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建築の神が住む町⑮ 西陣の聖徳太子信仰 その3 

建築の神が住む町⑭ 西陣の聖徳太子信仰 その2 よりつづく~

①藤原家隆と聖徳太子と浄土宗

大報恩寺から300mほどいったところに「釘抜地蔵尊 石像寺」がある。
釘抜とは大工が用いるやっとこのことだ。
大工の棟梁と阿亀の伝説が残る大報恩寺と同じく、石像寺もまた建築の神を祀る寺だといえる。

石像寺 門

石像寺は山号を「家隆山」という。
鎌倉時代、歌人の藤原家隆がこの寺で落髪して出家し、それ以降家隆山となったのだという。

石像寺の境内には藤原家隆の墓があるが、藤原家隆の墓(家隆塚)は大阪市天王寺区の四天王寺の近くにもある。

藤原家隆は1236年に病を患って出家し、四天王寺の近くに夕日庵を結んで日想観を行ったと伝えられる。
家隆塚はその夕日庵跡に建てられている。
日想観とは、 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法のことである。

ということは藤原家隆は1236年に病を患って石像寺で出家し、その後四天王寺近くの夕日庵に移ったわけだ。
藤原家隆はなぜ石像寺で出家したのか。
それは石像寺が四天王寺と関係の深い寺だったからではないかと思う。

石像寺はもと真言宗であったが、重源(1121~1206)によって浄土宗に改められた。
家隆が出家したとき石像寺は浄土宗だったのだ。

浄土宗の開祖は法然だが、法然は藤原家隆が修した日想観と関係が深い。

法然は四天王寺別当・慈円の要請を受けて四天王寺の西門の近くに源空庵という草庵を結んだ。これが一心寺のルーツである。
その後、後白河法皇’(1127~1192)がここを訪れて法然とともに日想観を修したと伝えられる。

四天王寺 夕日

四天王寺 夕日

四天王寺は現在は和宗、かつては天台宗に属していたこともあったそうだが、浄土宗であったことはないと思う。(間違っていれば指摘をお願いします。)
しかし浄土宗と四天王寺は関係があったのだ。

四天王寺は聖徳太子が創建した寺で、聖徳太子信仰が強い。
その四天王寺と浄土宗の関係が深かったということは、浄土宗は聖徳太子信仰が厚い宗派であったと考えられる。

浄土宗の寺・石像寺で出家し、浄土宗の開祖・法然の源空庵の近くに夕日庵を結んだ藤原家隆は聖徳太子を信仰していたのではないだろうか。
また、石像寺にももちろん聖徳太子信仰があったのではないかと思う。

石像寺 絵馬

②空海はキリストになろうとした?

石像寺にはふたつの伝説が伝えられている。

a.遣唐使として唐に渡った弘法大師は、日本へ石を持ち帰り、地蔵菩薩を彫った。
そして「人々の諸悪・諸苦・諸病を救い助けん」と祈願した。
いろいろな苦しみを抜きとってくださるお地蔵様「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれるようになり、その後「くぬき」がなまって「くぎぬき」になった。


b.室町時代、両手の痛みに悩む大
商人・紀伊国屋道林がこのお地蔵さまに七日間願掛けすると、7日目の夜の夢の中にお地蔵様が現れた。
お地蔵さまは「手の痛みは、あなたが前世でわら人形に釘を打ち人をのろった報いである。」と言い、釘を抜いた。
商人が目覚めると手の痛みは治っていた。

aの伝説では苦抜地蔵は空海が刻んだものとあるが、これは「空海が成仏して地蔵菩薩になった」という意味だと思う。
その理由については下記の記事を参照してほしい。
参照/建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』 

空海が遣唐使として唐へ行ったころ、唐では景教が流行していた。
景教とはネストリウス派キリスト教のことである。
空海は景教の教えをよく知っていたはずで、空海が伝えた真言密教も景教の影響を受けているとする説がある。

密教では灌頂(かんじょう)といって頭頂に水を濯ぐ儀式を行うが
これはキリスト教の洗礼の灌水(頭部に水を注ぐ)や滴礼(頭部に手で水滴をつける)によく似ている。

また「南無大師遍照金剛」という御宝号の「遍照金剛」とは空海の洗礼名で、聖書マタイ5:16にある 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」からとったともいわれている。

遍照金剛とは大日如来のことでもある。

また大日如来とは太陽神であるといわれるが、キリストは太陽を擬人化した神だとする説がある。

地球の自転軸が約25920年の周期でコマが首を振るように回転している(歳差運動)ため、古代ローマでは南十字星が見えていたという。

南十字星が見えていたといっても、当然、南中高度は低かったはずである。
そして冬至に近づくにつれ、太陽は南中高度を下げ南十字星の南中高度に近づく。
キリストは太陽を擬人化したものであり、キリストが十字架に磔になったというのは、冬至の太陽が南十字星の高度に近づくことを比喩的に表現したものだというのである。

さらに冬至(12月22日ごろ)の太陽は南十字星の位置に3日とどまったのち、再び南中高度をあげていく。
キリストが死後3日目に復活し、生きたまま昇天したというのもまた、この太陽の動きの比喩的表現であると説明される。

遍照金剛という洗礼名を持つ空海は、自らが太陽神=大日如来=キリストになろうとしたのではないだろうか。

空海は病死して荼毘にふされたとする文献もあるが、高野山では空海は奥の院に入定し、今も修行を続けていると信じられている。

キリストは人類の罪を背負って死んだとされる。
それで空海も人類の罪を背負って死ぬため、入定したのかもしれない。

これをふまえてbの伝説を読むと「両手の痛みに悩む」とあるのが気になる。
キリストは十字架に磔になるとき、両手両足に釘を打ちこまれていた。
Mantegna, Andrea - crucifixion - Louvre from Predella San Zeno Altarpiece Verona

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Mantegna%2C_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg よりお借りしました。

アンドレア・マンテーニャ [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由


空海は高野山に金剛峯寺を開いているが、高野山は紀伊国にある。
両手の痛みに悩む紀伊国屋道林とはキリストになろうとした空海のことではないのか?

bの伝説は、空海とキリストを同一視した結果、創作されたものではないだろうか?

石像寺 絵馬2

③聖徳太子とキリスト教

聖徳太子というのは後世の諡号であり、厩戸皇子というのが彼の名前だった。
なぜ厩戸皇子という名前がつけられたのかというと、日本書紀に「厩の前で生まれた」とあり、そのため厩戸皇子と名付けられたと言われている。

キリストも馬屋で生まれたとされる。
そしてキリストは大工の息子であり、聖徳太子は大工の神として信仰されている。

キリストは12人の使徒を従えていたが、聖徳太子は冠位十二階の制度を設けている。
これらのことから、聖徳太子伝説はキリスト教の影響を受けているとする説がある。

③秦氏は原始キリスト教徒だった?

さらに聖徳太子のブレーンのひとりに秦河勝がいるが、渡来人の秦氏は原始キリスト教徒であったとする説もある。

秦氏について、日本の歴史書には次のような記述がある。

新撰姓氏録→仲哀天皇8年、弓月の王・巧満が日本の朝廷を公式訪問した。
日本書紀→応神天皇14年、弓月君が百済より移民を率いてやってきた。
古事記→秦氏は百済から渡来した。

佐伯好郎氏は論文『太秦を論ず』において、「渡来人の秦氏はキリスト教徒ではないか」とし、次のような理由をあげられた。

a.中国ではローマを『大秦』、景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院のことを『大秦寺』と言った。
秦氏は京都市右京区の太秦を本拠地としていたが『太秦』と『大秦』は点ひとつの違いである。
そして広隆寺は別名『太秦寺』とも呼ばれていた。

b.広隆寺の近くにある『蚕の社』にはめずらしい三柱鳥居があるが、これはキリスト教の三位一体説をあらわしているのではないか。

c.広隆寺の東北にある大酒神社はかつては『大辟神社』『大闢神社』といった。
大闢とはダビデの漢語訳である。

d.かつて中央アジアに弓月王国というキリスト教国があった。
日本書紀によれば、『応神天皇14年、弓月君(秦氏の祖)が百済より移民を率いてやってきた。』という記述があるが秦氏関連史跡からは新羅系の瓦ばかりが出てきて秦氏が百済系であるというのは疑わしい。
秦氏は百済からやってきたというが、秦氏の故郷は弓月王国ではないか。

蚕の社 三柱鳥居 

蚕の社 三柱鳥居


しかし佐伯好郎氏の説は下記e・fに記すように、時代考証があわないということで学会では認められなかった。

e.日本書紀応神天皇3年には百済辰斯王即位の記事がある。
百済辰斯王即位は385年であり、これが応神天皇3年のことであるとすれば応神天皇の在位年は383-423年となりこのころに秦氏は渡来したと考えられる。

f.一方景教は431年エフェソ公会議で異端として排斥され、布教の矛先を東洋に向けたというのが定説である。
秦氏が帰化した4世紀後半から5世紀前半では、まだネストリウス派は東洋に進出していない。

のちに佐伯好郎氏は秦氏はネストリウス派キリスト教徒ではなく、原始キリスト教徒だったと訂正したが、彼の説は認められなかった。

たしかに学会が言うように秦氏がネストリウス派キリスト教徒だというのは時代考証があわない。
しかし原始キリスト教徒だったというのはありえる。
日本はシルクロードの東の到達点であり、法隆寺や唐招提寺にはギリシャのパルテノン神殿と同じエンタシスの柱が残されている。

建築様式が伝わったのであれば、宗教もまた西から東へ伝えられたと考えるのが自然ではないだろうか。

④記紀は聖書の影響を受けている?

また、飛鳥昭夫さんは記紀は聖書の影響を受けているとし、次のように類似点を述べておられる。

聖書2日目/神は大空を作り大空の下と大空の上に水を分けた。
古事記神世第2代/豊雲野神 ※豊かな雲は大空の上を、野は大空の下に対応。

聖書3日目/神は地と海を作った。
古事記神世第3代/宇比地邇神・妹須比智邇神
※宇比地は泥土で海、須比智は砂土で地に対応。

聖書4日目/神は太陽に昼を治めさせ月に夜を治めさせた。
古事記神世第4代/角杙神・妹活杙神
※ヘブライ語で角・光るは同様に『krn』と記す。このため古代よりしばしば混同され、ミケランジェロがモーゼの像に角をつけてしまったという例もある。
杙は牛や馬を繋ぎとめておくためのもの。
つまり角杙神は光りながら地球のまわりを回る神(太陽)。
妹活杙神は満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女(妹)神。

聖書5日目/神は水中生物・鳥を造り、祝福して言った。生めよ、増えよ。
古事記/神世第5代/意富斗能地神・妹大斗乃弁神
※意富斗・大斗は世界。地は男性・弁は女性の意。つまり「男の世界」「女の世界」。

聖書/6日目/神は獣と人間を造り、造ったものを見て満足した。
古事記/神世第6代/於母陀流神・妹阿夜訶志古泥神
※日本書紀では面足尊。地の面が完成したこと。あやに畏し(阿夜訶志古)は賞賛を意味する。つまりすべて完成し、あやに畏しと神が満足したということ。 


キリスト教が日本に伝来したのは1549年、フランシスコ・ザビエルによって、とされているが、それよりはるか以前に伝えられ、その影響を受けて記紀は記されたのかもしれないし、神道もキリスト教の影響を受けて成立した可能性がある。

⑤ミトラス=キリスト=弥勒菩薩=布袋=聖徳太子

紀元1世紀から4世紀ごろ、ミトラ教という宗教がローマで流行していた。
ミトラ教は太陽神・ミトラスを崇拝する宗教で、キリスト教のルーツになったとする説がある。

BritishMuseumMithras

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ABritishMuseumMithras.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/BritishMuseumMithras.jpg よりおかりしました。
作者のページを見る [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


たとえばキリストの誕生日は12月25日とされているが、実は聖書にキリストの誕生日についての記述はない。
12月25日はミトラ教の冬至祭であり、キリスト教がこれをとりいれてキリストの誕生日としたのがクリスマスだといわれている。

冬至はだいたい12月22日である。
なぜミトラ教で12月22日ではなく、12月25日に冬至祭を行っていたのか。
冬至の太陽は3日間もっとも南中高度の低い位置にとどまったのち、25日ごろより再び南中高度を上げていく。
それで12月25日に冬至祭を行っていたのではないかと私は考える。

②空海はキリストになろうとした?にも書いたのだが、地球の自転軸が約25920年の周期でコマが首を振るように回転している(歳差運動)ため、古代ローマでは南十字星が見えていたという。
冬至に近づくにつれ、太陽は南中高度を下げ南十字星の南中高度に近づく。
さらに冬至(12月22日ごろ)の太陽は南十字星の位置に3日とどまったのち、再び南中高度をあげていく。
キリストが死後3日目に復活し、生きたまま昇天したというのもまた、この太陽の動きの比喩的表現であるとする説がある。

キリストは太陽を擬人化したものであり、キリストが十字架に磔になったというのは、冬至の太陽が南十字星の高度に近づくことを比喩的に表現したものだとする説がある。

とすれば、キリストとはミトラ教の太陽神ミトラスをモデルに創作されたものだということになる。

太陽神ミトラは東にもその信仰を広げていった。
インドやチベットではミトラスはマイトレーヤと呼ばれた。
イランでは、ミトラスはミスラと呼ばれていたが、ミスラ→ミフル→ミクル→ミルク→ミロクと転じ、弥勒菩薩になったと言われている。

秦河勝が聖徳太子から授かった仏像を祀るために建てたと伝わる広隆寺にある美しい弥勒菩薩半跏思惟像。

File:Maitreya Koryuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMaitreya_Koryuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Maitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。

作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭 English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


秦河勝が聖徳太子から授かった仏像とはこの弥勒菩薩像ではないかと私は考えている。
そして「聖徳太子から授かった」とは「聖徳太子の霊が、自分の本地仏である弥勒菩薩を祀れと言った」という意味だと思う。
その理由については、こちらの記事を読んでほしい。↓
建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』 

聖徳太子=キリスト=太陽神
キリスト=ミトラ=弥勒菩薩
∴聖徳太子=キリスト=弥勒菩薩=太陽神

大報恩寺に布袋の石像があったことを思い出してほしい。
布袋は弥勒菩薩の化身といわれる。

布袋=弥勒菩薩
聖徳太子=キリスト=弥勒菩薩=太陽神
∴聖徳太子=キリスト=弥勒菩薩=太陽神=布袋

となり、やはりだ大報恩寺の布袋像は聖徳太子を表すもののように思える。

千本釈迦堂 布袋像

大報恩寺 布袋像


建築の神が住む町⑯ 双子座が牡牛座をひくことで新しい年がやってくる?  につづく~
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毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2017/10/25 18:23] 建築の神が住む町 | トラックバック(-) | コメント(-)