建築の神が住む町③ 北野天満宮 瑞饋祭 『ずいき神輿には秀吉が、牛車には菅原道真が乗っている?』 よりつづく~
①筋違いの本殿
北野廃寺跡から東へ400mほど歩くと北野天満宮の参道が見えてくる。
松並木が続く参道を北へ、まっすぐ歩いていくと楼門だ。
北野天満宮参道
北野天満宮 楼門上の地図を見ていだくと、楼門と三光門、本殿(三光門の真上の北野天満宮の文字があるところ)が一直線に並んでおらず、楼門から三光門、本殿がやや東にずれていることがわかる。
これは北野天満宮の七不思議のひとつで、「筋違いの本殿」と呼ばれている。
北野天満宮 本殿神社の本殿は参道の正面にあるのが一般的なのだが、北野天満宮の楼門参道の正面には地主神社がある。
ここにはもともと地主神社があり、その後菅原道真公を祀る神社が建てられたのだが、その際、もともとここに鎮座していた地主神社の正面を避けて道真公を祀る神社を建てたためであるという。
地主神社②菅原道真、天神になる。菅原道真は才能のある人物で、低い家柄の出であるにもかかわらず右大臣の地位にまで上り詰めた人物だった。
それを左大臣の藤原時平が嫉妬し、醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言した。
藤原時平の言葉を真に受けた醍醐天皇は、道真を大宰府に左遷した。
道真は数年後失意のうちに太宰府で亡くなった。
その後、都では相次いで天災がおこり、疫病が流行した。
醍醐天皇は保明親王を皇太子としていたが、21歳の若さで薨御してしまった。
そこで醍醐天皇は保明親王の子の慶頼王を皇太子としたが、またしても薨御。わずか5歳だった。
そんなところへ、清涼殿に落雷が落ち、道真左遷にかかわった人々が相次いで亡くなった。
これらは菅原道真の怨霊の仕業であると考えられた。
醍醐天皇は清涼殿落雷事件の3か月後にノイローゼになって崩御されたといわれている。
北野天神縁起には清涼殿で暴れる鬼(雷神/天神)が描かれているが、この鬼は道真の怨霊なのだろう。

『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AKitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Kitano_Tenjin_Engi_Emaki_-_Jokyo_-_Thunder_God2.jpg
よりお借りしました。
作者 不明 [Public domain または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で③本来の天神は菅原道真ではなかった。
こんなことを聞いたことがある。
「もともと天神さんとは菅原道真のことではなかった。しかし、清涼殿の落雷が菅原道真の怨霊によるものだとされたことで、天神さんとは菅原道真のこととされるようになった。」
おそらく地主神社の神は雷神であったのだろう。
ところが清涼殿落雷事件などが道真の怨霊の仕業であると考えられたため、道真こそが雷神であると考えられ、もともと雷神が鎮座していた土地に道真は祀られることになったのではないだろうか。
とすれば、もともとここに祀られていた地主神社の御祭神とはどんな神だったのだろうか?
御土居より北野天満宮を望む
④北野廃寺と地主神社の関係は?
私は北野白梅町駅の東北の角にある小さな石碑を思い出していた。
その石碑には「北野廃寺跡」と刻まれており、かつて石碑前の交差点を中心として225m四方に及ぶ寺域を持つ寺があったと考えられている。
ここ北野天満宮の地主神社はその石碑から600mほど東北に位置する。
北野天満宮の境内にある地主神社は北野廃寺から近い場所にあったのだ。
そして江戸時代までの日本では神仏は習合して信仰されていた。
神仏習合のベースとなったのは本地垂迹説という考え方である。
本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿を表したものとする考え方で
日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを本地仏、仏教の神々は仮にこの世に姿を現した日本古来の神々のことを権現といった。
例えば天照大神は大日如来の権現であるとか、スサノオの本地仏は牛頭天皇であるなどと考えられていたのである。
もしかして北野天満宮境内にある地主神社に祀られている神は、北野廃寺の本尊を本地仏とする権現なのではないだろうか?
とすれば、北野天満宮の本尊と地主神社の神は習合されており、同一の存在であると考えられていたことになるのだが。
北野天満宮 宝物殿