

天皇・皇族の陵墓の守衛を陵戸(りょうこ)といい、世襲で陵墓の管理をしていました。
大宝令制(701年)では陵戸はは賤民でなかったとされますが、養老令制(757年)では戸令で5種の賤民の一つとされました。

賤民とは「身分の低い民」のことです。
陵戸は良民と同額の口分田(唐の制度をまねたもので民衆に一律に支給された農地)を支給され、課役を免除されていましたが
良民との結婚などは認められていなかったとされます。

日本では「死は穢れたもの」とする考え方があったため、陵の管理をする陵戸は賤民とされたのでしょう。
この陵戸が形成した部落が明治まで存続していたケースもあったということです。

日本の階級制が外国の階級制と比較してどうだったかについては、勉強不足ゆえ、私にはわかりません。
ですが、5種の賤民、陵戸などの身分制度があったことは確かであり、差別意識を生む原因のひとつであったとは考えられるのではないでしょうか。

こういうことをいうと、短絡的に「反日」と決めつける人がいますが、歴史という学問に反日かどうかは関係ありません。
反日などの思想を捨てて史実を見るのが科学的態度だと思います。

また階級制は、ある程度文明が進んだ段階において必然的に生まれるものであるように思えます。
世界的に見ても、階級制のない社会のほうが珍しいと思います。
ですから日本に階級制があったからといって、日本はよくない国だというようなことにはならないはずです。

反正天皇陵 
堺市役所21階展望ロビーより反正天皇陵をのぞむ。

③寺院への天皇陵管理委託で多くの陵の所在が不明に。

醍醐天皇(885-930)陵の管理が醍醐寺に委任されて以降、いくつかの陵墓管理は国家管理から寺院管理へと移っていきました。




寺院が廃れたり、消滅したりすることで、不明になった陵も多いということです。

法住寺に委託された後白河天皇陵、如意輪寺に委託された後醍醐天皇陵などは近世まで管理されてきましたが、このような例は珍しいそうです。

如意輪寺 桜

如意輪寺 境内に後醍醐天皇陵がある。

後白河天皇陵 桜紅葉 
後白河天皇陵

中世以後、天皇家の力が衰えると多くの陵墓は荒れ、周濠がため池として用いられたり、伝安閑陵古墳は戦国大名の城に改造されています。

Takayaj3

高屋城 本丸跡(高屋築山古墳を流用)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Takayaj3.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/Takayaj3.jpg より引用
作者 投稿者が撮影 (ブレイズマン (talk) 08:56, 24 June 2008 (UTC)) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


④元禄の修陵・文久の修陵

江戸幕府が1697年~1699年に修陵を行っており、これを「元禄の修陵」といいます。
このころ、天皇陵の大半はその所在地がわからなくなっていました。
そのため、史料は参考にはしたものの、結構適当に治定したようです。。
また陵墓や周濠が私有地化・耕作地となっていたため、土地を強制的に買いあげたりもしています。

その後、江戸幕府は1862年~「文久の修陵」で、109か所の陵が修陵され、1867年には「文久山陵図」が完成して朝廷と幕府に献上されています。

現在、われわれが天皇陵と呼んでいるのは、主に江戸時代に探索・治定されたものであり
 現在の歴史学的・考古学的知見に基づき同意できるものは、奈良時代以前のものでは、天智天皇陵、天武・持統天皇合同陵程度しかないと言われています。

前回も言ったように、竹田恒泰さんは「うちの墓掘るな」といいますが、そもそも「うちの墓」かどうかわからないんですね。

⑤荒れた天皇陵で祭祀が行われていたのか?

注意したいのは、江戸時代、多くの天皇陵(特に古代の天皇陵)はその所在が不明となり、耕作地となったり、他人が所有する土地となっていたり、ひどいケースではその上に城がたてられていたりしていたという事実です。

現在の法律では、土地の長期放置は「みなし放棄」として、所有権が認められません。
江戸幕府が天皇陵比定地を買い取ったのも、当時においてもそれが天皇家の所有地であると認められなかったためでしょう。

こういった荒れた天皇陵や、民間人の所有地となっていた天皇陵で祭祀が行われていたとは思えません。

各天皇陵において現在祭祀が行われているとしても、それは「元禄の修陵」「文久の修陵」以降のことであり、祭祀が行われていなかった期間が長かったのではないか、とおもえるのです。

ナガレ山古墳

造営当時の姿に復元されたナガレ山古墳。
造営当時の古墳の多くはこのナガレ山古墳のように、葺石で覆われていたものと考えられている。
現在、多くの古墳は草木が生い茂って岡のようになっているが、それは長年管理せず、放置してきたということではないのだろうか?


長年放置しておいて、最近になってようやく管理しはじめ、「現在も祭祀している」といわれても、騙されている感が強いです。
「あなたの先祖の土地じゃないかもしれないから調査させてくれ」といわれたので、あわてて祭祀をはじめたようにも見えなくないです。

「現在も祭祀している」は正しいかもしれないが、それは「長年にわたって祭祀を続けていた」ということではないのです。
「最近になって祭祀するようになった」というのが正しいのではないかと思います。

⑥天皇以前に物部王朝が存在していた?

私が宮内庁管轄地である天皇陵などの古墳発掘するべき、と考えるのは、記紀などを読むと、どうも天皇家は万世一系ではないように思えるからです。

記紀によれば、神武天皇が東征して畿内入りするより早く、ニギハヤヒという神が天の磐船に乗って天下っっていたとあります。
ニギハヤヒが天下ったとされる場所には現在、磐船神社(大阪府交野市)があります。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 拝殿より直接御神体の天の磐船を拝します。 

そしてニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があるのです。

そして籠神社で発見された系図によれば、
始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』、『またの名を神大市姫命』、『日神ともいう』と記されています。
この『日女命』に漢字をあてたのが邪馬台国の女王・卑弥呼ではないかとする説があります。

ひめのみこと→ひみこ

これは確かにありえそうです。

籠神社

籠神社

そして倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊天皇の皇女とされており、桜井市にある箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命(日女命)の墓に比定されています。
魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓とも大きさが合致するので卑弥呼の墓ではないかともいわれています。
ですが宮内庁管轄地ですので、発掘調査ができません。

そして『先代旧事本紀』では倭迹迹日百襲姫命(日女命)の先祖・彦火明命はニギハヤヒと同一神だと記されているのです。
この系図が出て来た籠神社の社家・海部氏も物部氏です。

これらの史料を読む限り、倭迹迹日百襲姫命やその父親の第7代孝霊天皇は物部王朝の王のように思えます。

すると天皇家が万世一系というのは、長い間日本人が勘違いしていたということになります。
このあたりの真実を、私はどうしても知りたいと思います。

日本人の中には天皇家が万世一系であることをもって日本は最古の王朝だといい、それを重んじる人がいます。
しかし、日本の価値は勤勉な国民性、島国ならではのユニークな文化、各種産業、四季のある美しい自然の中で育まれた感受性などであって、万世一系など大して自慢にもならないと私は思います。
仮に万世一系でなかったとして、対外的にも、大きな影響はないと思います。

それよりも、そういう疑いがあるのであれば、積極的に調査をして事実を解明するべきだと思います。

箸墓古墳 桜 
箸墓古墳


⑦後漢書・梁書・日本書紀にも登場する邪馬台国

竹田恒泰さんは著書「日本人はなせ日本のことを知らないのか」の中で、次のように記しておられます。

あ. 倭人伝の記述はまちがいが多い。
い.中国側の史料にも倭人伝にしか記載がない。
う.日本側の史料には一切確認ができない。
え.中国側の史料に邪馬台国の記述があることを確認しておく程度でよい。

「あ.  倭人伝の記述はまちがいが多い。」について。
邪馬台国はまだ研究段階なので、まちがいが多いとはいいきれません。
ただ、魏志倭人伝の南宋の本に邪馬壹国とあるのは邪馬台国のまちがいだとは思います。(魏志倭人伝の原本は存在していません。)

「い.中国側の史料にも倭人伝(魏志倭人伝)にしか記載がない。」について。
3世紀に記された『三国志(魏志倭人伝)』のほか、5世紀に記された後漢書倭伝、7世紀に記された梁書倭伝、7世紀の髄書、唐代の北史四夷伝にも記載があります。
「3世紀に記された書物の中に記述がない」という意味かもしれませんが、それならそう記述するべきでしょう。

「う.日本側の史料には一切確認ができない。」について。

日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があります。

39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」
40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」
43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」

http://fushigi-chikara.jp/sonota/6883/ より引用(ありがとうございます!)

我々の先祖は魏志倭人伝を読んでおり、魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは神功皇后のことであると考えていたのです。
ですから、日本側の史料には一切確認ができない、とも言いきれないと思います。

また、邪馬台国、卑弥呼などの言葉は日本語の発音に漢字をあてたものと考えられるので、邪馬台国・卑弥呼という言葉が日本側の史料に出てこないのは当然だと考えられます。
第10代崇神天皇の叔母・倭迹迹日百襲姫命=日女命が卑弥呼、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命が卑弥呼の宗女の台与だとする説が有力です。
崇神天皇陵 夕日 『卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、男弟は大物主、狗奴国の男王は崇神天皇?』 

崇神天皇陵

崇神天皇陵

もちろん、私の考えが妄想である可能性もあります。
なので妄想であれば妄想であると確信できる事実がほしいと思います。
それは天皇陵発掘調査しかありません。

天皇陵発掘調査は墓を暴くこととは異なります。
被葬者も、後世の人々に事実を正しく知ってほしいと考えているかもしれません。
また、被葬者に対して十分な敬意をはらって発掘調査を行っていると思うので、不敬にもあたらないかと思います。
発掘調査=不敬、というのはあまりに短絡的な考え方のように思えます。

竹田恒泰さんは、古代史や考古学にあまり興味がないのでしょうね。
古代史の事実よりも、天皇家の権威を守るほうが大切である、とお考えになっておられるように思えます。

石舞台古墳 小焼け

蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳。盛り土が失われて石室がむき出しになっています。
蘇我馬子の孫の入鹿は中大兄皇子によって滅ぼされています。
梅原猛さんは、石舞台古墳は謀反人・蘇我入鹿の先祖の墓なので、暴かれたのではないか、とおしゃっていました。
石舞台古墳が暴かれた墓だとすれば、それは誰によって暴かれたのでしょうか。
発掘調査は被葬者に敬意を払って行っていると思います。墓を暴くこととは全く異なります。




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