建築の神が住む町⑩ 北野追儺狂言 『福部の神は瓢の神で、丑を牽いて去る神だった?』
①北野天満宮は鬼をとじこめる神社
京都では節分に四方(よも)詣りをする習慣がある。
京都の四方詣とは、京都御所の北東の吉田神社、南東の八坂神社、南西の壬生寺、北西の北野天満宮の四つの神社仏閣を参拝することをいう。

吉田神社 鬼やらい神事

吉田神社 鬼やらい神事
八坂神社 節分祭
※壬生寺では節分の日に大念仏狂言が行われますが、撮影禁止です。
鬼は、吉田神社で追い払われ、八坂神社に逃げる。
八坂神社でも鬼は追い払われ、壬生寺に逃げる。
壬生寺でも鬼は追い払われ、北野天満宮に逃げてきて、ここで封じ込められるというわけだ。
北野天満宮は鬼を封じ込める神社だと言ってもいいだろう。
②北野追儺狂言と踊念仏と鉢叩き
北野天満宮では節分の日に北野追儺狂言が行われる。
北野天満宮の境内にある福部社の神が、鬼を追い払う様子を狂言にしたものが北野追儺狂言であるという。
梅の枝を持った神職さんたちが神楽殿に登場。
神職さんと茶筅売りたちは瓢箪をたたいて謡う。
これは踊念仏だろう。
踊念仏とは平安時代に空也上人が始めたといわれ、鉦・太鼓・瓢(ひょうたん)などを叩いて念仏を唱えるもので
空也堂の空也忌などで現在も行われている。↓
空也堂 空也歓喜踊躍念仏
また北野追儺狂言は『鉢叩き』でもある。
空也堂の僧侶たちは鉢や瓢箪を叩きながら和讃を唱えるなどして金銭を得ていた。
そのため、彼らは『鉢叩き』と呼ばれていた。
特に年末(旧暦11月13日から大晦日まで)に瓢箪を叩きながら手作りの茶筅を売り歩く習慣が近年まであった。
空也堂の僧以外にもこれを行う者が出てきたようで、江戸時代には門付け芸(人家の門前で芸能を行って金品をもらうこと)となり、広く全国で行われたようである。
この習慣のことも『鉢叩き』と呼ばれている。
③節分に年末の風物詩・鉢叩きが演じられる理由
つまり、鉢叩きは年末の風物詩ということなのだが、なぜ節分の日の北野追儺狂言で鉢叩きが演じられるのだろうか。
前回までの記事をお読みいただいた方にはおわかりだろう。
かつての日本では旧暦と1太陽年を24に分割した二十四節気という暦を併用していた。
節分とはもともとは二十四節気の立春・立夏・立秋・立冬の前日を意味する言葉であったが、しだいに立春の前日のことをさすようになった。
二十四節気の新年は立春(新暦の2月4日ごろ)であり、立春の前日の節分は二十四節気の大晦日であった。
つまり、旧暦と二十四節気という暦法の違いはあるが、大晦日も節分も1年で最後の日であったのである。
参照/建築の神が住む町⑤ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』
本来鉢叩きは旧暦の11月13日から大晦日まで行われる行事だったのだが、節分は二十四節気の大晦日なので北野追儺狂言で鉢叩きを演じているのかもしれない。
また、もともと追儺式は節分ではなく大晦日に行われていたといわれる。
北野追儺狂言もルーツをたどると、節分ではなく大晦日に行われていたという可能性もある。
④お茶を飲むことは目には見えない年の移り変わりを視覚化したもの
建築の神が住む町⑤ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』
にも書いたように、京都では正月にここ北野天満宮で授与された梅干し・大福梅を入れた大福茶を飲む習慣がある。
北野天満宮で求めた大福梅
また六波羅蜜寺では正月3が日に梅干しと結び昆布を入れたお茶・皇服茶を授与している。
六波羅蜜寺 皇服茶
北野天満宮の大福梅と六波羅蜜寺の皇服茶の由来はほとんど同じである。
【北野天満宮/大福梅】
村上天皇が北野天満宮の梅星を入れたお茶を召し上がったところ、病が平癒した。
そのため王も服したお茶から王服茶と呼ばれるようになり、さらにこれに慶字をあてて大福茶となった。
【六波羅蜜寺】
951年、疫病が流行ったとき、空也は病人に梅干しと結び昆布の入ったお茶を飲ませた。
村上天皇も召し上がったところ、病が平癒した。
そこで皇帝も服したお茶という意味で、皇服茶と呼ばれるようになった。
また、空也堂の僧侶たちが年末に売った茶筅でたてた抹茶のことも大福茶という。
霊山寺(奈良)では正月に初福茶(抹茶)を授与している。
京都の正月とお茶は切ってもきれない関係であったようであるが、梅干しをいれた王福茶や皇服茶の意味については
建築の神が住む町⑤ 大福梅授与 『目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない』 ですでにご説明した。
梅は1月1日または2月3日の誕生日とされる。
旧暦1月1日は元旦で梅の花が咲き始めるころである。
新暦2月3日は旧暦1月と同時期で節分(暦法・二十四節気の大晦日)である。
そして12か月を干支でいうと、12月は丑月、1月は月である。
二十四節気では小寒(新暦1月6日ごろ)から立春(新暦2月4日ごろ)までが丑月、立春(新暦2月4日ごろ)から啓蟄(新暦3月6日ごろ)までが寅月、である。
1月1日(旧暦)・・・旧暦の新年・・・・・・・・・・・寅
2月3日(新暦)・・・二十四節気の大晦日(節分)・・・丑
となり、梅は丑寅、12月と1月の中間で、「変わり目」をあらわしているのではないかと思う。
そして、これを飲み干すことで、目には見えない年の移り変わりを視覚化したおまじない、これが大福梅・皇服茶・大福茶の意味なのだろう。
鉢叩きが売る茶筅でたてた抹茶にも丑寅=年の変わり目という意味があるのだろうが、その理由については今のところ私にはわからない。
⑤福部の神=瓢の神?
北野天満宮の神楽殿に鬼が登場した。
福の神が現れると福の神が何をしたわけでもないのに、鬼は調伏されてしまう。
鬼は豆をまかれて退散し、狂言は終了した。
福の神は北野天満宮の摂社・福部社の神である。
福部社の神はお多福の面をつけている。
つまり、福部社の神はお多福だということになる。
福部(ふくべ)は語呂合わせから瓢(ふくべ)に通じる。
瓢とは狂言の中で茶筅売りたちがたたいていた瓢箪(ひょうたん)のことである。
そしてお多福の顔は瓢箪に似ている。
福部の神は語呂合わせで瓢の神に転じた結果、瓢(瓢箪)のような顔をしているのではないだろうか。
さらに瓢の神は語呂合わせから福の神へと転じたのではないかと思う。
北野追儺狂言が終了したのち、芸舞妓さんたちによる豆まきが行われた。
⑥福部社の神は牛(丑=12月)を牽く神
福部社の御祭神は十川能福(そごうののうふく)という名前で、菅原道真の舎人(牛車を牽く牛の世話役)とされる。
「牛を牽く」というのは『丑=12月を牽く』という意味につながる。
丑=12月を牽いて去ってしまえば正月がくるということで、福部社の神・十川能福は二十四節気の大晦日・節分にふさわしい神だといえる。
断言はできないが、年末の鉢叩きで瓢箪をたたく習慣は、福部社の神=瓢(ふくべ/ひょうたんのこと)の神=十川能福が『丑=12月を牽く』神であるところから生じた可能性もあると思う。
平安時代、二十四節気の大寒の日に宮中では諸門に牛を牽く童子の像が置かれたという。
これらの像は節分の翌日の立春に撤去されていたそうだ。
なぜこういうことをしていたのかというと、やはり「丑=12月を牽き去ると正月がくる』という意味があったのだろうと思う。
また宮中の諸門に牛を牽く童子の像が置かれたというが、童子は八卦では丑寅をあらわす符であった。
丑=12月、寅=1月である。
そして童子は丑寅はを表す符なので、丑寅=12月と1月の中間となり、童子は「年の変わり目」をあらわすものだと考えられる。
大寒の日に「牛を牽く童子の像」を諸門に置き、立春に撤去するというのは、童子=丑寅(年の変わり目)が牛=丑(12月)を牽き去るということを意味していたのだろう。
この習慣は、正月に大福茶・皇服茶を飲むのと同じく、目には見えない年の移り変わりを視覚化したものだといえる。
⑥十川能福は菅原道真の遺体を乗せた牛車を牽く童子?
十川能福が菅原道真の牛車を牽く牛の世話係と聞いて、私は10月に行われている北野天満宮の祭礼・瑞饋祭を思い出していた。
建築の神が住む町④ 北野天満宮 瑞饋祭 『ずいき神輿には秀吉が、牛車には菅原道真が乗っている?』
上記記事に記したように、私はこの牛車には道真の霊が乗っていると思う。
北野天満宮の御祭神・菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、数年後に死亡した。
道真の亡きがらは牛車に乗せられて運ばれたが、途中牛が動かなくなった。
その場所に道真は葬られ、その上に社をたてたのが大宰府天満宮だという。
行列の牛車は道真の亡きがらが運ばれていくシーンを再現したものではないかと思うのだ。
牛車は牛が牽くが、さらにその牛には綱がつけられて、二人の男性が牽くことが多かったようである。
上の写真は葵祭の行列に登場した牛車だが、北野天満宮・瑞饋祭の行列に登場した牛車と同様、牛を赤い着物を着た二人の童子が牽いている。
福部社の神=十川能福は「菅原道真の牛車を牽く牛の世話係」だというが、それは「牛車を牽く牛を牽く童子」なのではないか。
菅原道真の霊を乗せた牛車の牛を牽く赤い着物の二人の童子、彼らが十川能福なのではないか?
⑦十川能福は二人の童子の総称だった?
「十川能福は一人ではないか」
そうおっしゃられるかもしれないが、私は二人の童子の総称が十川能福だと思う。
その理由を説明しよう。
北野追儺狂言は福部社の神が鬼を追い祓う狂言であった。
福部社の神は十川能福なので、十川能福が鬼を追い祓うという狂言なのである。
狂言の具体的な内容は、お多福が登場すると、鬼は調服されてしまうというものだった。
つまり、十川能福はお多福なのである。
なぜ十川能福はお多福のような顔をしているのか?
中国には次のような伝説がある。
あるとき大洪水がおこって多くの人間が死んだが、伏羲と女媧という兄妹は巨大なヒョウタンの中に隠れていたので無事だった。
兄妹は結婚して子供を産み、人類の祖となった。
瓢箪にはふたつのふくらみがある。このうち、大きいほうのふくらみが伏羲、小さいふくらみが女媧というわけだろう。
伏羲と女媧
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AAnonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg よりお借りしました。
作者 匿名 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
十川能福は菅原道真の牛車を牽く二人の童子が和合した神なので、瓢のようなお多福の顔をしているのではないだろうか。
「伏羲は男神、女媧は女神である。しかし牛車をひく童子はふたりとも男だ。男神と男神が和合するのはでおかしい。」
そんな反論があるかもしれない。
だが、男と男が和合体して、瓢(瓢箪)の神になったと思われる神がいる。
七福神の福禄寿と寿老人だ。
福禄寿と寿老人はともに南極老人星を神格化した神だとされ、どちらも頭部が長い。
寝屋川戎神社
滋賀県の西教寺を参拝したとき、寺内で福禄寿の像を見たのだが、この福禄寿の頭部は瓢箪型をしていた。
福禄寿や寿老人の頭部が長いのは、もともとは二神の頭部が瓢箪型であり、福禄寿と寿老人が和合した神であることを示しているのではないだろうか。
さらに寿老人は「不死の霊薬を含む瓢箪を運ぶ」とされており、福禄寿と同様、瓢箪と関係が深い。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AUnidentified_Artist_Untold_Stories_in_Japanese_Mythology.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/31/Unidentified_Artist_Untold_Stories_in_Japanese_Mythology.jpg
よりお借りしました。
作者 unidentified artist (Honolulu Museum of Art) [Public domain], ウィキメディア・
上は福禄寿と僧侶のBLを描いた絵であるが、福禄寿が同じ男神である寿老人と和合した神というイメージからこのような絵が描かれたのではないかと思う。
⑧福部の神は服部の神?
私は昔読んだ池田理代子さんの漫画を思いだしていた。
たしか「おにいさまへ・・・」という作品だったと思うが、主人公の女子高生が、校内マイクで「服部さん」を「ふくべさん」と言って呼び出してしまうシーンがあったのだ。
福部社の神は、もともとは服部社だったなんてことはないだろうか。
服部氏は秦氏の末流だとされているのだが。
最後に、話がややこしくなってしまったかもしれないので、内容をまとめておく。
【まとめ】
もともとは服部(はっとり)の神だった?
↓
福部(ふくべ)の神 ※服部は「ふくべ」と読める。※北野追儺狂言は福部社の神が鬼を追いはらう狂言
↓
瓢(ふくべ/瓢箪のこと)の神 ※北野追儺狂言で鉢叩き(瓢箪をたたくこと)が行われる。
↓
お多福(瓢箪のような顔をしている。)※北野追儺狂言にお多福が登場する。
福部(ふくべ)の神
↓
十川能福
↓
菅原道真の牛車の牛の世話役
↓
牛=丑=12月で、12月を牽いて去る神。12月が去れば新年がくる。
↓
牛車は二人の童子によって牽かれる。
↓
瓢(瓢箪)にはふたつのふくらみがあり、二人の童子が合体していることを表している?
福部の神はお多福の顔をしており、瓢(瓢箪)に似ている。
建築の神が住む町⑪ 大報恩寺 おかめ節分 『大報恩寺に残る聖徳太子信仰?』 につづく~
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