建築の神が住む町⑦ 東向観音寺 『菅原道真が刻んだ観音』
建築の神が住む町⑥ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 よりつづく~
①事始め
北野天満宮で大福梅を求めたあと、私は楼門を出てもときた参道を引き返した。
参道を大鳥居の方に向かって歩いていくと右手(西)に東向観音寺というお寺がある。

東向観音寺
北野天満宮は大勢の参拝者で賑わっていたががいたが、東向観音寺の境内には舞妓さんがひとりいるだけでひっそりしていた。
この日、12月13日は正月準備を始める「正月事始め」の日とされている。
京都の正月に欠かせない大福梅の授与もこの日から始まるし、六波羅蜜寺の隠れ念仏もこの日から大晦日まで行われる。
ちなみに六波羅蜜寺の隠れ念仏が行われている期間、御本尊の十一面観音に御茶が献じられる。
そして正月3が日にこのお茶に梅干しと結び昆布を入れた皇服茶を参拝者に授与する。
つまり隠れ念仏を行うことは正月にかかせない皇服茶の準備であると考えられる。
それで、正月準備を行う事始めの日から隠れ念仏は行われているのだろう。
それはさておき、京都の花街ではこの日に一足早く「おめでとうさんどす」と踊りの師匠さんなどに挨拶回りする習慣があり、この習慣を「事始め」と言う。

祇園の事始め
東向観音寺で手を合わせていた舞妓さんは、事始めの挨拶回りを終えて、ここに参拝にやってきたのだろう。
②本地垂迹説
東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑が建てられていた。
この「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とはどういう意味なのだろうか。
日本では古来より神仏は習合して信仰されてきたが、その神仏習合のベースになったのが本地垂迹説という考え方である。
本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方のことである。
そして日本の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿をあらわした存在である日本の神々のことを権現、化身などといった。
例えば天照大神の本地仏は大日如来であるとか、市杵島姫は弁才天の権現であるなどとして同一視された。
天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことである。
つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮=菅原道真の本地仏である十一面観音をお祭りしています。」というような意味である。
菅原道真は十一面観音の化身であると信じられていたのだ。
④北野天満宮の神宮寺
東向観音寺は806年、桓武天皇の詔を受けて藤原小黒麿と賢璟法師が創建した寺で、もともとは朝日寺という寺名だった。
901年、左大臣藤原時平の讒言を受けて右大臣菅原道真は大宰府に流罪となり、903年、菅原道真は大宰府で死亡した。
菅原道真の遺骨は大宰府に葬られた。
947年、朝日寺の僧・最鎮(最珍)らが北野天満宮を建立し、大宰府より道真の霊を遷し祀ったといわれる。
朝日寺には西向と東向の二つのお堂があったが、西向堂はなくなって現在は東向堂のみが残っている。
東向観音寺という寺名はここからくるのだろう。
③でお話しした本地垂迹説を受け、かつて日本の神社には神宮寺が、寺には鎮守の社があった。
明治の神仏分離令・廃仏毀釈で、多くの神宮寺は神社と切り離され、また神社に転向したり、廃寺になったりした。
東向神宮寺の前身・朝日寺は前述したように北野天満宮と関係の深い寺であり、北野天満宮の神宮寺であった。
⑤伴氏廟
東向観音寺の本堂の横手には土蜘蛛の塚があり、オカルトファン必見の名所となっている。

東向観音寺 土蜘蛛の塚
土蜘蛛の塚については、こちらの記事を読んでいただけると嬉しい。→土蜘蛛の謎⑥ 燈籠の火袋が『土蜘蛛の塚』と呼ばれている理由
土蜘蛛の塚の右手には、高さ4.5メートルの巨大な五輪塔があった。
伴氏廟
伴氏廟である。
室町時代、父母の死後49日の服喪を終えたあと50日目にこの塔に詣る風習があり、そのため北野の忌明塔と呼ばれていたという。
もともとは北野天満宮の楼門の手前にある伴氏(ともうじ)社にあり、菅原道真の母の廟塔だと言われている。
道真の母親は伴氏だったのである。
伴氏社
伴氏はもともとは大伴氏と名乗っていたのだが、淳和天皇の諱が同じ大伴だったので、憚って伴氏と改姓した。
その後866年に応天門が炎上するという事件があり、大納言・伴善男が左大臣・源信の犯行であると告発した。
しかし太政大臣藤原良房の進言で源信は無罪となり、逆に伴善男父子に嫌疑がかけられて流刑となった。
これは藤原氏の他氏排斥事件のひとつだと考えられている。
これによって伴氏は没落したかに思われたが、そうではなかった。
その後、伴氏を母にもつ菅原道真が右大臣にまで上り詰めたのである。
④で述べたように、その後901年に菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、903年太宰府で亡くなってしまうのだが。
ここに伴氏廟があったり、北野天満宮の楼門前に伴氏社があるのは、菅原道真の母親が伴氏で菅原道真と伴氏の関係が深いためだろう。
⑥怨霊菅原道真が神として祭られた理由

北野天満宮
北野天満宮は菅原道真を祀る神社として、947年に朝日寺の僧・最鎮(最珍)らによって創建されたのだが、なぜ菅原道真は神として祭られたのだろうか。
道真の死後、天変地異や疫病の流行が相次ぎ、道真左遷にかかわった人々が次々に死亡した。
また、道真を左遷した醍醐天皇は第二皇子の保明親王を皇太子としていたのだが、923年に21歳の若さでで亡くなってしまった。
そのため、保明親王の子の慶頼王を皇太子としたが、925年、わずか5歳で亡くなってしまう。
皇太子の相次ぐ死を醍醐天皇は道真の怨霊の仕業ではないかとおびえたことだろう。
その後、930年に清涼殿に落雷が落ちるという事件がおき、道真の怨霊に対する人々の畏れはピークに達する。
清涼殿落雷事件の3か月後に醍醐天皇は崩御しているが、これは醍醐天皇が道真の怨霊を怖れるあまりノイローゼになってしまったためだといわれている。
また、940年には東国で平将門の乱が、941年には南海で藤原純友の乱が起り、これらも菅原道真の怨霊の仕業と考えられた。
菅原道真は文武両道に長けた優秀な人物であったとされる。
しかし、道真が神として祀られたのは、彼が優秀な人物であったためではない。
現在ではある能力に長けた人物のことを尊敬の意を込めて「神」と呼ぶことがある。
例えばマイケル・シェンカーは「ギターの神様」、B・B・キングは「ブルースの神様」などと言われる。
しかし古における神とは能力に長けた人物のことではなかった。
陰陽道では荒ぶる神(怨霊)は十分にお祭りすればご利益を与えてくださる神に転じると考えるという。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天変地異は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていた。
菅原道真は藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、数年後に死亡した。
その後、疫病の流行や天変地異があり、それらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられた。
そのため、道真を神として祭り、道真の怨霊を和霊に転じさせようと考えられたのだろう。
現在では菅原道真は学問の神として全国の受験生から厚い信仰を集めている。
立派な人物であるということで神として祀られるようになるのは、時代が下がった戦国時代や江戸時代だと考えられる。
たとえば、豊臣秀吉や徳川家康は自らが神として祀られることを望み、彼らを祀る神社が作られた。
豊臣秀吉を祀る神社は豊国神社、徳川家康を祀る神社は東照宮である。
⑦怨霊を神として祭る御霊神社
怨霊を神として祭る神社は数多くある。
御霊神社もそうした神社のひとつである。
下御霊神社(女性は葵祭に登場された方です。/合成)
京都の下御霊神社では八所御霊と称して吉備聖霊(吉備真備?)崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原大婦人(藤原吉子)・藤原広嗣・橘逸勢・文屋宮田麻呂・火雷神・を祀っている。
火雷神は六座の(下御領神社では吉備聖霊は六座の心霊の和魂としているため)荒魂とされているが、他の六柱はいずれも実在した人物で不幸な死を迎え、死後怨霊になったと信じられた人物ばかりである。
吉備真備は称徳天皇崩御後、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、辞職している。
早良親王は桓武天皇の弟で皇太子にたてられていたが、藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となった。
無実を訴えてハンガーストライキを行い、淡路島へ流される途中、船の中で憤死したと伝わる。
藤原吉子は桓武天皇の婦人で伊予親王を生んだが、謀反の疑いで伊予親王とともに川原寺に幽閉され、伊予親王を道連れにして自殺した。
藤原広嗣は大宰府に左遷となり、反乱をおこしたが、捕えられて処刑された。
橘逸勢は承和の変に関与したとして伊豆へ流罪となる途中の船上で死亡した。
文屋宮田麿も謀反を企てたとして伊豆へ流罪となったが、のちに無実であるとして慰霊されている。
しかし八所御霊は神として祀りあげられた結果、現在では人々にご利益を与えて下さる神として信仰されている。
菅原道真のケースと全く同じである。
⑦菅原道真が自ら刻んだ十一面観音
「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と石碑に記された十一面観音とは、東向観音寺の御本尊の十一面観音のことだろう。
この十一面観音は961年に菅原道真が刻んだものだと伝わっている。
なんと、菅原道真は文武両道に秀で、優秀な政治家であったのみならず、仏像を刻んだというのである。
菅原道真が刻んだと伝わる十一面観音は大阪府葛井寺市の道明寺にもある。

十一面観音像 〈道明寺)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/ElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg よりお借りしました。
作者 OGAWA SEIYOU(1894-1960) a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
上の写真は菅原道真が刻んだという道明寺の十一面観音である。
政治家が片手間に刻んだものとはとても思えない素晴らしいもので、国宝となっている。
道明寺
私は東向観音寺の十一面観音を拝観したいと思った。
道明寺の十一面観音と作風を比較してみたかったのだ。
しかし東向観音の十一面観音は秘仏とされていて、この日は拝観することはできなかった。
正直に言おう。
私は菅原道真が道明寺の素晴らしい十一面観音を刻んだとはとても思えないのだ。
菅原氏は学者の家柄で、政治家になれるような高い家柄ではなかった。
菅原道真の右大臣という地位は、菅原氏としては破格の大出世だといえる。
それは菅原道真が頭脳明晰、武芸にも優れ、政治家として抜きんでた才能を持っていたということだろう。
その上、仏師としての腕も一流で、国宝に指定されるほどの作品を残したとはとても信じられない。
東向観音寺の十一面観音も実際に菅原道真が刻んだものではないだろう。
「菅原道真が自ら仏像を刻んだ」というのは「怨霊であった菅原道真が成仏して十一面観音になった」ということを比喩的に表現したのではないだろうか。
現在でも人が死んだことを「成仏した」とか、死んだ人のことを「仏さん」と言うではないか。
日本で神仏が習合されて信仰されていたのは、神=怨霊を、人々にご利益を与えてくださる和魂=仏教の神に転じさせるという信仰があったためではないだろうか。
成仏するということは煩悩を捨てることだ。
怨霊が煩悩を捨てれば祟らなくなる。
そして道真の怨霊が確かに成仏した、ということを目に見える形にしたのが道明寺や東向観音寺の十一面観音像なのだと私は思う。
仏教用語辞典によれば
『諸仏菩薩には法身と生身の二身が有り、生身(しょうしん)、法身(ほっしん)所証の理体を法身といい、衆生を済度する為に、父母に胎を託して生じる肉身を生身という。』とある。
つまり、生身とは人間のことであり、菅原道真とは生身の菩薩だということになると思う。
建築の神が住む町⑧ 北野天満宮 雪 朮詣 『天神さんは黄泉の神で1年の変わり目の神だった』 につづく~
建築の神が住む町① 北野廃寺『北野廃寺は蜂岡寺跡?それとも野寺跡?』 ← トップページはこちら
記事の順番を入れ替えました。すいませーん。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
土蜘蛛の塚の右手には、高さ4.5メートルの巨大な五輪塔があった。

伴氏廟
伴氏廟である。
室町時代、父母の死後49日の服喪を終えたあと50日目にこの塔に詣る風習があり、そのため北野の忌明塔と呼ばれていたという。
もともとは北野天満宮の楼門の手前にある伴氏(ともうじ)社にあり、菅原道真の母の廟塔だと言われている。
道真の母親は伴氏だったのである。

伴氏社
伴氏はもともとは大伴氏と名乗っていたのだが、淳和天皇の諱が同じ大伴だったので、憚って伴氏と改姓した。
その後866年に応天門が炎上するという事件があり、大納言・伴善男が左大臣・源信の犯行であると告発した。
しかし太政大臣藤原良房の進言で源信は無罪となり、逆に伴善男父子に嫌疑がかけられて流刑となった。
これは藤原氏の他氏排斥事件のひとつだと考えられている。
これによって伴氏は没落したかに思われたが、そうではなかった。
その後、伴氏を母にもつ菅原道真が右大臣にまで上り詰めたのである。
④で述べたように、その後901年に菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、903年太宰府で亡くなってしまうのだが。
ここに伴氏廟があったり、北野天満宮の楼門前に伴氏社があるのは、菅原道真の母親が伴氏で菅原道真と伴氏の関係が深いためだろう。
⑥怨霊菅原道真が神として祭られた理由

北野天満宮
北野天満宮は菅原道真を祀る神社として、947年に朝日寺の僧・最鎮(最珍)らによって創建されたのだが、なぜ菅原道真は神として祭られたのだろうか。
道真の死後、天変地異や疫病の流行が相次ぎ、道真左遷にかかわった人々が次々に死亡した。
また、道真を左遷した醍醐天皇は第二皇子の保明親王を皇太子としていたのだが、923年に21歳の若さでで亡くなってしまった。
そのため、保明親王の子の慶頼王を皇太子としたが、925年、わずか5歳で亡くなってしまう。
皇太子の相次ぐ死を醍醐天皇は道真の怨霊の仕業ではないかとおびえたことだろう。
その後、930年に清涼殿に落雷が落ちるという事件がおき、道真の怨霊に対する人々の畏れはピークに達する。
清涼殿落雷事件の3か月後に醍醐天皇は崩御しているが、これは醍醐天皇が道真の怨霊を怖れるあまりノイローゼになってしまったためだといわれている。
また、940年には東国で平将門の乱が、941年には南海で藤原純友の乱が起り、これらも菅原道真の怨霊の仕業と考えられた。
菅原道真は文武両道に長けた優秀な人物であったとされる。
しかし、道真が神として祀られたのは、彼が優秀な人物であったためではない。
現在ではある能力に長けた人物のことを尊敬の意を込めて「神」と呼ぶことがある。
例えばマイケル・シェンカーは「ギターの神様」、B・B・キングは「ブルースの神様」などと言われる。
しかし古における神とは能力に長けた人物のことではなかった。
陰陽道では荒ぶる神(怨霊)は十分にお祭りすればご利益を与えてくださる神に転じると考えるという。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天変地異は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていた。
菅原道真は藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、数年後に死亡した。
その後、疫病の流行や天変地異があり、それらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられた。
そのため、道真を神として祭り、道真の怨霊を和霊に転じさせようと考えられたのだろう。
現在では菅原道真は学問の神として全国の受験生から厚い信仰を集めている。
立派な人物であるということで神として祀られるようになるのは、時代が下がった戦国時代や江戸時代だと考えられる。
たとえば、豊臣秀吉や徳川家康は自らが神として祀られることを望み、彼らを祀る神社が作られた。
豊臣秀吉を祀る神社は豊国神社、徳川家康を祀る神社は東照宮である。
⑦怨霊を神として祭る御霊神社
怨霊を神として祭る神社は数多くある。
御霊神社もそうした神社のひとつである。

下御霊神社(女性は葵祭に登場された方です。/合成)
京都の下御霊神社では八所御霊と称して吉備聖霊(吉備真備?)崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原大婦人(藤原吉子)・藤原広嗣・橘逸勢・文屋宮田麻呂・火雷神・を祀っている。
火雷神は六座の(下御領神社では吉備聖霊は六座の心霊の和魂としているため)荒魂とされているが、他の六柱はいずれも実在した人物で不幸な死を迎え、死後怨霊になったと信じられた人物ばかりである。
吉備真備は称徳天皇崩御後、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、辞職している。
早良親王は桓武天皇の弟で皇太子にたてられていたが、藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となった。
無実を訴えてハンガーストライキを行い、淡路島へ流される途中、船の中で憤死したと伝わる。
藤原吉子は桓武天皇の婦人で伊予親王を生んだが、謀反の疑いで伊予親王とともに川原寺に幽閉され、伊予親王を道連れにして自殺した。
藤原広嗣は大宰府に左遷となり、反乱をおこしたが、捕えられて処刑された。
橘逸勢は承和の変に関与したとして伊豆へ流罪となる途中の船上で死亡した。
文屋宮田麿も謀反を企てたとして伊豆へ流罪となったが、のちに無実であるとして慰霊されている。
しかし八所御霊は神として祀りあげられた結果、現在では人々にご利益を与えて下さる神として信仰されている。
菅原道真のケースと全く同じである。
⑦菅原道真が自ら刻んだ十一面観音
「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と石碑に記された十一面観音とは、東向観音寺の御本尊の十一面観音のことだろう。
この十一面観音は961年に菅原道真が刻んだものだと伝わっている。
なんと、菅原道真は文武両道に秀で、優秀な政治家であったのみならず、仏像を刻んだというのである。
菅原道真が刻んだと伝わる十一面観音は大阪府葛井寺市の道明寺にもある。

十一面観音像 〈道明寺)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/ElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg よりお借りしました。
作者 OGAWA SEIYOU(1894-1960) a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
上の写真は菅原道真が刻んだという道明寺の十一面観音である。
政治家が片手間に刻んだものとはとても思えない素晴らしいもので、国宝となっている。

道明寺
私は東向観音寺の十一面観音を拝観したいと思った。
道明寺の十一面観音と作風を比較してみたかったのだ。
しかし東向観音の十一面観音は秘仏とされていて、この日は拝観することはできなかった。
正直に言おう。
私は菅原道真が道明寺の素晴らしい十一面観音を刻んだとはとても思えないのだ。
菅原氏は学者の家柄で、政治家になれるような高い家柄ではなかった。
菅原道真の右大臣という地位は、菅原氏としては破格の大出世だといえる。
それは菅原道真が頭脳明晰、武芸にも優れ、政治家として抜きんでた才能を持っていたということだろう。
その上、仏師としての腕も一流で、国宝に指定されるほどの作品を残したとはとても信じられない。
東向観音寺の十一面観音も実際に菅原道真が刻んだものではないだろう。
「菅原道真が自ら仏像を刻んだ」というのは「怨霊であった菅原道真が成仏して十一面観音になった」ということを比喩的に表現したのではないだろうか。
現在でも人が死んだことを「成仏した」とか、死んだ人のことを「仏さん」と言うではないか。
日本で神仏が習合されて信仰されていたのは、神=怨霊を、人々にご利益を与えてくださる和魂=仏教の神に転じさせるという信仰があったためではないだろうか。
成仏するということは煩悩を捨てることだ。
怨霊が煩悩を捨てれば祟らなくなる。
そして道真の怨霊が確かに成仏した、ということを目に見える形にしたのが道明寺や東向観音寺の十一面観音像なのだと私は思う。
仏教用語辞典によれば
『諸仏菩薩には法身と生身の二身が有り、生身(しょうしん)、法身(ほっしん)所証の理体を法身といい、衆生を済度する為に、父母に胎を託して生じる肉身を生身という。』とある。
つまり、生身とは人間のことであり、菅原道真とは生身の菩薩だということになると思う。
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