建築の神が住む町⑨ 北野天満宮 新春奉納狂言 福の神 『福の神の正体』
懲りもせず、年があけた1月3日にも北野天満宮にでかけた。
北野天満宮で初詣(朮詣)をしたのはつい数日前のことだというのに。
この日北野天満宮に出かけたのは、北野天満宮境内の神楽殿で新春奉納狂言が行われると聞いたからだ。
①末広がり 春日山は縁起のいい山
主人に「末広がり(扇のこと)を買ってこい」と命じられた太郎冠者はすっぱ(詐欺師)に「末広がりとは傘のことだ」と騙され、傘を買って戻った。
太郎冠者が扇ではなく傘を買って戻ってきたので主人は機嫌が悪くなるが、太郎冠者がすっぱに教わった歌を謡うと機嫌がなおるという筋である。
大蔵流では「傘を差すなる春日山、これもかみのちかいとて、人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」(大蔵流)と謡うそうである。

情けないことに、古語のヒアリングができず、歌詞はよく聞き取れなかった。(すいません)
しかし、北野追儺狂言でも「人が傘を差すなら、われも傘を差そうよ…」と謡う部分は聞き取れた。
春日山は奈良市の春日大社の裏にある花山と御蓋山(三笠山)の通称である。
狂言にでてくる春日山は三笠山(御蓋山)のことではないかと思う。
三笠山という山名は、傘をさしたような山の形からくる。
それで「傘を差すなる春日山」と謡っているのだと思う。

向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山
三笠山は春日大社の御神体として古くから信仰されていた。
いわば三笠山は神の住む山、神聖なる山であり、その山の形も末広がりで大変縁起がいいということで、怒っていた主人の機嫌が直ったのだろう。
②附子 附子が甘い砂糖に変わった話
主人が「この桶には猛毒の附子(トリカブト)が入っているので近づくな。桶から流れてくる空気を浴びただけでも死んでしまう。」と言って外出した。
しかし太郎冠者と次郎冠者が桶に近づき、扇子で風を起こしてみてもなんともない。

そこで桶の中に入っているものを少しなめてみたところ、それは砂糖だった。
二人は桶の中の砂糖を全部なめてしまった。
主人が家に戻ると二人が大泣きしており、主人が大切にしていた茶碗と掛軸が壊れていた。
二人は主人に「茶碗と掛軸を壊してしまったので死のうと思い、附子を食べたが死ねない」と言った。
もちろん、茶碗と掛軸を壊したのは、二人の策略である。
江戸時代以前、砂糖は輸入品でたいへん高価なものだった。
そのため主人は使用人に食べられてはたいへんと、毒と偽ったのだろう。
また、不美人のことをブスというのは、附子(トリカブト)に含まれる成分・アコニチンによって神経障害がおこり、顔の表情筋が不随となって醜い顔になるためだと言われる。
猛毒の附子が甘くておいしい砂糖に変わった話だととらえることもでき、
そういうことからおめでたい狂言として新春に演じられているのかもしれない。
③福の神
動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。
2人の信者が年籠(大晦日の夜、神社や寺にこもり、新年を迎える事)をするため出雲の社にやってくる。
年が変わるころ、二人は「福は内、福は内」と、豆を撒いた。(動画06:10あたり)

④大晦日に豆まきをする理由
豆まきとは節分に行うものではなかったか。なぜ二人は大晦日に豆まきを行うのか。
延暦寺のお坊様に伺ったところ、昔は節分ではなく大晦日に追儺式を行っていたといい、現在でも延暦寺では大晦日の12月31日深夜に追儺式を行っている。
追儺式が終わるとちょうど新年になるようプログラミングされているのだ。

延暦寺 追儺式
建築の神が住む町⑤ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』
↑ こちらの記事に、大晦日と節分の関係について説明したが、これを簡単にまとめておこう。
かつての日本では旧暦と二十四節気の二つの暦を併用していた。
大晦日・・・太陽太陰暦(旧暦)の12月晦日(12月最後の日、1年の最後の日)
節分・・・・二十四節気の立春の前日(立春より新年になると考えられており、節分は二十四節気の大晦日だといえる。)
これが混同した結果、旧暦では新年を大々的に祝い、二十四節気では大晦日である節分に追儺式を行うようになったのではないだろうか。
豆まきは追儺式の中で行われることが多い。
そのため、豆まきもかつては追儺式が行われる大晦日に行われていたのだろう。
⑤酒の神・松の尾の大明神
話を狂言「福の神」に戻そう。
「福は内、福は内」と豆をまくと、そこへ福の神が高笑いしながら登場する。
この福の神がなかなかの呑兵衛で、ふたりにお神酒を催促する。
お神酒を神に差し出すと、まず「神々の酒奉行」である松の尾の神にお神酒をささげ、それから自分も飲み干した。

そして次のように言う。
「豊になるには元手がいる。元手とは金銀・米などではなく、心持ち。
早起き、慈悲、人付き合いを大切にすること、夫婦仲よくすること、
そして私のような福の神に美味しいお神酒をたくさんささげること。」
福の神がお神酒をささげた松の尾の大明神とは松尾大社の神のことだろう。

松尾大社の神様は酒の神として信仰されている。
それで福の神は自分が飲むよりも先にまず松の尾の大明神にお神酒をささげたのだろう。
松尾大社で11月に行われる上卯祭でも狂言・福の神が奉納されている。
随分昔に松尾大社・上卯祭の狂言・福の神を見にいったことがあるが、北野天満宮で演じられているものとほぼ同様の内容だったと思う。
⑥福の神は蛭子神?それとも大国神?
福の神は出雲大社の神だと考えられる。
出雲大社の神とは大国主命だ。
つまり大国主命が松尾大明神に酒をささげているわけだ。
しかし福の神は烏帽子をかぶっている。
烏帽子をかぶるのは蛭子神の装いである。
大国主は大黒天と習合されているが、大黒天は頭巾をかぶっている。
恵比寿神は大国主の息子の事代主のことだとされることもある。
そして神が子を産むとは、神が分身をつくるという意味だとする説もある。
恵比寿神=事代主は大国主の分身ということで、出雲の神は恵比寿神=事代主の装いをしているのかもしれない。

長田神社 蛭子と大黒
⑦日本最古の酒神は三輪大明神
松尾の神は酒神として信仰されているが、なぜ酒神とされるのかについては明確になっていない。
また松尾の神が酒神として信仰されるようになったのは、狂言「福の神」が作られた室町時代だと言われている。
日本で最古の酒神といえば、奈良県桜井市にある大神神社の神、大物主神である。
崇神天皇代、疫病が流行したので、天皇は高橋活日命(タカハシイクヒノミコト)に酒を造らせて大物主神にお供えをしたところ、疫病が沈静したという。
そのため、大物主神は酒造の神”と崇めらてきたのだ。
⑧神殿を作らないのは物部氏の祭祀スタイル?
大神神社は古事記・日本書紀にも登場する神社で、日本最古の神社ではないかともいわれている。
祭祀のスタイルからして古い。
神社というのは神殿があり、拝殿があるというのが一般的である。
しかし大神神社には神殿はなく、拝殿から直接ご神体の三輪山を拝する。
「大神神社に何度神殿を作っても作っても壊れた。そのため拝殿だけを作った」というようなことを聞いた記憶がある。

大神神社の御神体・三輪山
大阪府交野市にある星田妙見宮にも神殿がなく、大神神社と同様の伝説が伝えられている。
「神殿を何度作っても焼けてしまうので、神は神殿をのぞんでいないのだ、として拝殿のみをつくった」というのである。

星田妙見宮
交野市には星田妙見宮だけでなく、磐船神社・片埜神社の境外社の瘡(くさがみ)神社 など神殿のない神社がいくつかある。

磐船神社拝殿と御神体・天の磐船

片埜神社の境外社・瘡(くさがみ)神社の拝殿 拝殿の奥にある沼を御神体とする。
交野市付近はかつて肩野物部氏の本拠地であった。
物部氏の祖神・ニギハヤヒは初代神武天皇が日向より東征して畿内入りする以前に、天の磐船を操って天下ったと記紀に記述がある。
交野市の磐船神社の御神体はニギハヤヒが乗っていた天の磐船と呼ばれる巨岩であり、もちろん磐船神社の御祭神はニギハヤヒである。
ニギハヤヒが神武よりはやく畿内に天下っていたという記紀の記述から、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。
そしてニギハヤヒは『先代旧事本紀』では、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)となっている。
大神神社の御祭神・大物主神は別名を倭大物主櫛甕魂命という。
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊と大物主櫛甕魂命は【櫛】【玉(魂)】が共通するので、同一神ではないかという説がある。
そして、どちらの神社も神殿を持たない。
ということは、神殿を持たないのは物部氏の祭祀スタイルなのではないだろうか。
また大物主とニギハヤヒは同一神で、どちらも物部氏の神なのではないか?
⑨松尾大社の神にパクリ疑惑?
松尾大社はなぜ酒神として信仰されているのだろうか。
それは松尾大社が大神神社の伝説をパクったためではないかと思う。
大神神社の主祭神・大物主神が矢に姿を変えて川を流れていき、ミシマノミゾクヒの娘・セヤダタタラヒメのほとをついたとうい伝説がある。
これと全く同じ伝説が下鴨神社・上賀茂神社・松尾大社にも伝えられているのだ。
下鴨神社・上賀茂神社の伝説では矢に姿を変えたのはオオヤマグイノカミで、ほとをつかれたのはタカモタケツノノミコト(ヤタガラス)の娘のタマヨリヒメ、生まれた子供が賀茂別雷大神となっており
カモタケツノノミコトとタマヨリヒメは下鴨神社に、賀茂別雷大神は上賀茂神社に祀られている。
そして丹塗りの矢に姿を変えたオオヤマグイノカミは松尾大社の主祭神なのである。

上賀茂神社

下鴨神社
大神神社の伝説は記紀にも記されており、日本最古の神社であるとも言われている。
⑧で見たように、その祭祀スタイルも古い。
そういう理由から、秦氏のほうが物部氏の伝説をパクったように思える。
松尾大社は秦氏の氏神なのだが、秦氏は他にも紀氏の神であった稲荷神を、自らの神と偽ったと思われる例もある。
参照/小野小町は男だった⑪ 深草少将は紀氏だった?
⑩大神神社の神官・オオタタネコは秦氏だった?
10代崇神天皇が大物主の子孫のオオタタネコに大神神社の大物主を祀らせたところ
大物主の祟りがおさまった、と記紀に記述がある。
このオオタタネコは秦氏のオウ氏ではないかという説がある。
⑧でみたように、大物主は物部氏の神だと考えられる。
大物主の子・オオタタネコが大物主の子でありかつ秦氏であるとするなら、オオタタネコの母親が秦氏なのだろう。
するとミシマノミゾクヒ・セヤダタタラヒメ父娘が秦氏なのか?
それともカモノタケツノノミコト・タマヨリヒメ父娘が秦氏なのか?
いずれにせよ、オオタタネコは物部氏の神・大物主と秦氏の女性との間に生まれたのではないだろうか。
そしてオオタタネコもしくはオオタタネコの子孫の秦氏は、大神神社を物部氏の神殿を持たない祭祀スタイルではなく、神殿を持つ祭祀スタイルに改めようとしたことだろう。
ところが神殿を建てるたびに火災が起こるなどして壊れた。
もしかすると、自らの祭祀スタイルにこだわる物部氏が、神殿に放火したのかもしれない。
そこで大物主は神殿のある秦氏スタイルではなく、神殿のない物部スタイルを好んでいると考えられたのだろう。
そして秦氏は神殿をつくることはあきらめ、神殿の代わりに、三輪山の手前に三つ鳥居をおくことを思いついたのだろう。
http://oomiwa.or.jp/keidaimap/02-mitsutorii/(大神神社の三つ鳥居の写真)

檜原神社 三つ鳥居 これと同様の形をした鳥居が大神神社拝殿の向う側にあり、申し込めば拝観できるそうだ。
大神神社の三つ鳥居が秦氏によって建てられたと考えるのは、秦氏の本拠地である京都・太秦の蚕の社に、三つ鳥居を立体的にしたような三柱鳥居があるからだ。

蚕の社 三柱鳥居
⑪大物主はなぜ神殿を嫌ったのか
ときどき秦氏は大物主を嫌ったため、神殿をつくらなかったのではないか、という人がいる。
しかし私はそうは思わない。
秦氏が大物主を嫌って神殿をつくらなかったのではなく、大物主または物部氏が神殿をつくることを拒んだのだと思う。
物部氏には、やはりそれまでの自分たちの祭祀スタイルにこだわりがあっただろう。
また、出雲大社の大国主が出雲の国譲り神話の中でこんなことを言っていることに注意したい。
「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる。
その代わり、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。
私はそこへ籠って外に出ない。また百八十神たちを天津神に従わせる。」
大神神社の大物主はこの大国主の幸魂・奇魂とされている。
大国主の前に光り輝く神があらわれ、大国主が名を問うと神は「私はあなたの幸魂・奇魂」と答えた。
こうして祭られたのが、大神神社だとされているのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E9%AD%82%E3%83%BB%E5%92%8C%E9%AD%82
↑ こちらのサイトによると、幸魂は愛、奇魂は智、和魂は親、荒魂は勇と説明されている。
つまり、大国主と大物主は同一神だと考えていいだろう。
大物主とはニギハヤヒのことで物部王朝の王または神だと考えられるが、九州からやってきた神武天皇に政権を奪われてしまったのだろう。
しかし、大物主は大国主と同じようには答えず、こう答えたのではないだろうか。
「天津神にこの国は差し上げない。天の御子が住むような大きな宮殿などいらない。
宮殿の中に籠ったりはしない。百八十神たちも天津神に従わせない!」
⑫福の神は大物主だった?
福の神は出雲の神、大国主だと考えられるが、大神神社の御祭神・大物主神は大国主の幸魂・奇魂なので、大国主と大物主は同一神と考えられる。
呑兵衛の福の神はわが国最古の酒神・大物主神なのではないか。
大物主神はわが国最古の酒神であるとも考えられる。
その大物主神の化身・福の神が、松尾の神に酒を捧げる・・・・。
それは本物の酒の神が、ニセモノの酒の神に酒を捧げているように私には見えた。
建築の神が住む町⑩ 北野追儺狂言 『福部の神は瓢の神で、丑を牽いて去る神だった?』 へつづく~
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