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祇園祭 黒主山
陰陽 黒と白⑨ 白鳥は生霊、黒鳥(八咫烏)は死霊? よりつづきます~
①草紙洗い
7月17日、祇園祭山鉾巡行。(写真は過去のもので、現在、黒主山は 7月24日の後祭で巡行) 祇園囃子の音色とともに山鉾が、大路をがゆっくりと進んでいく。 豪華な装飾品で飾り立てられた山鉾のようすから、山鉾巡幸は『動く美術館』とも称される。 そんな山鉾の中に、桜を見上げるひとりの老人をご神体とする山がある。 黒主山である。
黒主山 御神体
謡曲に志賀という演目がある。黒主山はその謡曲・志賀をモチーフとした山である。
今上天皇に仕える臣下が桜を見ようと江州志賀の山桜を見ようと山道を急いでいたところ、薪に花を添え花の陰に休む老人と男に出会った。 この老人が大友黒主で、和歌の徳を語って消え去るが、臣下の夢の中に現れて舞を舞う。(志賀)
桜を見上げる老人は六歌仙の一人、大伴黒主だったのである。
大友黒主が登場する謡曲には『志賀』の他にも『草紙洗い』という演目がある。
小野小町と大伴黒主が宮中で歌合をすることになった。 歌合せの前日、大伴黒主は小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きした。 蒔かなくに 何を種とて 浮き草の 波のうねうね 生ひ茂るらん (種を蒔いたわけでもないのに何を種にして浮草が波のようにうねうねと生い茂るのでしょうか。) 当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まった。 小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が小町の歌は『万葉集』にある古歌である、と訴えて、万葉集の草紙を見せた。 ところが小町が草紙に水をかけると、その歌は水に流れて消えてしまった。 黒主は昨日盗み聞いた小町の歌を万葉集の草紙に書き込んでいたのだった。 策略がばれた黒主は自害を謀るが、小町がそれをとりなして和解を祝う舞を舞う。(草紙洗い)
志賀では和歌の徳を説く神として登場し、草紙洗いでは小野小町の邸に忍び込む卑怯な男として登場する大伴黒主。 いったい、彼はどのような人物だったのか。

祇園祭 黒主山
②大友黒主は古の猿丸大夫の次なり
大伴黒主は遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町らとともに六歌仙の一である。 六歌仙とは「古今和歌集仮名書」において、名前をあげられた6人の歌人のことをいう。 古今和歌集仮名書とは仮名で記された古今和歌集の序文で、紀貫之が記したと考えられている。 ただし、仮名序やには六歌仙という言葉は使われていない。 後の世になって真名序及び 仮名序に名前をあげられた六人の歌人のことを六歌仙というようになったと考えられている。
古今集仮名書は大友黒主について次のように記している。
大友黒主は そのさまいやし いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし
(大友黒主はその様子が賎しい。 薪を背負う山人が花の影に休んでいるかのようだ。)
『滋賀』では大友黒主は花(桜)の影に休む老人として登場するが、それはこの古今和歌集仮名書の文章を受けたものだと考えられる。
大友黒主は大伴黒主とも記され、小説家の井沢元彦氏は政治的に不幸だった大伴一族の霊のことではないかと言っておられる。
大伴家持は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、すでに死亡していたのだが、死体が掘り返されて流罪となった。 子の永主や大伴継人も隠岐へ流罪となった。 その後、応天門の変によって伴善男らが失脚するなどして、大伴氏は歴史の表舞台から姿をけした。 (※淳和天皇の名前が大伴親王だったので、これに憚って大伴氏は伴と氏を改めていた。)
古今集には仮名書のほかにもうひとつの序文「真名序」とよばれる漢文で記された序文がある。 仮名序は紀貫之が、真名序は紀淑望(きのよしもち)が書いたとされている。 仮名序と真名序の内容はほとんど同じだが、微妙に表現が違っている箇所もある。
たとえば、仮名書では 大友黒主は そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし。 となっているが、真名序は次のようになっている 大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。田夫の 花の前に息めるがごとし。(読み下し文)
真名序に『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』 とある。 これはどういう意味だろうか。
仮名序を書いた紀貫之は古今伝授の創始者であるという。 古今伝授とは紀貫之より代々伝えられた和歌の極意のことで、伝授する人物は和歌の第一人者に限られ、伝授の方法は主に口頭で行われた。 和歌の極意を文章に記さず口頭で伝えるのは、情報が漏洩しないようにするためだろう。
鎌倉時代には藤原定家が、父親であり師匠であった藤原俊家から古今伝授を受けている。 百人一首のそれぞれの歌には1から100までの番号が振られている。 もしかしたら定家は『大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり』という仮名序の文章を受けて、百人一首において大友黒主の正体を明らかにしているのではないか、と思ったのだ。 つまり、猿丸大夫の次の歌人が、大友黒主ではないかと。
八坂神社 かるた始め
私は百人一首を調べてみた。 百人一首では猿丸大夫は5番だった。 その次・・・6番は大伴家持だった!
また大友黒主と大伴家持はよく似た、というよりもほとんど同じ歌を詠んでいるのだ。
白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主 (白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)
白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持 (白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)
古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法のことを『本歌取り』という。 本歌取りで大切なのは、古い歌をベースにしながら、あくまでもオリジナリティのある歌を詠むことである。 大伴黒主の歌は大伴家持の歌とほとんど同じ意味なので、本歌取りではない。
ほとんど同じと思われるふたつの歌の、一方は大伴黒主、一方は大伴家持の歌であるという。 このことからも、ふたりは同一人物ではないかと思われる。
大伴氏は武力で天皇家に仕える家柄だった。 仮名序にある『薪負へる山びと』とは、矢を負う姿を喩えたものではないだろうか。
また大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。 大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったのではないだろうか。 仮名序の 『大友黒主は そのさまいやし』というのは墓から掘り出された死体の様子を言っているのではないだろうか。
真名序に『頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは死体が掘り出されたことを言っているのだろう。 『鄙し』の『鄙』は①田舎 ② いなかっぽい。ひなびている。つまらなく卑しい、などの意味がある。 『体甚だ鄙し』とは掘り出された死体がひなびている(田舎っぽい)、または卑しいということか。

一言主神社 一陽来復祭の鬼の舞
③青鬼・赤鬼・黒鬼
死体が掘り返された大伴家持の遺体はどのような状態だったのだろうか。
http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm 上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。
a.腹部が淡青藍色に変色(青鬼) ↓ b.腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼) ↓ c.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼) ↓ d.骨が露出
そしてこの死体の変化が青鬼・赤鬼・黒鬼の正体ではないかというのだ。
鬼という漢字は死者の魂をあらわすものだとされるので、この説はなるほどもっともだと思わせる。

一言主神社 一陽来復祭に登場した鬼たち
大伴黒主という名前は、家持の死体がcの段階まで進み、黒鬼のような状態になっていたところからつけられたのではないだろうか。
●万葉集を編纂した大伴家持
大伴家持は優れた歌人であり、万葉集を編纂した人物でもあった。 そして草紙洗に登場する家持以外の歌人、小野小町・紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らは古今和歌集の歌人である。
『草紙洗い』において、大友黒主=大伴家持は万葉集の中に小町の歌を書き入れているが、 『書き入れる』というのは『編纂する』という意味で、誰にでもできることではない。 万葉集を編纂した大伴家持(大友黒主)だからこそ小町の歌を万葉集に書き入れることができたというのが『草紙洗い』のテーマなのだと私は思う。
そして小野小町は「私は『古今和歌集』の時代の歌人なので、私の歌を『万葉集』に書き入れることはできませんよ」と大伴家持を諭したということだろう。
つまり、大伴家持はタイムスリップして後世に現れたという設定なのである。
また『志賀』において、黒主は和歌の徳を説いているが、これなども万葉集を編纂した大伴家持にふさわしい行為だといえるのではないだろうか。

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[2018/09/21 19:04]
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