陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? よりつづきます~
※北山十八間戸に霊山寺(奈良市中町3879)境内の文殊菩薩像を合成。陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? よりつづきます~
①非人とハンセン病患者なだらかな登り坂が続く奈良坂。
呼吸の乱れを整えるために立ち止まり、振り返ると坂の下に興福寺の五重塔が見えていた。
大きく深呼吸をしてから再び歩き始める。
しばらくすると柵で囲われた細長い長屋が見えてきた。
長屋の裏に回ってみると18個の裏戸があり、そのひとつひとつに「北山十八間戸」と文字が刻まれていた。
柵の中に入って見学したいと思ったが、出入口には鍵がかけられていた。
見学することはできないのだろうか?
思い切って長屋の隣にあるお好み焼き屋さんに尋ねてみた。
「あのう、北山十八間戸を見学したいんですが、どうしたらいいんでしょうか?」
するとおかみさんが
「はいはい、今鍵をあけますね。ちょっと待っててくださいね」
と言い、ぽんと好み焼きをひっくり返した。
どうやらこのお好み焼き屋さんが北山十八間戸を管理されているようである。
おかみさんはすぐに出てきて柵の鍵をあけてくださった。
そして次のように説明していただいた。
「ここは鎌倉時代、ハンセン病患者を救済するための福祉施設だったところです。
奈良時代に光明皇后が建てたとも、鎌倉時代に僧の忍性さんによって建てられましたともいわれています。
ここからもうちょっと北に行ったところに般若寺さんがあるんですが、もともとはその般若寺さんの北東にあったそうです。
1567年に戦災で焼けまして、1660年から1670年ごろにここに移りました。
2畳くらいの部屋が17つ、4畳くらいの部屋がひとつで、合計18つの部屋があります。
4畳くらいの部屋は仏間です。
1万8千人のハンセン病患者が利用したと言われてるんですよ。」
北山十八間戸がいつ誰によって建てられたものなのかについては、おかみさんが説明してくださったように2つの説があってはっきりしない。
しかし、なぜ奈良坂にハンセン病患者のための療養施設が作られたのかについてははっきりしている。
それは奈良坂が非人が住む町であったためである。
非人というと江戸時代に制定された身分制度を思い出すが、関西では中世より非人と呼ばれる人々がおり、多くは坂の町に住んでいた。
非人たちは寺社に隷属し、寺社の清掃、祭りの警備、死体の処理、神事などに携わっていた。
ここ奈良坂の非人たちは興福寺に隷属する民だった。
非人たちは非人宿(夙)に住み、病人の看護にも携わっていた。
奈良坂に北山十八間戸が作られたのは、ここに非人宿があったからだろう。
または北山十八間戸が先にあって、病人を看護するために非人宿が作られたのかもしれない。
いずれにせよ、北山十八間戸と非人に密接な関係があったことは事実である。

荒池より興福寺を望む②ハンセン病患者は文殊菩薩の化身北山十八間戸からさらに奈良坂を上っていくと般若寺がある。
境内にはコスモスが咲き乱れ、その中にうずもれるようにして本堂があった。
本堂の厨子の中には、少年のような表情をした獅子にのる文殊菩薩像が安置されていた。
般若寺は629年高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建された。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したといわれる。文殊菩薩の巨像を御本尊としていたが1490年に焼失した。
現在の文殊菩薩像は1324年に慶派仏師・康俊が刻んだもので、もともとは経像の本尊で秘仏だった。
本堂の御本尊が焼けてしまったのでかわりに本尊にしたという。
文殊菩薩は『智慧の菩薩』と言われている。
仏教の修行の結果として得られたさとりの智慧のことを般若という。
般若寺という寺名は文殊菩薩を祀っているところからくるのだろう。
能に用いる般若の面は『嫉妬や恨みの篭る女の顔』を表したもので、角が生えた恐ろしい形相をしている。
なので、鬼のことを般若というのだとずっと思っていたが、それは間違いだったのである。
般若坊という僧侶が面を作ったので般若面と呼ばれるのだとか、
『源氏物語』の葵の上が六条御息所の生霊にとりつかれた時、般若経を読んで怨霊を退治したところからそう呼ばれるようになったなどと言われている。
さきほど見学してきた北山十八間戸は、ハンセン病患者を救済するための福祉施設であったが、ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていた。
宿の町・奈良坂にある般若寺の御本尊が文殊菩薩なのはこのためだろう。
般若寺はハンセン病患者の霊を弔うための寺なのだろうか。
いや、無名のハンセン病患者の霊を弔う寺だとは考えられない。
735年聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てたということは、それなりの身分で、ハンセン病を患った人がおり、その人物を弔うための寺であったのではないだろうか。
聖武天皇と同時代で、それなりの身分でハンセン病を患った人物がいる。
春日王だ。
③能・翁般若寺前の植村牧場さんでソフトクリームを買う。
植村牧場さんのソフトクリームはミルクの味が濃くてとてもおいしいので、般若寺にくるたび食べるのを楽しみにしている。
私はソフトクリームを食べながらさらに坂を上って奈良豆比古神社へとむかった。
この日は10月8日、奈良豆比古神社で伝統行事の翁舞の奉納がある日だった。
日が暮れると舞殿前の篝火に火が入れられ、翁舞が始まった。
奈良豆比古神社は古来芸能の神として信仰が厚く、歴代の能楽師も数多く参拝したという。
一説によれば、奈良豆比古神社の翁舞は能・翁のルーツでもあるという。
私は舞殿に燃やされた篝火を見つめながら、八坂神社の能・翁を見にいったことを思い出していた。
陰陽 黒と白 ⑭ 能・翁 黒式尉の黒という漢字を分解すると? 私は能・翁を見て、次のように考えたのだった。
a.陰陽道の陽は白、陰は黒で表される。白式尉は陽(白)の神・黒式尉は陰(黒)の神である。
b.六歌仙(遍照・在原業平・小野小町・文屋康秀・大友黒主・喜撰法師)の小野小町は白い神(陽)、大伴黒主は黒い神(陰)である。
c.小野小町が白い神である理由。
小野小町は在原業平に「九十九髪」と歌を詠まれている。→百引く一は白 ∴九十九髪=白髪
小野小町=小野宮=惟喬親王ではないかと思う。
惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられたという伝説があるが、即身仏になるべく入定する際に漆を飲んだ。
惟喬親王は漆を飲んで即身仏となったため、このような伝説ができたのではないか。
また古の人は腐らない体を生きていると考えたのではないか。生は陰陽道では陽(白)である。
d.大友黒主が黒い神である理由。名前に黒の文字がある。
大友黒主=大伴家持ではないかと思う。なぜかというとほとんど同じといってよい歌を詠んでいるからだ。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死んでいたのだが死体が掘り出されて流罪となった。
その体は腐っていたことだろう。古の人は腐った死体を生きていない(死)と考えたのではないか。死は陰陽道では陰(黒)である。
e.黒という字を分解すると、田+土+、、、、である。、、、、は種まきのように見えなくもない。それで翁の黒式尉は種まきの所作をするのではないか。
また祇園祭黒主山の黒は下の写真のような字が用いられている。

これを分解すると田+夫「
田夫」となるが、古今集真名は大友黒主(=大伴家持)にたいして、「
田夫の 花の前に息めるがごとし」といっている。

④奈良豆比古神社 翁舞篝火がたかれる中、小鼓の音と「いーやー、あいやー、おんはー」という掛け声が続く。
少年が扮する千歳が舞を舞ったのち、三人の大夫が舞台上で翁の面をつけた。
なんと、奈良豆比古神社の翁舞の白式尉は一人ではなく三人なのである。



三人翁が退出したのち、三番叟が登場した。
三番叟は舞を舞ったのち、舞台上で黒い翁の面をつけ、鈴を持ってさらに舞った。

千歳・三人翁の舞はゆったりしたスローテンポの舞だが、三番叟の舞は激しい。
田植えをする所作のようにも見えた。

⑤二つの伝説
奈良豆比古神社でもらったパンフレットには次のような内容が記されていた。
天智天皇の孫、志貴皇子の第二皇子の春日王がハンセン病を患ってここ奈良坂の庵で療養した。
春日王の二人の子・浄人王と安貴王という二人の子供があって、この兄弟が熱心に春日王の看病した。
兄の浄人王は春日大社で神楽を舞って父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
浄人王は弓をつくり、安貴王は草花を摘み、これらを市場で売って生計をたてた。
都の人々は兄弟のことを夙冠者黒人と呼んだ。
桓武天皇は兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に『弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)』の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。後日、図書館で『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』という雑誌を借りて読んだ。
その中に奈良豆比古神社の翁舞についての記事があり、地元の語り部・松岡嘉平さんが次のような語りを伝承していると書いてあった。
志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
それで神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子は毎日神に祈った。するとぽろりと面がとれた。
その瞬間、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面であった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。
奈良豆比古神社でもらったパンフレットにはハンセン病になったのは春日王だと書いてあったが、ハンセン病になったのは志貴皇子だとする伝承も伝わっているのだ。
⑥志貴皇子=春日王?志貴皇子は光仁天皇によって「春日宮御宇天皇」と追尊されている。
志貴皇子の陵は高円山にあり、田原西陵と呼ばれているので田原天皇ともいわれている。
そして春日王は田原太子とも呼ばれていた。
つまり、春日王と志貴皇子は同じ名前を持っているということになるが、皇族で親と子が同じ名前というケースはないと思う。
志貴皇子と春日王は同一人物なのではないか。
神が子を産むとは神が分霊を産むという意味だとする説がある。
とすれば、志貴皇子の子の春日王とは志貴皇子という神の分霊であるとも考えられる。
春日王が志貴皇子のことであるとすれば、春日王の子の浄人王・安貴王は志貴皇子の子だということになる。
高円山⑥弓削浄人は道鏡の弟桓武天皇は浄人王と安貴王に弓削という姓を与えたが、弓削浄人とは道鏡の弟の名前である。
道鏡の俗名はわかっていないが、弓削安貴という名前ではなかっただろうか。
さらに『僧綱補任』『本朝皇胤紹運録』などでは、道鏡は志貴皇子の子であるとしているのだ。
道鏡は称徳女帝が次期天皇にしたいと考えていた人物である。
そして、道鏡の父親は志貴皇子の子であるとする史料もある。
称徳天皇は独身で即位した女帝だったため結婚が許されなかったものと考えられる。
(独身で即位した女性天皇が結婚した例はない)
そのため、称徳天皇は志貴皇子の子である道鏡を次期天皇にしたいと考えたのではないだろうか。
ところが和気清麻呂が宇佐八幡宮での信託として「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」と称徳天皇に奏上した。
これは「道鏡を皇位につけてはいけない」という意味で、これに称徳天皇はかんかんになって怒り、和気清麻呂を別部穢麻呂と改名させて流罪にした。
道鏡が志貴皇子の子であったとすれば、称徳天皇がかんかんになって怒った理由が理解できる。
「道鏡は志貴皇子の子で、皇緒である。和気清麻呂の嘘つき!なにが清麻呂だ、おまえなんか穢麻呂で十分だ!大和から出ていけ!二度と顔を見せるな!」
ところが、称徳女帝は急死。(暗殺説あり)道鏡は失脚して下野に左遷となり、数年後に死亡して庶人として葬られた。
道鏡に子孫はいなかったはずである。
道鏡は僧侶であり、当時は鑑真が日本にやってきて戒律を伝えたばかりだったからである。
(戒律では僧の性交は禁止されていた。)
しかし道鏡の兄・弓削浄人には子孫がいただろう。
奈良坂の夙に住む非人たちは弓削浄人の子孫なのかもしれない。
護王神社絵巻に描かれた道鏡⑦3対1で構成される神々それはともかく、なぜ奈良豆比古神社の翁舞は三人翁なのか?
私は以前、次のような表を作成した。
陰陽 黒と白⑨ 白鳥は生霊、黒鳥(八咫烏)は死霊? 生国魂神社 | 住吉大社 | 住吉大社 | 霊 | 鳥 | 陰陽 |
生島大神 | 第四本宮 | 神功皇后(仲哀天皇皇后)・・・息長帯比売命/気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)? 息は生と同音
| 生霊 | 白鳥 | 陽 |
足島大神 | 第一本宮/底筒男命 第二本宮/中筒男命 第三本宮/表筒男命 | 12代景行天皇・・・・・・・・・大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)? 13代成務天皇・・・・・・・・・稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)? 14代仲哀天皇・・・・・・・・・足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)?
| 死霊 | 黒鳥 (八咫烏) | 陰 |
住吉大社の男神は、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱であり、三柱の神々の象徴が八咫烏(黒鳥)であり、死霊であると考えられる。
そして住吉大社の女神は、神功皇后一柱であり、その象徴が白鳥であり、生霊であると考えられる。
翁舞の白式尉は生霊、黒式尉は死霊と考えられ、翁舞のケースでは生霊が三柱、死霊が一柱で、住吉大社とは神の数が逆になっているようである。
生国魂神社 | 住吉大社 | 奈良豆比古神社 | 霊 | 鳥 | 陰陽 |
生島大神 | 第四本宮 | 白式尉(三人翁)
| 生霊 | 白鳥 | 陽 |
足島大神 | 第一本宮/底筒男命 第二本宮/中筒男命 第三本宮/表筒男命 | 黒式尉 | 死霊 | 黒鳥 (八咫烏) | 陰 |
陰陽 黒と白 ⑯ 古今集真名書の田人は黒、仮名序の山人は白という謎々だった? へつづく~
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[2018/11/16 19:16]
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