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不死王伝説① (久安寺) 

久安寺 
久安寺 つつじ

久安寺・・・大阪府池田市伏尾町697

久安寺には次のような伝説が伝わっている。

「平安時代、鳥羽天皇の御世、賢実上人が久安寺において皇后の安産祈願を行い、その結果、皇后は懐妊して近衛天皇をお産みになられた。
そのためこの地は不死王村と呼ばれるようになり、不死王村が転じて伏尾になった。」

この伝説に登場する近衛天皇は17歳で崩御されている。
それなのに、なぜ不死王村なのか?

平家物語に近衛天皇が鵺に怯えたという話が記されている。

「近衛天皇が毎晩何かに怯えるようになり、源頼政が警護にあたった。
深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、艮(うしとら)の方角(=北東の方角)よりもくもくと黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という鵺と呼ばれる怪物が現れた。
頼政は弓で鵺を射、郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留めた。
その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流した。」

私は鵺とは近衛の異母兄・崇徳の生霊ではないかと思う。
というのは、近衛の崩御は、前帝・崇徳が呪詛したためだという噂が流布していたためである。
崇徳の呪詛を妖怪の形にしたものが鵺である、といってもいいかもしれない。

崇徳と近衛はともに鳥羽天皇の皇子とされている。
しかし『古事談』には、崇徳の本当の父親は鳥羽ではなく鳥羽の祖父・白河であると記されている。
白河は養女としていた藤原璋子を鳥羽に与えたのだが、このとき璋子は白河の子である崇徳を身籠っていたというのである。
鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで嫌っていたという。
「叔父子」とは、叔父にして子、という意味である。

崇徳は1123年に4歳で即位したが、1141年、鳥羽に退位を迫られて異母弟の近衛に譲位した。
近衛は崇徳の養子として即位するはずだったのだが、譲位の宣命には「皇太弟」となっていた。
近衛が皇太弟であると崇徳は院政が行うことができない。
崇徳が近衛を呪詛したというのが本当なのかどうかはわからないが、崇徳が不満をつのらせていたことは確かだろう。

近衛が崩御したのち、崇徳の第一皇子・重仁親王が次期天皇として有力視されていたが、崇徳を嫌う鳥羽は後白河(崇徳の同母弟)を天皇とした。
1156年、崇徳は保元の乱を起こして後白河と争った。
後白河側が勝利して、崇徳は讃岐へ流罪となった。
崇徳が流刑地の讃岐で没したあと、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ヶ谷の陰謀などがおこった。
また建春門院・高松院・六条院・九条院らが相次いで死去し、これらは崇徳の怨霊の仕業であると考えられた。

鵺伝説に戻ろう。
この伝説の中で鵺を太刀でしとめた郎党の名前が猪早太とあるところに注目してほしい。

古代、九州に住んでいた民のことを隼人といった。
奈良時代、隼人たちは畿内に強制移住させられ、宮廷の警備の仕事をさせられていた。
隼人たちは犬の鳴き声をまねて警護を行っていたという。
ここから、早は隼人=犬=干支の戌、また猪は干支の亥を表し、猪早太とは干支の戌亥(いぬい/乾)を表すとする説がある。

乾は八卦では天、健、父、首などを表す。(参照→
 ←こちらのサイトでは「陽気が充実した全陽の塊が乾です。」と説明がある。

一方鵺は頭が猿とあるが、これは干支の申または羊申(ひつじさる/坤)を意味しているのかもしれない。
坤は八卦では地、順、母、原などを表す。(参照→
 ←こちらのサイトでは「全陰の相をもつ坤は、全陽の相をもつ乾とは正反対です。」と説明されている。

陰陽道では陰が極まると陽に転じると考えるそうだ。

またウィキペディアの「祟り神」の項目には次のように記されている。
「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。」
 より引用

この「荒御霊は手厚く祀ると守護神になる」とする考え方は陰陽道の「陰が極まると陽に転じる」という考え方からくるものだろう。

ということは、猪早太(戌亥=乾)とは、鵺(未申=坤)が陽に転じたものなのではないだろうか。
鵺=崇徳の生霊と考えれば、崇徳の陰の気が、陽に転じたものが猪早太だということになる。

そして、池田を舞台にした落語に「池田の猪買い」がある。

「冷え気(淋病のこと)に悩む男が『冷え気には猪(しし)肉が効く』と聞き、池田の狩人の元を訪ね、『新しい肉が欲しいので射ちに行ってほしい』と頼んだ。
狩人は男を連れて山にいき、猪を討った。
男は狩人が打った猪を『あの猪は新しいか』とお聞いた。
狩人が猪を鉄砲の台尻でたたくと、猪は鉄砲の音で目を廻していただけだったので、目を覚まして逃げていった。
その様を見て狩人は『どうじゃ。あの通り新しい。』と言った 。」

私は池田には猪に対する信仰があったのではないかと考える。
猪とは、崇徳(鵺=未申=坤)の陰の気が、陽に転じた猪早太(戌亥=乾)に対する信仰である。
このような信仰があったところから、「池田の猪買い」という落語が作られたのではないかと思う。
ただし、実際に池田にそのような信仰があったかどうかは未確認である。 (汗~)

つづきはこちら→ 不死王伝説② (久安寺)


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[2014/05/13 15:40] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)