白山神社(白山神社の記事はこちら→「
乱れた糸を括る女神(白山神社)」 を参拝したのち、坂道を下りて岩船寺の山門をくぐった。
さっきまで止んでいた雨がまたしとしとと降り出してきた。
しかし雨は岩船寺の紫陽花の花にとてもよく似合う。
境内の奥にたつ三重の塔を見て、私は驚いた。
以前に参拝したときには塗装が剥げて茶色い木肌があらわになっていたのに、鮮やかな朱塗りの塔に変わっていたからだ。
どうやら修復工事をしたらしい。
塔の横手にある山道から三重塔を見ると、小さな天邪鬼が屋根を支えているのが見えた。
この天邪鬼はガイドブックなどに「ユーモラスな姿をした・・・」と書かれることが多い。
しかし小さな背中で何百年も大きな屋根を支え続けてきたのだと思うと、私は天邪鬼が可哀相に思えた。
三重塔を参拝したのち本堂を参拝した。
行基の作とも伝わる阿弥陀如来像、普賢菩薩騎象像などすばらしいみほとけが並んでいたが、最も私の目をひいたのはガラスケースの中に入った小さな天邪鬼だった。
私はお坊様に聞いてみた。
「あのう、この天邪鬼は三重塔についていたものなのですか?」
「そうです。重要文化財ですよ。」
もう少し詳しく説明をお聞きしたいと思ったのだが、来客があってお坊様は出て行ってしまわれた。
最近、三重塔を修理したようだが、昭和18年にも解体修理が行われている。
この天邪鬼は昭和18年の解体修理の際に外されたものなのかもしれない。
このガラスケースの中の天邪鬼は、三重塔についていたものと表情がまるで違っていた。
目と口の部分は穴が開けられていて、まるでしゃれこうべのようだった。
ムンクの『叫び』に描かれた人物のようでもある。
天邪鬼は悲痛の叫びをあげているように見えた。
岩船寺は729年、聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝わっているが、この年『長屋王の変』が起こっている。
漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)が『長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。』と朝廷に密告した。
これを受けて藤原宇合の軍が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王によって糾問が行われた結果、長屋王は自殺に追い込まれた。
聖武天皇の皇子の安積親王の母親は県犬養広刀自で、藤原氏ではなかった。
このため、長屋王の子・膳夫王が皇位継承の最有力者とされていたのを、藤原氏が廃そうと企てたのが事件の真相であると考えられている。
長屋王の没後、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、藤原四子政権を樹立した。
ところが、737年、四兄弟は天然痘にかかって相次いで死亡し、長屋王の怨霊の祟りであると噂された。
738年、中臣宮処東人が囲碁をしているときにうっかり大伴子虫に変の真相を話し、長屋王の信頼を得ていた大伴子虫が中臣宮処東人を斬殺するという事件が起こった。
しかしなぜか、大伴子虫は罪に問われていない。
中臣宮処東人の方に非があると考えられたためだろう。
岩船寺は聖武天皇の勅願によって建てられたというが、そのバックに藤原氏があったことは間違いない。
岩船寺は長屋王の鎮魂のために建立された寺なのではないだろうか。
三重塔の屋根を支えていた悲痛の叫びをあげる天邪鬼は長屋王の怨霊が暴れないようにするための呪術的な仕掛けなのかもしれない。
岩船寺・・・京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43 ※6月11日、拍手ボタンを押してくださった方、ありがとうございました。
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[ 2014/06/12 ]
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