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幻の八角七重塔 (西大寺) 

 
西大寺 皐月

西大寺 皐月


西大寺の四天王像は孝謙上皇が藤原仲麻呂の乱平定を祈願して発願したものであると伝わる。
そのご利益があったのか、藤原仲麻呂の乱は無事平定され、孝謙は重祚(再び皇位につくこと)した。(称徳天皇)
そして乱の翌年の765年、称徳天皇(=孝謙上皇)がその四天王像を安置するために創建したのが西大寺である。

西大寺の本堂前に東塔跡がある。

西大寺 東塔跡

四角い基壇がそれであるが、基壇の周囲は八角系の形に柵がめぐらされている。
東塔は当初は八角七重の塔を作る計画であり、八角の基壇が造られたが、途中で四角い基壇に造りなおされ、七重ではなく五重塔が建てられた。
八角形の柵は最初に造られた八角基壇跡である。

『続日本紀』770年2月の条に、次のような記述がある。

「東大寺の東北にある飯盛山から西大寺の塔をつくるための礎石を切り出し、西大寺まで運ぶため、数千人の人夫で引いたが1日に数歩しか動かなかった。
そこで人夫を増やし、9日かけてようやく西大寺まで運んだ。
ところが、その石を東塔の心礎として据えようとしたとき、かんなぎたちが石に祟りがあると言い出した。
そこで、芝を積んで焼き、酒をそそいで石を割り、道に捨てた。
ところが一ヶ月後、天皇が病になった。
占うと、石の祟りであると出た。
そこで捨てた石を拾い、浄地に置いた。」

奈良市高畑町に破石町というバス停がある。
現在は高畑町になっているが、江戸時代ごろには破石町という地名であったらしい。
地名の由来となった破石は『えびす屋』さんの裏庭にある。
この破石が西大寺の八角塔の礎石にする予定だった石であるともいう。

こうして称徳天皇(孝謙上皇)の八角塔を建てるという夢は実現せずに終わったのだが、称徳天皇はなぜ八角塔を建てたいと思ったのだろうか。

もともとインドで作られていた仏塔は円形だったが、中国に伝わると八角塔が多く作られるようになった。
中国の人々は八という数字は特別に縁起のいい数字だと考えていた。
一説には、八という漢字は末広がりになっているので縁起がいいのだともいう。
北京オリンピックの開催式も2008年8月8日だった。

梅原猛さんによれば、8は復活を意味する数字だという。
八角堂や八角墳は死んだ人の魂の復活を願って作られたものではないか、というのだ。

称徳天皇は自らの魂が死後復活することを願って八角塔を作ろうとしたのかもしれない。
また、称徳天皇は大変な唐かぶれであったという。
そのため唐風の八角形の塔を作りたかったのかもしれない。

日本霊異記に次のような話が記されている。
「左大臣・藤原永手が西大寺の塔を八角から四角に、七層から五層に変更したため地獄に堕ちた。」

どうやら、かんなぎたちが礎石に祟りがあると騒いだ裏には藤原永手の思惑があったようである。

西大寺が創建されたころ、称徳天皇は僧の道教を重用し、道教を次期天皇にしたいとまで考えていた。
というのは称徳天皇は女性で結婚が許されず、子供がなかったためである。
西大寺建立には当時の仏教界のトップに君臨していた道鏡の思惑が絡んでいるものと考えられている。

西大寺に当時の日本には一基もない八角七重塔が建つことが、永手には許せなかったのではないだろうか。
というのは、永手と称徳天皇、道鏡の関係が良好なものであったとは思えないからだ。

770年、称徳天皇は病に臥せるようになった。
このとき、称徳天皇の看病のために近づけたのは吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、病気平癒のための祈祷も行われていない。
そして称徳天皇崩御後、次期天皇を誰にするかについての会議が行われた。
吉備真備は分室大市もしくは分室浄三を次期天皇に推した。
藤原永手は称徳天皇の遺詔を持っていたが、そこには「白壁王を次期天皇にすべし。」と記されていた。
しかし称徳天皇は道教を天皇にしたいと考えていたはずである。  
この遺詔は永手らによって書き換えられたものだろう。
そして称徳天皇崩御後、道教は失脚して下野国に左遷となり、772年に死亡して庶民として葬られた。

基壇のまわりにめぐらされた八角形は称徳天皇の夢の跡なのである。
西大寺・・・奈良県奈良市西大寺芝町1-1-5

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[2014/05/30 21:09] 奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)